075 黄檗宗海龍山王龍寺

 奈良市にある海龍山王龍寺は、元禄2年(1689)に大和郡山藩主の本多下野守忠平が、黄檗宗開祖隠元禅師の孫弟子、梅谷和尚を招いて菩提寺として開山、再興した古刹である。山門や本堂には禅寺らしいたたずまいがあって、奈良の古代寺院を見慣れた目には、ちょっとしたエキゾチシズムを覚える。

 「不許酒葷入山門」の大きな石碑が門の前に立つ。山門には、「門開八字森々松檜壮禅林」の書があり、「門は八の字に開き、森々として松檜禅林に壮んなり」と読むらしい。門を一歩入ると、まさにこの書の世界が広がっていた。鬱蒼と茂る樹林で空も覆われている。ひと一人が歩ける坂道が細い谷川の流れに沿って続く。石畳みを残して、苔が道を埋め尽くしていた。鋭い鳥の声が近くで響いてぎょっとした。途中に滝の行場があり、東屋が建つ。ここからは急な階段となっている。
 階段を登りきると唐風の本堂に向き合う。山を開いた狭小な平坦地で、建物はそれだけである。この寺は、南北朝期に彫られた磨崖仏で有名だ。高さ2.1mの十一面観音立像で、「建武三年(1336)の銘を持つ。寺の縁起によれば、南朝方の勢力と深いつながりがあったようで、珍しい南朝の年号がそれを伝えている。表戸を覗くと、奥の帳をあげたなかに蝋燭が揺らめいて、観音様が浮かび上がる。ガイドには「優雅な美しさは、大和の石仏のなかでも随一」とあるが、視力の弱い私には遠すぎてはっきりとは見えなかった。視力1.5を誇る連れが、記憶をもとにスケッチしてくれたので、それを載せる。
 裏門の脇には、樹齢300年というヤマモモが茂る。樹幹の基部5m、目通り2.7m、高さ11m。空洞になった樹幹から八方に新たな幹が伸びて堂々とした風格がある。
 再び、坂を下り参道をもどる。途中誰にも会わなかった。森厳な別世界、俗界に対する聖なる清浄界、そんな言葉が頭にちらついた。誰にも教えたくない場所である。なぜ都市近郊にこんな環境がまだ残っているのだろうと考えていて、気づいた。お寺のまわりがゴルフ場で囲まれているのである。奈良市西郊のなだらかな丘陵は、住宅地としてほぼ開発しつくされている。そのなかにゴルフ場がまとまった緑地帯としてかろうじて残る。王龍寺はゴルフ場が緩衝帯となり、境内の森厳な雰囲気が保たれているのだ。
 ゴルフをしない私は、ゴルフ場には批判的であっても擁護する気持ちはまったくなかったが、はじめてゴルフ場が結果的に果たしているプラスの機能に思い至った。そこまで時代は世知辛く索漠としたものになったということであろうか。
●参考 『奈良県の歴史散歩 上 奈良北部』2008年 山川出版社 

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(目撃者談)
 右手のひらを見せ伸ばしており、左手は胸の辺に甲を見せ添えるように曲げている。右腕は体のわりに長く感じた。下腹部に衣装のドレープ、胸には首飾りか衣装かわからないドレープがあり、額中央に丸い飾りのようなものがある。浅く彫られており、輪郭はぼやけているが、影で形が浮き上がっている。目は閉じているか半眼、優しく微笑んでいるようです。
                              (2015/05/09記)