096 奈良から始まった作家・森敦の放浪

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 作家、森敦(1912-1989)が亡くなって今年で30年になる。『月山』で第70回芥川賞を受賞したのが昭和49年(1974)、敦が62歳の時である。それ以後、精力的な執筆活動のほかにテレビやラジオへの出演、対談や講演などにも活躍し、時代の寵児的な存在となった。還暦を過ぎての「デビュー」ながら、おかっぱ頭で少年のような風貌、超俗然とした印象にして巧みな話術の持ち主、世間の注目を引くに十分な要素をそなえていたが、なにより強く彼を彩ったのはその経歴であった。

 森敦は明治45年(1912)、長崎市に生まれた。生家の家業の都合で植民地の朝鮮に渡り、その地で小学校と中学校の学業を修める。昭和6年に旧制第一高等学校に入学したが、翌年に退学、横光利一に師事して文学修行、22歳で大阪毎日新聞に「酩酊船」を掲載し注目された。若き日の太宰治檀一雄らと交流があり同人誌をつくる。しかし、それ以降、文壇の表舞台からは消え、日本各地を放浪して過ごした。40年間の雌伏を経た「再デビュー」であった。その数奇にしてユニークな人生に興味が向かうのも当然である。

    東大寺塔頭勧進所へ寄寓

 彼の年譜を見ていると、「昭和11年(1936)24歳、奈良、瑜伽山(ゆうがやま)の山荘で暮らす」という項目がある。瑜伽山奈良公園の荒池の南を限る小さな丘である。中世の山城が築かれた場所であり、今も樹木に覆われた頂近くには瑜伽神社や天神社が鎮座する。森敦と奈良とのつながりを見ていくことにしよう。

 彼のエッセイの中に奈良で過ごした時のことが出てくる。奈良に来るきっかけを作ったのは、兵本善矩(ひょうもとよしのり)という奈良・五條出身の文学青年であった。森が東京で同人誌仲間の壇一雄太宰治らと疾風怒濤の無頼の日々を送っていた頃、兵本の小説「靫の男」が小林秀雄の推挽で「文藝」に掲載された。誰もがその才能に目を見張ったという兵本は、奈良・高畑の志賀サロンの常連であり、奇行の持ち主であった。上京した兵本は同世代の森の仲間らとつきあいさんざん手こずらせたようだ。彼から東大寺の上司海雲が面倒を見るから奈良に来ないかという手紙が来たのである。その時、「いままでの生活をふっきる絶好の機会だ」(『わが青春わが放浪』)と思ったらしい。

 昭和10年(1935)7月、森は上司海雲の住む東大寺塔頭勧進所に寄寓する。上司はのちに東大寺の管長になり大仏殿の昭和の大修理を手がけた人である。志賀直哉を始め多くの作家、芸術家らと親交があり、彼らから慕われた。森も回想記の中で上司の「気がやさしく大らかで面倒見の良さ」を偲んでいる。上司は勧進所にいた頃を「悪質の禅坊主や不良文学青年を居候において、ご乱行と自称して破戒無慙な日夜を送っていた」とのちに書く。ここでもまた青春の彷徨する日々があった。 

 松原恭譲師の東大寺戒壇院で行われた「華厳経五教章」の講義を森は聴聞している。その講義は1時間やって1行か2行しか進まないものであった。森は自らの文学理論を華厳経の「一即一切 一切即一」を用いて説明するのが常であったが、森と東大寺の出会いに不思議な縁を感じる。森が奈良に移ったのは偶然であろうが、もともと彼には仏教への傾倒があり、それが奈良とのつながりを用意したのだろうか。

 勧進所ではもうひとつ大きな出会いがあった。生涯の伴侶となる前田暘と恋仲になった。暘は奈良女高師附属高女に通う女学生であった。亡くなった父が、上司の学んだ龍谷大学の恩師と京大で同窓であったという縁で、母親と一緒に勧進所へ遊びに行くことがあり、お互い見初めたという。

    瑜伽山の山荘へ移る

 森が勧進所にいたのは半年ほどで、上司が結婚したため、瑜伽山へ移る。瑜伽山の描写を彼のエッセイから引用する。

 「奈良公園には志賀直哉のいた高畑から、鷺池、荒池に沿って南を限りながら延びる丘陵がある。瑜伽山はそれが奈良ホテルに至って尽きようとするあたりの称で、わが山荘はしばしば方丈を偲ばすねとひやかされたりしたものの、松林におおわれ、いながらにして眼下に拡がる僅かな町家の彼方に、たたなずく青垣に抱かれた大和盆地の全円を見はるかし、眉のように引かれた大和三山を遥かに眺めることができる。」(『わが青春わが放浪』)。瑜伽とはヨガのことでこの地名も彼の関心を引いたに違いない。というのも瑜伽の意味を論じる森の文章を我々はよく読むことになるからである。

 明治39年生まれの奈良の写真家、北村信昭の著書『奈良いまは昔』に森が仮寓した家の写真が載る。おそらく瑜伽山の南の路地から撮ったものだろう。手前に路地の家の瓦屋根が写り、そう遠くない高台にガラス戸の長い縁側と切妻屋根の家が仰観できる。背の高い松がまわりに伸びる。撮影年は不明だ。少なくとも1983年(昭和58)までは、この家はあったようだ。森の養女である森富子が編んだwebの年譜に写真があって、それには家の南側の崖が崩れて縁側が浮いたようになっている様子が写る。地元の人が森敦に郵送したようで、封筒の消印は昭和58419日とあったらしい。

 現在、瑜伽山の高台に森が借りた家はもちろん他の民家も存在しない。しかし、その場所は推測できる。瑜伽神社の東に修復した跡もまだ新しい斜面が広がる。そこに彼の住んだ家があったのだろう。路地の両側には古い民家が残り、昭和の雰囲気が濃厚である。

 森が奈良をいつ引き揚げたかはわからない。エッセイでは奈良に10年過ごしたと書くが、昭和15年には東京の富岡光学機械製造所に就職しているから、奈良にいたのは長くても3,4年だろう。この間、ずっと奈良にいたのではなく、奈良を拠点にして捕鯨船などの漁船に乗ったり、樺太に渡って北方民族と生活したりしている。幼稚園を経営していた叔母・細川武子から家購入のためにと貰った大金四千円を生活費につかったようだ。

    瑜伽山時代の暮らし

 森富子の編んだ年譜に次の一節がある。

 「ここでの生活は浮世ばなれをしていて、信じがたく「嘘くさい!」を(私=森富子は)連発していた。芸妓の福造が山荘に来て髪をとかし着物の襟を整えたという。食事は手を叩くと、山荘の裾野に並ぶ家々の女性たちが、お銚子つきのお膳を持ってきたという。「お願いしたわけではない」と言い、後年訪ねる機会があって訊くと、「当番を決めてお膳を運んだ話は、親から聞いています」と応えた。嘘ではなく本当だったのだ!」

 『奈良いま昔』に奈良時代の森の暮らしをうかがえる文章がある。山荘というのは地元の人の離れ家で、当時は台所と居間の二間だったという。

 実は森の借家のほんの近くに前田暘の一家が住んでいた。「食時になると、(前田)夫人は門口に立ち、瑜伽山の頂にある一軒家を仰ぎながら、ポン、ポン、ポン、ポンと拍手するのが日課だった。その合図に応えて、二十四,五歳の青年が、その都度、瑜伽神社の石段をおりて来る」とは、北村が当時のことを知る地元の人から昭和49年に聞いたことだ。また、よく利用した書店の店主は「いつも着物をキチンと着て、折り目正しい青年だった。非常に勉強もするし、本も読む。書生っぽい人で、一面、なかなか大きな話をする人だった」と話す。

 北村自身は森とのつきあいはなかったが、共通の友人である兵本からモリ・トン(仲間からはそう呼ばれていた)のことは「耳にタコができるほど」聞かされた。「相当の毒舌家であった兵本善矩君だが、この森さんだけは非常に高く買っていた。彼がいかに横光利一門下の秀才であるかを、私も何回となく聞かされていた。………。“万巻の書を読んだ”という表現で森氏の読書家ぶりが紹介された…」

 吉野出身の詩人で夭折した池田克己も瑜伽山の森を訪ねている。彼が森について後年語った言葉が、森の『文壇意外史』の中に出てくる。池田が森を訪ねたとき詩人の北川冬彦が居合わせた。「あのときは、ほんとに驚きましたよ。ぼくとほとんどおなじとしの違わぬ森さんが、北川さんほどの人をつかまえて、『ものを書くには、頭で考えるんじゃない。頭と指の先までの距離で考えるんだ。それにはこうして和紙に毛筆で書くのが、ちょうどいい考える速度だ』なんて言って、ゆうゆう水滴をとって、硯に水を入れたりするんですからね」。森の異才ぶりを彷彿とさせるエピソードである。

 森が奈良にいたときは志賀直哉の高畑時代と重なるが、いわゆる高畑サロンとの接触はなかったようだ。しかし、直哉一家を公園で見かけたり、二月堂の茶屋で酒をご馳走になったことがあるという(『わが青春わが放浪』)。

    奈良再訪

 大和郡山へもよく遊びに行ったという。本通りにあった「こんにゃくや」という店で牛すきを食べたことを懐かしんで、芥川賞を受賞した後の奈良再訪でわざわざ訪ねている。店は残っていたが、「僅かばかりの玩具や漫画本を並べた」小店に変わっていて、店の老女と昔を語る(『わが風土記』)。

 奈良再訪の際の事実かフイックションかわからぬ瑜伽山にまつわる奇妙な話を森は書いている。荒池の横を瑜伽山に行こうとすると、釈迦十大弟子さながらの痩せた見知らぬ老人が出てきて声をかけられた。山荘は昔のままにあって老人が一人で住んでいるという。山荘へ行こうと誘われ、「奥さんはお元気ですか」とまで尋ねられる。森はこれから行くところがあるからと断ると、老人はあえて勧めず「にこやかに笑い、ひとり瑜伽山の山荘へ向かうがごとくであった」(『わが青春わが放浪』)。

 妻、暘の母の故郷は山形酒田であった。これがため、森は山形に導かれ庄内平野を取り巻く月山や鳥海山を舞台とする後の森文学が生まれた。奈良は小説の舞台とはならなかったが、奈良での出会いが森文学を準備したといえる。

   下北山村でダム建設

 森と奈良とのコンタクトはもう一回あった。1957年に電源開発株式会社に入社し和歌山県尾鷲市の連絡所に赴任する。奈良県吉野郡下北山村下池原で始まった池原ダムの建設のため下北山村に滞在したのである。森は45歳になっていた。仕事は渉外、用地買収での村人との交渉だったという。3年4か月の勤務ののち退職している。森はここでの体験をもとにした小説を書きたいと対談で話したりして、実際に執筆に着手したが完成しなかったようだ。

   森敦仮に宿りし瑜伽山大和三山眉の如しと

   公園に直哉の一家敦見き昭和初年の奈良の某日

   熊野なる屋根に石置く山村にダムを作りて敦の三年

 参考 森敦著『わが青春わが放浪』福武書店1982年 森敦著『わが風土記福武書店1982年 森敦著『文壇意外史』朝日新聞社1974年 北村信昭著『奈良いま昔』奈良新聞1983年 森敦資料館http://www.mori-atsushi.jp/