081 生駒は哀しい女町

 

 「女町エレジー」で「生駒は哀しい女町」と歌われた奈良県生駒市は、今は大阪のベッドタウンとして人口急増著しく、ある雑誌の「住みよさランキング」の上位にも入った郊外の住宅都市である。聖天さんで親しまれる宝山寺が生駒のシンボルであることに変わりはないが、その門前町として発展した経緯も過去のものになろうとしている。「女町」の痕跡も現在の町並みには見いだしがたい。それでも、駅から続く旧参道の通りに残る木造三階の建物に、かつての花街を偲べないこともない。また、生駒ケーブルカーの宝山寺駅から伸びる参道には旅館がならんで、ここは今も門前町の雰囲気がある。
 弦歌紅灯の花街として生駒がもっとも賑わったのは、大正から昭和にかけてであったようだ。『生駒市史』から、その様子を偲んでみたい。
 大正3年(1914)、大阪上本町と奈良を電車で結ぶ大阪電気軌道(大軌=今の近鉄)の奈良線が開通、生駒トンネルの奈良県側出口に生駒停留所が設けられた。人家もない場所であったが、停留所から生駒山中腹の宝山寺への新道がつけられるとともに、参詣人目当ての飲食店、旅館、商店が出現し、門前町が誕生した。
 門前町は生駒新地とも呼ばれ、鉄道開通の翌年には早くも芸妓の置屋が大阪から進出した。大正7年には芸妓は30名を数えるようになり、大正8年に置屋の組合である芸妓置屋検番ができている。料理屋は地元の生駒出身者による経営が多かった。大正10年に、置屋側と料理屋側が合同して、生駒検番株式会社を創設している。
 この間、停留所と宝山寺を結ぶケーブルカーが引かれ、参詣人は激増した。大正10年には、演舞場の生駒座が誕生、置屋数15,芸妓数130名に増加し、すでに県下一の花街と言われるまでになっていた。
 生駒新地は、約1.4kmの参道に沿って発展したが、ケーブルカーが引かれてからは、停留所近辺の元町、本町一帯とケーブルの宝山寺駅近くの門前町が中心になった。昭和5年には、ヤトナ酌人を派遣する株式会社旭検が門前町に生まれている。ヤトナとは、「客に接待もする仲居さん」ということらしい。
 昭和初期から戦中までは、芸妓置屋数22~23、芸妓数150名前後、ヤトナ酌人の置屋は6~8、ヤトナは50~80名の状態が続いている。また料理屋の数も100余で変わりない。
 料理屋、置屋、検番の三者は共同して生駒新地の振興を図り、客の誘致、芸妓・ヤトナの技芸向上、健康の保持、風紀の向上に努めた。舞踊、唄、三味線の師匠を他所から呼んで稽古をつけ、温習会、技芸等級試験を行っている。また自前の診療所も開設し、花柳病は無料で治療にあたった。
 いわゆるご当地ソングも盛んに作られた。『生駒市史』の資料編には、「生駒音頭」「生駒ブルース」「生駒情緒」「生駒ぞめき」「四季の生駒」「生駒新地流し」「生駒小唄」「女町エレジー」の歌詞が採録されている。お座敷で唄うような歌が多い。「生駒新地流し」は、昭和8年に野口雨情が作詞したものだ。雰囲気を偲ぶために掲げておこう。

一、生駒新地は気楽なところ/三味や太鼓で日を暮らす
二、春の生駒は桜の名所/明けりや一夜で花となる
三、生駒ながめて星かと聞けば/何んの星かよ灯の明り
四、生駒名所清水滝に/秋は紅葉も散りかかる
五、生駒新地に灯のつく頃は/お山おろしが身にしみる


 昭和5年には、ダンスホールができて、ダンサー100名を擁した。18、9才の少女が多く、平均月収150円も稼いだという。
 この年の生駒新地の人口は約3000人、このうち芸妓、ヤトナ、ダンサー、仲居、女給が500人を数えた。また、芸妓とヤトナの花代が、生駒町の総生産額の3分の2を占めたというから、花街の賑わいが想像できる。
 戦後、いち早く生駒の花街は復活したが、戦前の賑わいを取り戻すことはなかった。昭和48年の料理旅館は47軒に減っているが、芸妓は150名ということだ。この数は意外である。昭和48年といえば、現在のような高架の駅に改装され、駅前が再開発されるより大分前になり、私自身、生駒の町を歩くこともあったが、すでに花街の雰囲気はほとんど感じなかった。しかし、芸者という「伝統文化」はまだ命脈を保っていたことになる。「女町エレジー」が生まれたのも、この年だった。
 私は芸者遊びなど一度もやったことのない野暮な人間である。こういう者が花街を偲ぶというのも変だとは思うが、滅んだ花街のざわめきには、心を溶かすような懐かしさがある。
 生駒が花街の殷賑を極めた理由は、多くの条件がミックスしたのだろうが、なかでも宝山寺の存在が大きいにちがいない。現世利益のあらゆる願いを受けとめてくれるから、幅広い層の参詣人を引き寄せる。特に大阪という商業都市の欲と色が浄められ蘇生する聖地の役割を果たした。聖天堂に祀られる歓喜天秘仏であるが、陰陽交合の聖像であることは公然の秘密である。歓喜天は花街の暗黙の守り神であったのだろう。  (2015/12/15記)

生駒新地の旧料理屋
生駒本町の通りに残る旧料理屋