102 仏像鑑賞の近代的幕開け――和辻哲郎著『古寺巡礼』

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 和辻哲郎の『古寺巡礼』が刊行されたのは、1919(大正8)年であった。刊行100年を迎える書物は仏像鑑賞の古典として今も書店に並ぶ。

 著者の和辻哲郎(1889~1960)は兵庫県生まれ、倫理学者、夏目漱石門下で東洋大・京大・東大教授を務めた。人間存在を間柄存在としてとらえる道徳論の展開に特色がある。風土論をはじめ文化史にも業績が多い。著作には『日本精神史研究』、『人間の学としての倫理学』、『風土―人間学的考察』、『倫理学』、『鎖国 日本の悲劇』などがあり、『和辻哲郎全集』増補版(全25巻 別巻2)が出る。文化勲章を受章している。

 『古寺巡礼』は著者30歳の著作である。1918年5月に和辻は奈良旅行を行った。その紀行文を雑誌に数回にわたって連載、それを中心に、他の雑誌にも発表した文章を加えて翌年に出版された。

 和辻は東京帝大文学部哲学科で学び、ニーチェキルケゴールの研究書を20歳代で世に出している。奈良の仏像との出会いは前年、東京帝大美術史教室の見学旅行に同伴したのが最初であり、そのとき強い感動があった。ふたたび友人等とともに訪れ、奈良ホテルを拠点に新薬師寺、奈良帝室博物館、浄瑠璃寺興福寺東大寺法華寺唐招提寺薬師寺當麻寺法隆寺中宮寺を5日間でめぐっている。人力車も利用する忙しい旅行であり、博物館や各寺院の見学では特別な待遇を受けたとはいえ、それぞれの寺院の滞在や仏像との対面は短時間の一度きりである。そんな条件で古典となるような本が書かれたことに驚く。

 本書は仏像を美術品として鑑賞するすべを定着させたと評価されている。それに間違いはないが、美術品としての仏像という見方は著者の独創ではない。時代背景として仏像や寺院が明治維新以後どのような扱いを受けてきたか見ておきたい。

    廃仏毀釈から古社寺保存法へ

 1868年の神仏分離令廃仏毀釈の動きに発展し、仏像・仏具の破壊や売却による散逸が進行した。このような現状に危機感をだいた政府は1888(明治20)年から全国の社寺を対象とする宝物調査を実施した。約10年をかけて21万点の宝物が調査された。この調査で主導的な役割を果たしたのが、フェノロサ岡倉天心である。法隆寺東院夢殿の秘仏・救世観音が彼らによって数百年のヴェールを解かれたことは有名である。

 調査の成果をもとに「古社寺保存会」が設置され、1897(明治29)年に現在の文化財保存法につながる「古社寺保存法」が公布された。そして「歴史」的にまたは「美術」的に貴重な遺物は「国宝」に指定され、文化財として保護・保存の途が図られた。

 「歴史」も「美術」も明治になって生まれた言葉であり、西欧由来の概念はしだいに社会に普及していく。岡倉天心は1890年に『日本美術史』を著し、古美術を時代別に位置づけ特徴を考察した。これ以降、学問としての古美術研究がスタートを切る。東京、京都、奈良に創設された博物館は宮内庁管轄の帝室博物館となり、多くの仏像を展示し見学者の便を図った。こうして明治の後半には仏像を美術品として鑑賞する習慣はすでに生まれていた。

    古美術鑑賞の国際的視点

 和辻はもちろん西欧から輸入された学問としての美学や美術史に通じていた。そして彼自身、ギリシャ古典を正統とする美意識になじんでいた。本書は仏像ばかりではなく仏画や建築、伎楽面、さらに風呂まで取り上げられるが、その感覚的な印象とともに東西異文化の交流・影響の視点からの考察がつねにともなう。ギリシャ、中東、インド、西域(中央アジア)、中国、朝鮮という文化の伝播ルートのなかにおいて古美術に照明が与えられる。なかでも強調されるのは、ギリシャ古典文化→ガンダーラ美術→中国→日本という流れである。このような論点は、古美術を入り口に当時の読者の視野を世界的なスケールに広げる非常に斬新なものだったと想像できる。本書は戦時中一時絶版になっている。出征する兵士からもう一度本を手にして大和をめぐりたいという要望が多くきたものの再刊できなかったのは、本書のコスモポリタン的な叙述が、当時の国粋主義に染まったムードの中で「危険思想」視されたからであろう。

    聖林寺十一面観音立像

 ギリシャ彫刻の写実性を取り入れてガンダーラで仏像が誕生した。中国に入り仏像として洗練され、日本の風土の中で独自な展開を遂げたというのが、和辻の基本的な見立てである。彼が絶賛した仏像の一つである聖林寺十一面観音立像は次のように語られる。

 かくてわが十一面観音は、幾多の経典や幾多の仏像によって培われて来た、永い、深い、そうしてまた自由な、構想力の活動の結晶なのである。そこにはインドの限りなくほしいままな神話の痕跡も認められる。……またそこには抽象的な空想のなかへ写実の美を注ぎ込んだガンダーラ人の心も認められる。……また沙海のほとりに住んで雪山の彼方に地上の楽園を望んだ中央アジアの民の、烈しい憧憬の心も認められる。……さらにまた、極東における文化の絶頂、諸文化融合の鎔炉、あらゆるものを豊満のうちに生かし切ろうとした大唐の気分は、全身を濃い雰囲気のごとくに包んでいる。……人の心を奥底から掘り返し、人の体を中核にまで突き入り、そこにつかまれた人間の存在の神秘を、一挙にして一つの形像に結晶せしめようとしたのである。  このような偉大な芸術の作家が日本人であったかどうかは記録されてはいない。しかし唐の融合文化のうちに生まれた人も、養われた人も、黄海を越えてわが風光明媚な内海にはいって来た時に、何らか心情の変移するのを感じないであろうか。……われわれは聖林寺十一面観音の前に立つとき、この像がわれわれの国土にあって幻視せられたものであることを直接に感ずる。……  きれの長い、半ば閉じた眼、厚ぼったい瞼、ふくよかな唇、鋭くない鼻、――すべてわれわれが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、また超人を現わす特殊な相好があるわけでもない。しかもそこには神々しい威厳と、人間のものならぬ美しさとが現わされている。薄く開かれた瞼の間からのぞくのは、人の心と運命とを見とおす観自在の眼である。豊かに結ばれた唇には、刀刃の堅きを段々に壊(やぶ)り、風濤洪水の暴力を和やかに鎮むる無限の力強さがある。円く肉づいた頬は、肉感性の幸福を暗示するどころか、人間の淫欲を抑滅し尽くそうとするほどに気高い。これらの相好が黒漆の地に浮かんだほのかな金色に輝いているところを見ると、われわれは否応なしに感じさせられる、確かにこれは観音の顔であって、人の顔ではない。(岩波文庫『古寺巡礼』61頁)

 こういう描写が5頁にわたって続く。本書の魅力は感覚的な印象を表現する流麗な文章にあることは確かだろう。該博な知識と自在な想像力が注ぎこまれる。美術作品を見たり音楽を聴いたりしてそれを美しいと感じたり快くなる体験は珍しくないが、それがどう美しいのか、どう快いのか言葉で表現することは難しい。だからその感覚や感情が言葉で巧みに表現されたとき、われわれは自分の思いがピタリと言い当てられたような気がして、感動をさらに深める。本書が多くの熱心なファンを得たのもそのためである。

 取り上げられる仏像は数多く、現代のわれわれにもなじみのあるものばかりである。ガイドや解説書で見たり読んだりする定番の仏像なのであるが(もちろん現在有名な仏像で本書に上がっていないものも多い。たとえば阿修羅像、伎芸天など)、100年前、大和古美術の啓蒙書の嚆矢となりバイブルとなった本書に紹介されることで、はじめて一般に知られるようになったのだろう。もちろん『古寺巡礼』がなくてもこれらの仏像は高い評価を与えられていたことに間違いはないが、紹介されたことで認知度が格段に上がったのである。なじみがあると感じるのも当然なのである。

    古美術鑑賞と人格主義

 和辻がもっとも惹かれた仏像は聖林寺十一面観音をはじめ薬師寺東院堂聖観音立像、薬師寺金堂薬師如来座像、法隆寺金堂壁画中尊阿弥陀像・脇侍像、中宮寺半跏菩薩像である。徹底した写実、端正な形態、健康で理想的な美はギリシャ古典の美意識になじんだ彼の好みであるが、同時代の読者に素直に受けいれられた。

 「人体を神的な清浄と美とに高める」十一面観音像、「彼岸の願望を反映する超絶的なある者が人の姿を借りて現れた」聖観音像、「人間そのものを写して神を示現した」薬師如来像、「永遠なる命を暗示する意味深い形」の法隆寺金堂壁画、「一つの生きた貴い力強い慈愛そのものの姿」である半跏菩薩像、と言葉を尽くした最大級の賞賛は美術品の鑑賞というよりも美的感動を通して法悦に浸っている印象がある。和辻は本書で次のようにあらかじめことわっている。

  われわれが巡礼しようとするのは「美術」に対してであって、衆生救済の御仏(みほとけ)に対してではないのである。たといわれわれがある仏像の前で、心から頭を下げたい心持ちになったり、慈悲の光に打たれてしみじみと涙ぐんだりしたとしても、それは恐らく仏教の精神を生かした美術の力にまいったのであって、宗教的に仏に帰依したというものではなかろう。宗教的になり切れるほどわれわれは感覚をのり超えてはいない。(同37頁)

 和辻は自らの思想的立場を人格主義に置いていた。教養や芸術的な感動を積んでいくことで自らの人格を陶冶し高めていくという考えである。偉大な作品に感動することはそこに自分の理想を見ることである。信仰に飛びこむことはできなくても、宗教に触れることは人格の陶冶に欠かせない。彼が仏像の美術鑑賞をどうどうと宣言できたのも人格主義が根底にあったからだろう。大正教養主義あるいは大正人文主義とも呼ばれる思潮と人格主義は一体になって、当時の旧制高等学校生や大学生に浸透した。本書の読者も主にこの層であった。伝統的な信仰から切り離された近代人にとって、人格主義的な思想は仏像再発見、宗教再発見を動機づけるものとなって今も生きている。

    建築も鑑賞

 建築や伽藍境内も美的鑑賞の対象になったことは、「古寺巡礼」としての本書の価値を高めただろう。新薬師寺本堂、薬師寺東塔、唐招提寺金堂、東大寺三月堂、法隆寺西院伽藍の建物の印象が詳述される。法隆寺五重塔はいろいろな場所から眺められ、また仰ぎながら近づいたり遠ざかったりその周囲をめぐったりして塔の各部の変化自在の動きが観察される。本を手にして同じ事を試みたいと思わせる。

 法隆寺西院伽藍中門の柱の中央部が膨らむ胴張りとアテネパルテノン神殿の柱のエンタシスが似通っていることから、ギリシャ美術東漸の証拠として本書では推測された。和辻の「ギリシャ贔屓」を示す有名な箇所である。しかし二つを結びつける物的な証拠がないため専門家には不評であり、これを否定する説が今は有力である。だが否定の証拠がないことも事実であり、結局は「よくわからない」というのが、この件に関しては真相のようだ。

    大和の風景

 大和の風景にも言及される。京都を経由して奈良に到着するのだが、京都とは異なる「パアとして大っぴら」な気分が迫ってくる。「古今集」と「万葉集」の相違が、景色からも感じられたという。新薬師寺へ行く高畑では、「道がだんだん郊外の淋しい所へはいって行くと、石の多いでこぼこ道の左右に、破れかかった築泥(ついじ)が続いている。その上から盛んな若葉がのぞいているのなどを見ると、一層廃都らしいこころもちがする」。(同38頁)高畑の崩れた土塀の魅力は大和紀行の定番となったが、『古寺巡礼』ですでに登場している。「太古以来の太い杉や檜が直立しているのが目立つ。藤の花が真盛りで高い木の梢にまで紫の色が見られた」(同42頁)奈良公園を歩く。

 法華寺境内では、「若葉の茂った果樹の間から、三笠山一帯の山々や高台の上に点々と散在している寺塔の屋根が、いかにものどかに、半ば色づいた麦畑の海に浮かんで見える。その麦のなかを小さい汽車がノロノロと馳かけてゆくのも、わたくしには淡い哀愁を起こさせる」。(同112頁)平城宮跡内も通る。「遠く南の方には三輪山、多武峯、吉野連山から金剛山へと続き、薄い霞のなかに畝傍山・香久山も浮いて見える。東には三笠山の連山と春日の森、西には小高い丘陵が重なった上に生駒山。それがみな優しい姿なりに堂々として聳えている。堂々としてはいても甘い哀愁をさそうようにしおらしい。ここになら住んでみようという気も起こるはずである」。(同135頁)

 興味深い記述がある。「薬師寺の裏門から六条村へ出て、それからまっすぐに東へ、佐保川の流域である泥田の原のなかの道を、俥にゆられながら帰る。暮靄(ぼあい)につつまれた大和の山々は、さすがに古京の夕らしい哀愁をそそるが、目を落として一面の泥田をながめやると、これがかつて都のただ中であったのかと驚く。佐保川の河床が高まって、昔の高燥な地を今の湿地に変えたのかも知れない。」(同174~175頁)とある。そして、平城京のあった時代もこんな湿地であったから疫病が流行し、久邇京遷都が行われたのかもしれないと想像する。著者が奈良を訪ねたのは5月末であるから、田植えをまぢかに控えて田んぼには水が張られていたはずだ。大安寺と薬師寺をはるか東西に据えた六条村は古地図に明らかなように集落がところどころに点在する他は田んぼだった。この時期になれば盆地全体が湿地になったように、泥田が見渡す限り広がっていたのだろう。

 當麻寺へも足を運んでいる。二上山の印象は次のように書かれた。「山に人格を認めるのは、素朴な幼稚な心に限ることであろうが、そういうお伽噺めいた心持ちをさえ刺戟するほどにあの山は表情が多い。あたりの山々の、いかにも大和の山らしく朗らかで優しい姿に比べると、この黒く茂った険しい山ばかりは、何かしら特別の生気を帯びて、なにか秘密を蔵しているように見えた。当麻の寺が役行者と結びつき、中将姫奇蹟の伝説を育てて行ったのは、恐らくこの種の印象の結果であろう。

 麦の黄ばみかけている野中の一本道の突き当たりに当麻寺が見える。その景致はいかにも牧歌的で、人を千年の昔の情趣に引き入れて行かずにはいない。茂った樹の間に立っている天平の塔をながめながら、ぼんやりと心を放しておくと、濃い靄のような伝奇的な気分が、いつのまにかそれを包んでしまう。」(同206~207頁)

 法隆寺へは国鉄(現JR)の駅から歩いて行く。「法隆寺の停車場から村の方へ行く半里ばかりの野道などは、はるかに見えているあの五重塔がだんだん近くなるにつれて、何となく胸の踊り出すような、刻々と幸福の高まって行くような、愉快な心持ちであった。

 南大門の前に立つともう古寺の気分が全心を浸してしまう。門を入って白い砂をふみながら古い中門を望んだ時には、また法隆寺独特の気分が力強く心を捕える。そろそろ陶酔がはじまって、体が浮動しているような気持ちになる。」(同225頁)

 斑鳩の里の風景も描写される。「中宮寺を出てから法輪寺へまわった。途中ののどかな農村の様子や、蓴菜じゅんさい)の花の咲いた池や、小山の多いやさしい景色など、非常によかった。法輪寺の古塔、眼の大きい仏像なども美しかった。荒廃した境内の風情もおもしろかった。鐘楼には納屋がわりに藁が積んであり、本堂のうしろの木陰にはむしろを敷いて機(はた)が出してあった。」(同268~269頁)

 和辻が一番感動した場所は、浄瑠璃寺のある当尾の里である。寺へ向かう山道は砂地の里山で赤松が生えツツジが咲き乱れていた。故郷の山で遊んだ幼い思い出がよみがえる。寺は山村の一隅に「平和ないい心持ち」に納まっていた。「浅い山ではあるが、とにかく山の上に、下界と切り離されたようになって、一つの長閑な村がある。そこに自然と抱き合って、優しい小さな塔とお堂とがある。心を潤すような愛らしさが、すべての物の上に一面に漂っている。それは近代人の心にはあまりに淡きに過ぎ平凡に過ぎる光景ではあるが、しかしわれわれの心が和らぎと休息とを求めている時には、秘めやかな魅力をもってわれわれの心の底のある者を動かすのである」(同46頁)。桃源の夢想がここには表現され、それに共鳴するのは子供時代の記憶なのだと語られる。

 風土への言及は仏像や建築に比べると分量は少ないが、個人的には大いに関心があるので、詳しく引用した。100年前の奈良の今は失われた景観を知る貴重な記録だからである。素晴らしい仏像や堂塔が存在する場所への注目は、古寺のある時空間としての大和路全体を照らし出す。個々の仏像や建物の魅力とともに大和路のイメージがかくして生まれていったのである。

    『古寺巡礼』への批判

 美術史家の町田甲一は『大和古寺巡歴』のなかで『古寺巡礼』および亀井勝一郎の『大和古寺風物詩』は文学作品ではあっても仏像鑑賞の手引きにはふさわしくないと批判する。すなわち両者の鑑賞方法は「きわめて主観的文学的哲学的観照であって、正しい美的観照、古美術を正しく理解しようとする観照態度ではない。……作者の作因、美的意図を無視したり、それらを越えて、観照者のきわめて主観的に誇張された感情をもって極端な受け取り方をしている」と手厳しい。また和辻が天平一の傑作とした聖林寺十一面観音を東大寺三月堂不空羂索観音と比べ写実性において如何に劣るかも論じている。町田は十代から『古寺巡礼』を懐に仏像を見て回り美術史家になった人である。『大和古寺巡歴』は『古寺巡礼』とともにぜひ読んでおきたい著作である。

 文芸評論家の保田與重郎は、『古寺巡礼』の姿勢を「異国人の遺品を味わうように、奈良の仏像を見て回る」と評した。保田によれば、これは遠い昔から仏像の美に代々感嘆してきた「民族のくらし」から遊離した、「無国籍」な「骨董的市場的関心」にすぎないという。だから長谷寺のような民衆の深い信仰を集めてきた寺の美術は、和辻の方法では迫れない。

 これらの批判は説得力があるが、『古寺巡礼』の魅力と表裏の関係にある。「主観的文学的哲学的」な雄弁な語り口が読者の想像力に火をつけて関心を喚起した。伝統的な信仰とは無縁な旅行者がいきなり仏像と対面して鑑賞することを可能ならしめたのである。 

 『古寺巡礼』は戦後に再刊されるとき旧版に手を加え改訂版となった。著者はそのとき全面的な修正も考えたが、この本の取り柄が「若さと情熱」にあることを思いいたってそのままにしたという。生の感情が露骨に現れたり主観的すぎる箇所は削除され穏当な表現に整えられたが、「若さと情熱」は生かされ、そしてもうひとつ、この書の特徴は「明るさ」である。ギリシャ古典と天平美術に至上の価値をおく著者の向日性の性格から来るものであろう。

主要参考文献
和辻哲郎『古寺巡礼』岩波文庫ワイド版
和辻哲郎『初版古寺巡礼』ちくま学芸文庫
町田甲一『大和古寺巡歴』講談社学術文庫
保田與重郎長谷寺」『保田與重郎全集第33巻』講談社
苅部直『光の領国 和辻哲郎岩波現代文庫
碧海寿広『仏像と日本人』中公新書
井上章一法隆寺への精神史』弘文堂