092 元興寺五重小塔は国分寺の塔のひな形か?(元興寺⑤)

 元興寺の五重小塔は奈良時代後期に製作され、この時期の建築様式を伝える貴重な建造物であり、国宝に指定される。しかし、謎に満ちた塔であり、文献での記録がなく、元はどこにあったのか、何を目的に製作されたのか不明である。

 現在は総合収蔵庫の法輪館に保管される。江戸時代には本堂外陣南側に床を抜いて安置されていたという。高さが5.5mあるため、収容するには天井にかからないように地面に置かなければならなかった。だから本堂にはもともとなかった。

 元興寺ゆかりの寺として小塔院がある。今は仮堂が建つだけで、中世には吉祥天信仰で栄えたという。小塔院という名称は創建時からのものである。この名称から連想して五重小塔がここにあったという推理が生まれるのは自然だろう。しかし、1140年に著された大江親通の『七大寺巡礼私記』には、小塔院には光明皇后御願の八万四千基小塔を祀っていると記される。『七大寺巡礼私記』は平安時代末の奈良を知ることのできる一次資料で信頼性が高い。五重小塔はこの時、小塔院にはなかったのだろう。他の時代においても小塔院と五重小塔を結びつける記録はまったくない。

 海龍王寺には奈良時代前期の様式を示す五重小塔(総高4.1m)がある。箱を五段に積み上げて組物を張り付け、内部は省略されている。初重は扉や壁がない空間となり、法華経が納まる。塔は最初から礼拝の対象であり、塔が安置された西金堂の本尊であった。

 元興寺の五重小塔は実際の五重塔の建築構造を細部まで忠実に再現する。そのため幕末に焼失した元興寺五重大塔のひな形と考える説もあったが、大塔の礎石から計測した柱間間隔や江戸時代に描かれた図面から五重小塔とは異なることがわかり、この説も否定された。

 五重小塔の平面は方三間で初重柱間が1.1尺等間とする。上重の逓減は各柱間1寸ずつで、二重が1尺×3間、重が9寸×3間、四重が8寸×3間、五重が7寸×3間と明確な平面計画を持つ。各部材は柱を除き初重から五重まで規格化された一定の寸法を持ち、柱長の逓減も5分ずつと単純である。相輪が全体の5分の2と大きいことを除けば標準型とされる。「小塔は部材寸法や構法がそのまま10倍すると直ちに実際の建物が作れるようになっており、しかも柱間寸法以下各部分の規格がきわめて単純で工作の簡便化に最大限の考慮が払われている」(鈴木嘉吉)という。(この段、箱崎和久氏の「七重塔の構造と意匠」を参照)

 奈良時代に創建された各地の国分寺塔跡の発掘調査から、国分寺には3間等間であった塔の多いことが分かっている。時代を通して3間等間になる塔は非常に珍しく、国分寺の塔の大きな特徴だ。これらのことから、五重小塔が国分寺の塔のひな形であった可能性が浮上している。小塔は簡単に分解できて組み立てやすいということもこの説を補強する。

 相輪の規格外の大きさはどう考えるべきか。狭川真一氏は、相輪は鋳型に金属を流し込んで作られたことに着目する。鋳型は粘土であるが、乾燥するときに収縮する。そのため木製の原型を大きめにしたのではないかとする。原型の8割ほどのサイズが標準型となる。

 五重小塔=国分寺塔モデル説は説得力がある。小塔はいつからか礼拝の対象になったのだろうけれど、もともと何処にあり、なぜ元興寺に伝わったのかは依然として謎である。

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元興寺五重小塔

参考:箱崎和久「「七重塔の構造と意匠」(『国分寺の創建 組織・技術編』(吉川弘文館)所収) 鈴木嘉吉「元興寺極楽坊五重小塔」(『大和古寺大観第3巻』(岩波書店)所収) 狭川真一講演「元興寺五重小塔の性格」平成30年7月11日