107 棚田嘉十郎はなぜ宮跡保存の功労者になれたのか。(前編)

~明治・大正期平城宮跡保存運動の深層~

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平城宮跡朱雀門前の棚田嘉十郎像

序章 「文化財保存」の先覚者

 平城宮跡は、1300年前の奈良時代の宮の姿が地下に眠っています。国の特別史跡になり世界遺産にもなっています。宮の正門である朱雀門の前には棚田嘉十郎のブロンズ像がそびえています。宮跡保存に大きな功績があったということで立ちました。この像が建立されたのは1990年です。伸ばした右手は北北東を指さし、その先には第二次大極殿の基壇跡があります。左手は出土した瓦を提げます。

 像の横にプレートがあり、嘉十郎の略歴が刻まれています。

 万延元年(1860)、現在の奈良市須川町に生まれる。明治の中頃、奈良公園で植樹の仕事に携わっているとき、観光客から平城宮跡の位置を問われ、荒れ放題の宮跡に保存の意を強める。明治35年(1902)、地元での平城宮跡保存の運動が高まると嘉十郎も参加、平城神宮の建設をめざしたが、資金面で行き詰まる。

 以来、嘉十郎は、自費で平城宮跡の保存を訴え、上京を繰り返し、多くの著名人から、賛同の署名を集める。そのようななかで、地元の有志・溝辺文四郎らは、嘉十郎の運動に協力し多くの援助をおこなった。

 明治43年(1910)、平城奠都1200年祭が企画されると、嘉十郎は当時の知事に協力を得て、御下賜金300円をたまわるなどして成功に導く。その後、大正2年(1913)徳川頼倫を会長に念願の「奈良大極殿址保存会」が組織され、大極殿に標石28基を配置するとともに記念碑を建てて往時の遺構を永久に保存することを決め、嘉十郎の労が日の目を見ることとなった。

 しかし、用地買収が軌道にのりだして間もなく、嘉十郎が推薦した篤志家が約束を破ったことの責任を痛感し、大正10年(1921)8月16日自刃、嘉十郎は61歳の生涯を閉じた。

 棚田への評価をひと言で言うと、「文化財保存の民間の先覚者」ということだと思います。学者でもなく社会的な名士でもない一介の庶民が、「文化財の大切さ」にいちはやく気づいて保存に生涯を捧げた。平城宮跡保存の立役者としてばかりではなく、文化財保存の先覚者として意味づけされるようになりました。

 宮跡の国による全域保存買上げが決まったのは1960年代始めです。それまでは宮跡の約50haは史跡指定地だったのですが、指定地外に近鉄の操車場の建設が計画されました。それに反対する声が盛り上がり、国を動かして、宮跡の全域が史跡に指定され保存されることになりました。平城宮跡の保存はマスコミに報道されるところとなり、これに関連して明治の保存運動も取り上げられ、その中で棚田の存在が知られるようになりました。60年代から「開発か保存か」という問題が全国的な課題として浮かび上がり、棚田が文化財保存の先覚者としてヒーローのような存在になっていきました。

 明治・大正の保存運動について、その詳しいことはほとんど明らかになっていません。嘉十郎も有名なわりには、実際に彼が行ったことについて詳細に解説した文献はなきに等しい状態です。今回、嘉十郎の足跡をたどるために参考にした主な史料は、5つあります。いずれも奈良県立図書情報館で閲覧できます。

『追親王跡去昇天我父之経歴』(嘉十郎聞書き 大正時代 私家版)
「溝辺文四郎日記」(『明治時代平城宮跡保存運動史料集』(2011年 奈文研)
『奈良大極殿址保存会事業経過概要』(1923年 保存会)
『史蹟精査報告第二 平城宮址調査報告』(1926年 内務省
「棚田嘉十郎・平城宮関係新聞切り抜き」(明治~昭和 私家版)

 これらを調べてようやく保存運動の経過と棚田の活動について具体的な事柄が見えてきました。もちろん十分とは言えませんが、これらの資料をひもとき浮かび上がってきたのは、従来の保存運動と棚田嘉十郎のイメージと異なるものです。それは三つの論点にまとめられます。

 第一に〈当時の保存運動を推進した動機・思想は何か〉
 平城宮跡の価値というのは現在では言うまでもなく文化財ということです。しかし歴史的な文化財という考え方は、明治時代にはまだ一般の人にまで普及した概念ではありませんでした。当時の人が宮跡の保存をめざした動機は、現在の私たちが持つ価値観と必ずしも同じではありません。

 第二に〈棚田の運動が宮跡の保存に結びついたのは何故か〉
 保存運動にかかわった人は他にもいて組織も作られたのですが、それらは成功せず、結局棚田が突出するような形で行動し保存が実現しました。それは略歴にもあった通りです。何が彼を功績者に導いたかということです。

 第三に〈棚田の自刃の真相と、それがおよぼした影響〉
 棚田の自刃はショッキングな出来事です。だが、その真相に触れるような解説はどこにもありません。先ほど紹介した略歴には、「嘉十郎が推薦した篤志家が約束を破ったことの責任を痛感し自刃した」とありましたが、それ以上の説明はどこにもありません。何か触れてはいけないようなタブーとして扱われている感じがします。自刃の真相とそれが及ぼした影響について考えてみたいと思います。

 

第一章 平城神宮の夢 ~1904年(明治37)

  棚田嘉十郎は万延元年(1860)に添上郡東里村大字須川(現在の奈良市須川町)で生まれます。須川町は大柳生の北側に隣接する山地です。

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棚田嘉十郎

 木挽職に従事していたのですが、明治20年(1987)に奈良市東笹鉾町10番地に移り住み、植木商を営みます。東笹鉾町は奈良県庁の北側にある町です。いわゆるキタ(北)町として現在も奈良の町家を多く残す地区です。この頃から整備の始まった奈良公園や御陵に植樹しました。公園で仕事をしている最中に観光客から「奈良の宮の跡はどこにありますか」と聞かれることがあり、「法華寺のあたり」と答えていました。「法華寺御所」という言葉を聞くことがあったからです。

 明治29年(1896)に、知人から都跡村に「大黒の芝」と呼ばれる土壇が田んぼのなかにあり、地元ではそこが宮跡と言われていることを教えられます。実際に訪ねると、土壇は草ぼうぼうであり、牛の糞が堆積していました。それを見て「なんと畏れ多いことか」と胸が痛み涙を流します。

 明治32年(1899)に棚田は京都府笠置村の後醍醐天皇の行在所跡を見学し、地元の人たちによって保存・顕彰されているのを知ります。これに感動し、平城宮跡の保存を決意しました。

 平城宮跡は長い間忘れられていました。幕末、藤堂藩藩士の北浦定政が現地調査や古文書から平城京の条坊を復元したのが、平城京研究の先駆けとなりました。明治23年(1890)に奈良県に古社寺保存の専門家として赴任した関野貞が、定政が残した復元図を参考に宮跡について詳細な調査と研究を行います。明治33年(1900)に彼は地元の新聞に「平城宮大極殿遺址考」を発表します。これにより初めて一般の人にも平城宮跡の所在が知られるようになります。

 これが地元の保存運動のきっかけとなったのでしょうか。翌年、都跡村の有志が「平城宮址顕彰会」を結成し「大黒の芝」に標木を建てます。棚田も加わって楓などを寄付して植樹しています。このときの趣意書には平城神宮建設をめざすことが早くも表明されています。しかし「平城宮址顕彰会」はこれ以上の活動もせず解散します。

 棚田は北浦定政が描いた宮跡の地図を印刷して配布したり、宮跡から出土した瓦を買い上げ、これと思った人に献上していました。明治34年(1901)5月に奈良で赤十字総会があり、総裁の小松宮親王が来県されました。棚田は知人をとおして瓦や礎石などを献上しました。小松宮から呼び出しがあって拝謁を受けました。県知事や軍の高官が居並ぶなか旅館の菊水楼の庭に進み出た棚田は、小松宮じきじきに「保存事業は汚れのないように行え」とのお言葉を賜りました。

 皇室崇敬の念が強い棚田には皇族じきじきの拝謁と激励は、最高の栄誉だったでしょう。これにより彼の運動に賭ける信念は強固になりました。また拝謁は彼が「錦の御旗」を得たことであり、このあと貴顕貴官らにあって賛同署名をもらうときの有力な援軍になったと思います。

 棚田は運動の協力者を求めて、佐紀村出身の神戸で雑貨商を営んでいた溝辺文四郎に会い盟約を結びます。溝辺は棚田より8つ年上で歴史好きな人でした。溝辺は地元の人との交渉や説得を担当し、資金援助を行いました。

 棚田は県会議員の青木新次郎に働きかけます。棚田の訴えに共鳴した青木議員は、都跡村の有力者を集めて会の結成を呼びかけます。生駒郡郡長を会長、都跡村村長を副会長とする「平城神宮建設会」を結成します。何回も会議は持たれるのですが、しかし実際の運動までにはいたりません。会長たちが平安神宮のことを調べるために出張するのですが、それで用意した運動資金の大半を浪費するようなことがあって人心が離れ、この会もたいしたこともできず自然消滅しました。

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「平城神宮未来図」

 この絵図は、この時期に描かれたものです。佐紀池の北側に神宮の敷地をとり、一条通りから参道が伸びています。男性天皇女性天皇を別にした二つの本殿があります。大極殿と朝堂の基壇はそのまま保存するという案のようです。結局ヴィジョンだけで終わりました。

 明治36年(1903)、棚田は来県していた大久保利貞陸軍少将に賛同署名簿につける趣意書の清書をしてもらいます。それを持って、来県する華族や大臣らの社会的名士に宮跡保存の賛同署名を頼んで回ります。署名を次々と得ていきます。普通なら一介の植木職人がこんなことをやっても会ってももらえないでしょう。やはり小松宮の拝謁がモノをいったのでしょう。

 その年のうちに何回も上京して署名活動を行いました。このときは四條畷神社宮司、土方直行に紹介状を書いてもらったようです。

 当時奈良には日刊の新聞が4紙あって競い合っていました。棚田の運動は絶好のネタになりました。彼もそれに積極的に応じました。昨日は誰それの署名を得たというようなことがこと細かに報じられたのです。だから棚田の活動はよく知られるところとなりました。しかし、こういう運動スタイル、身分をわきまえない売名的とも思える活動には当然反発・反感も生じます。「詐欺師」「山師」「狂人」という悪評も立ちました。それを気にするような人ではありませんでした。

 こういうわけで棚田の署名活動は反響を呼ぶわけですが、明治37年(1904)に日露戦争が勃発し運動は中断します。

 家業を顧みず、身銭を切っての運動なので、たちまち家計は窮迫します。子供に着せる着物もなくて浴衣で冬も登校したからいじめられたとか、税務署が差し押さえに来たが差し押さえ状を貼り付ける米粒もなくて呆れられたとかのエピソードが聞き書きの中にたくさん出てきます。

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平城宮旧址紀年翼賛簿」

 これが、棚田が集めて回った署名簿です。「平城宮旧址紀年翼賛簿」と表紙にあります。発起人の棚田と溝辺の署名が最初にあります。署名した子爵岡部長挙(ながとも)、奈良県知事川路利恭、伯爵正親町(おおぎまち)の名が見えます。棚田がやったことは、高位高官に直接面会して宮跡の保存を訴えそれへの賛同の署名をもらうということに尽きます。その際、運動資金として寄付の申し出があったりしたのですが、それを断り手弁当でやったことで棚田の気持ちは純粋だという評価が上がりました。

 

第2章 平城奠都1200年祭 1905年(明治38)~1910年(明治43)

 翌年、日露戦争終結し、棚田と溝辺は運動を再開します。県庁の社寺担当の技師であった塚本慶尚が、平城神宮の設計図を引き見積もりをします。総額約21万7千円の見積もりとなりました。県議会も建設建議を可決します。

 明治39年(1906)1月、棚田らは上京して平城神宮建設の請願を帝国議会に提出します。溝辺が300円提供してロビー活動にあてました。大和新聞の記者、今武次郎がロビー活動を行っています。しかし、請願は本会議を通過せず内務省預かりとなりました。

 平城神宮建設のもくろみが失敗したことについて考えたいと思います。明治34年に都跡村の有志が自主的に結成した「平城宮址顕彰会」の目的が神宮の建設でした。宮跡の保存は顕彰と一体であり、顕彰の究極の方法は神宮を創建することだったのです。これは明治28年に京都の奠都1100年祭を記念して創建された平安神宮の成功が刺激になっていると思います。平安神宮は寄付金10万円を募ったところたちまち全国から30万円集まり、その資金で創建されました。平城神宮は地元の都跡村では歓迎されましたが、奈良県全体からすると本当にどれほどの関心と支持があったのか疑問です。当時の内務省社寺局長が棚田にアドバイスしたところでは、「組織を作って自己資金4万円を集めなさい」と言ったそうです。現状はそれからはほど遠かったのです。

 もっとも当時の国家神道にとって必要な存在だと国が判断すれば、国が主導して神宮創建されたでしょう。たとえば橿原神宮吉野神宮がそうですね。平城神宮はそういうものでもなかったということです。

 国会の請願は通らなかったのですが、宮跡の保存の必要性は認識していた県当局が動き出します。実務トップの内務部長が中心になって「平城宮址保存会」が結成されます。会員は県と市の役人、議員、地元の有力者らで棚田や溝辺も加わります。しかし、運動の目標が神宮建設から建碑に変更するに及んで、地元の人は「それでは土地が取られるばかりで村の利益にならない」ということで離れていきます。役人も転勤などで一定せず、この会も霧散消滅してしまいます。この頃が保存運動にとっては冬の時代でほとんど動きがありません。

 再び動き出すのは、明治43年(1910)に平城奠都1200年祭の行事が計画されてです。行事の一環として建碑を目的にした募金活動が行われます。これは新しい組織はつくらず、県がバックアップして棚田と溝辺が募金活動をしたのですが、社会的地位もない個人が募金活動をするというのは無理がありました。

 しかし、棚田の人脈が生きて御下賜金300円が下りるという幸運がありました。御下賜金とは、皇室から直々に下される資金ということです。これがあって県当局も前面に出てきて郡市町村に発破をかけて募金活動が進められます。

 奠都1200年祭は主会場を平城宮跡にして11月の3日間にわたって挙行されました。主催者には県知事、奈良市長、都跡村長に並んで棚田、溝辺も加わりました。

 当時はのんびりしていて、挙行が本決まりになったのは1カ月前です。それまでは準備が整わないから来年にしようという案が有力だったそうです。しかし、知事が1200年というのは今年だからということで決まったといいます。これは溝辺日記に出てきます。 

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平城宮址建碑計画趣意書」

 これは、明治43年に棚田と溝辺が建碑のための募金活動をしたとき配布した趣意書です。実は明治36年に棚田が賛同署名簿につけた趣意書、この二つは同一文で字句を少し変えたものです。陸軍中将大久保利貞記とありますが、実際に起草したのは奈良の生き字引と呼ばれ奈良女子高等師範学校教授だった水木要太郎です。だから、ここに明治の保存運動の思想がこめられていると考えても間違いはないと思います。

 内容は平城宮保存の意義を説いて、「之を荒蕪に委して空しく古を懐ふ、固より忠愛なる臣民の至情には非ず、必ずや之を顕彰し之を保存して永く以皇徳瞻仰景慕(こうとくせんぎょうけいぼ)の誠意を尽くす」と訴えます。言葉は難しいですが、「平城宮跡を荒れたままにしておくことは、皇室に忠愛なる臣民の真心にはそぐわない。保存顕彰することは、皇室の徳を仰ぎ見て慕うという臣民の誠意を尽くすことである」との意味です。この趣意書にあるように、当時の保存運動の第一の動機は、皇室への崇敬の念であったわけです。崇敬の念を形に表すことが、宮跡の保存・顕彰であったわけです。

 明治にあっては、史跡は文化財であるという観念はめばえていたでしょうが、まだ普及はしていなかったのです。

 もっともこれも建前と本音というのがあって、佐紀の住民は神宮なら歓迎するが、記念碑にはそっぽを向きました。つまり村の発展につながるかどうかというのが本音であったわけです。生活を第一に考えれば、佐紀の住民の反応にも一理あると思います。

 その点で、棚田は建前と本音の一致を生活を犠牲にすることで純粋につきつめていったと言えます。(108 棚田嘉十郎はなぜ宮跡保存の功労者になれたのか(後編)に続く)