139 時代を翔ける聖なるアイドル~中将姫説話と當麻曼荼羅~


當麻寺 聖衆来迎練供養会式

   當麻寺の創建

 練供養会式で名高い二上山當麻寺真言宗・浄土宗 奈良県葛城市当麻)の創建縁起が文献にはじめて見えるのは、建久3年(1192)の『建久御巡礼記』においてである。聖徳太子の異母弟・麻呂子親王によって創建された前身寺院があり、後に壬申の乱で手柄を立てた当麻国見が現在地に遷造したという。麻呂子親王の母は葛城氏を出自とし、親王は当麻公の祖ともされる。しかし、前身寺院の所在は不明であり、縁起上の粉飾として否定する意見が多い。

 現在の寺の境内からは、川原寺式復弁八弁蓮華紋軒丸瓦が出土している。これは、大海人皇子に味方して活躍した豪族が、壬申の乱後に建てた寺院に共通して使用された瓦と見られている。寺が7世紀末の白鳳期に当麻氏の氏寺として創建されたことは間違いなく、金堂・講堂・僧房が建ち、本尊の丈六弥勒如来像は日本最古の塑像とされる。創建期の石造灯籠や銅製の梵鐘が残り、これらも日本最古である。

 金堂南方に建つ東塔の建立は奈良時代末期、西塔は平安時代初頭の三重塔であり、古代の東西塔がそのまま今に伝わる唯一のものである。白鳳期の創建からおよそ100年を経て建ったことには、この時期近くに当麻氏出自の女性の宮中での活躍との関連が想定される。淳仁天皇の母は当麻老の娘・山背であり、正三位を授かり当麻夫人と呼ばれた。藤原麻呂の妻が当麻氏出で、その娘に百能がいて、藤原豊成の妻となり、尚侍従二位となって後宮の実力者となった。当麻治田麻呂の娘が嵯峨天皇の妃となり、その娘・潔姫が藤原良房に嫁している。8世紀後半から9世紀にかけて当麻氏出自の女性の中央での出世が目立つが、以後は当麻氏の消息は消える。10世紀に入ると律令制は解体の途に向かうとともに、地方豪族の氏寺も縮小・衰退していく。その中で當麻寺は新たな信仰を得て発展の端緒をつかむ。

   當麻曼荼羅への脚光

 當麻寺は中世をとおして隆盛した。これには當麻曼荼羅の存在が預かっている。東を正面にして建つ本堂(曼荼羅堂)の本尊・當麻曼荼羅は、縦横およそ4メートル四方の大きさがある。浄土三部経のひとつ、観無量寿経にもとづく浄土変相図であり、元興寺智光曼荼羅超昇寺の青海曼荼羅とともに浄土三曼荼羅と呼ばれる中で、摸本がもっとも多く流布した。

 観無量寿経は、天竺のある国の皇子が国王を幽閉して亡きものにしようとするのを悲嘆する韋提希夫人に、仏陀が十方の浄土を示し、阿弥陀仏の浄土に生まれるためには善行と十六の観想を行うことを説くというものだ。當麻曼荼羅は、中央に阿弥陀仏のいます壮麗な浄土の姿を見せ、外縁に韋提希夫人のエピソード、浄土を観想する方法、信仰のあり方によって九種類の往生がある九品(くぼん)往生をコマ割で描く。

 蓮の糸で織られたという伝承があったが、ハス博士で知られる大賀一郎氏の調査で絹の綴織でできていることが判明した。綴織は西陣の帯などを製作するときの技法である。高度な熟練を要して、複雑な紋様は1日に1センチぐらいしか織れない。當麻曼荼羅ほどのものになると、製作は10年から10数年ぐらいかかると推定される。古代の日本にこれほどの技術があったとは考えられず、中国からの請来品であるという説が有力である。

 現在の場所に曼荼羅堂ができたのは、平安時代初頭とされる。したがって曼荼羅はこの時期には存在していたことになる。なぜ當麻寺曼荼羅が搬入されたのかは不明であるが、当麻氏出自の女性の宮中での活躍があったことと関係しているのだろうか。

 曼荼羅堂は平安時代末の永暦2年(1161)に改築・拡張され、現在見るような桁7間・軒6間・寄棟づくりの寺内最大の建物になった。浄土信仰は平安時代後期から盛んになり、この頃には當麻寺曼荼羅を中心とする浄土信仰の寺として貴賤の信仰を集めていたようだ。

 『建久御巡礼記』には曼荼羅の由緒が記される。縁起では、當麻寺前身寺院の願主とされる麻呂子親王の夫人が浄土変相図を安置したいと願っていたところ、天平宝字7年(763)6月23日の夜、一化人が現れて蓮糸で織ったという。一方、寺僧の話では、ヨコハギノ大納言の息女が浄土曼荼羅を写したいと願っていたら、天平宝字7年、ある化女が現れ一夜にして織り上げた。後に息女は極楽往生を遂げたという。中将姫説話の核心となる要素が曼荼羅とセットにしてすでに語られていたことになる。

 曼荼羅の主な転写は3度ある。一度目は建保5年(1217)に完成した建保本當麻曼荼羅であるが、現存しない。2度目は文亀3年(1503)に後柏原天皇が宸筆を入れた文亀本當麻曼荼羅。これは現在の本尊である。3度目は貞享(じょうきょう)3年(1686)、霊元天皇が銘を入れた貞享本當麻曼荼羅である。いずれも絹本著色。もとの綴織曼荼羅鎌倉時代に板に貼り付けられたが、江戸時代の修理で剥がされ軸装本になった。このとき剥離した際に用いた紙に染まった印紙曼荼羅と、板面に綴織の断片が残った裏板曼荼羅が新たに生まれた。裏板曼荼羅は現在、厨子の背面にはめこまれている。

 當麻曼荼羅は、法然上人の弟子で浄土宗西山派の開祖・善恵房証空が『當麻曼荼羅注』を著し(1223年)、唐の浄土教を大成した善導の教えにもとづくことが明らかにされる。浄土宗各宗派のいわばイコン(聖像)として崇拝され、多くの転写本・縮本・印版が普及した。この曼荼羅をもとにした談義・唱導に大きく貢献したのが、中将姫説話であった。

   中将姫説話の成立

 『建久御巡礼記』の記載に見たように、曼荼羅が高貴な女人の発願に応じて化女が一夜で織成し、女人も往生したというストーリーは早くからできていたようだが、これが形を整えるのは、13世紀に出た複数の當麻寺縁起を通してである。寛喜3年(1231)に書写された『当麻寺流記』には、曼荼羅の本願を正二位横佩右大臣伊統息女字中将(よこはぎのうだいじんまさむねそくじょあざなちゅうじょう)とし、中将が西方を念じて称讃浄土教一千巻を書写したこと、念願に応じて尼公(弥陀)が来て蓮糸を用意させること、また織女が来て三時の間に曼荼羅を織ること、尼公が去るにあたって四句の偈を唱えること、宝亀6年に息女が往生すること、蓮糸を染めた井戸を染野井といい、ここに染野寺を建てたことなどが詳しく語られる。女人往生譚としての中将姫説話の大綱が成立したことになる。息女の父が歴史上の人物である藤原豊成という名前が現われるのは、弘長2年(1262)の『和州当麻寺極楽曼荼羅縁起』だという。しかしまだ中将姫が出家した理由について語られることはない。

曼荼羅の絵解きに付随してその縁起が語られる。當麻曼荼羅縁起を描く絵巻や掛幅絵が作成されていく。

   中将姫説話の発展

 室町時代の永享8年(1436)に浄土宗鎮西派(本山知恩院)八代の酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)が著した『當麻曼荼羅疏(しょ)』は、当時流布していた曼荼羅の諸伝を集大成したものである。ここで継子いじめと鶬(ひばり)山物語が加わり、現在に至る中将姫説話の要素がそろった。これ以後の説話はさまざまな変化を見せるが、物語の基本はこれを引き継いでいく。

 そのあらすじは次のようなものだ。横佩右大臣豊成に子がなく長谷寺に祈って姫と男子を儲ける。姫七才のとき母が病死する。豊成が左大臣諸房の女を後室に入れる。継母が嫉妬心から先妻の子二人を葛城山の地獄谷に捨てる。帝に救われる。姫が称賛浄土経を書写する。姫13才のとき中将内侍となり、弟は少将となる。継母、武士に命じ紀州鶬山で姫を殺させようとする。姫、武士の情けで山中に暮らし、そのうち武士死する。豊成鶬山に狩りし姫を連れ戻す。弟少将死去する。中将姫當麻寺に入り出家する。姫の願により禅尼来たり蓮茎を求め、勅によりこれを集める。井戸の水で糸を染め、桜の枝に干す。化女曼荼羅を織る。禅尼曼荼羅の幽旨を示し偈を残す。禅尼は阿弥陀、織女は観音であることが明かされる。中将姫往生する。

 鶬山は紀州有田にあるとされているが、大和宇陀郡説もあると断られる。姫に弟がいることになっているが、これはのちの説話から消えてしまうようだ。

 曼荼羅縁起の唱導で、姫がなぜ現世の栄華を捨てて出家し往生を願ったのか、その動機が与えられて聴講者に説得力をもっただろう。継子いじめは中世の物語で数多く語られ、その話の展開のパターンが縁起にも取り入れられている。

 日本の古伝承や物語を貫く類型である貴種流離譚がここでもみられる。神の子あるいは高い血統にある者がなんらかの事情があって異郷をさすらい、辛苦を極めて転生し神となる、あるいは乗り越えて幸福になるという物語である。中将姫説話がこの型を踏まえているのは明らかである。これは日本人の心性を捕らえただろう

 中世の物語や高僧伝によくみられる申し子譚でもある。姫は豊成夫妻が長谷寺の観音に祈願して授かった。このような子は並外れた能力を持ったり聖性を帯びたりする。この者たちは苦難をなめた末に神仏に転生して衆生を救うという本地物と一体になることが多いが、中将姫説話もまたこれに近い。

 現世の穢土を厭い西方の極楽浄土を欣求する往生伝は仏教説話として数多く説かれ著されたが、中将姫説話は女人往生伝として異色であり、多くの女性の関心と共感を呼んだと想像できる。仏教は女性を五障三従などといって悟り難いとみる伝統があった。これを真っ向から否定するものだ。『観無量寿経』は天竺の葦提希夫人の訴求にこたえて仏陀が説いた教えである。その経典を表した浄土変図は、中将姫の願にこたえて化女(観音)が織成した。かたや天竺の葦提希夫人、こなた我朝の中将姫と並び称されたことだろう。

   中将姫説話の流布

 継子いじめ・貴種流離譚・申し子譚・本地物・往生伝と中世の物語を特徴づける要素がつまった説話は、縁起や説法のジャンルを超えて芸能や読み物の世界へ流布するようになった。室町時代御伽草子や能にまず作品が現れる。これは説話に触れる人たちが広範に拡大していくことを意味する。

 世阿弥作の『当麻』は、熊野詣でから帰途の僧が當麻寺に参詣し、夢の中に化尼と化女が現れ念仏の功徳と染井や糸掛け桜の旧跡、曼荼羅の謂れを語る。後場では中将姫の精魂が天女の姿で現れて、念仏の経巻を奉持し極楽往生の経緯を語り、早舞して、衆生を西方に迎えんとの弥陀の誓いを述べて去る。往生譚に焦点をあて、中将姫は救済者でもあることをほのめかす夢現能である。

 謡曲『雲雀山』は、豊成が讒言を信じて中将姫の殺害を命ずるが、殺すことができない家臣は、雲雀山の山中で、乳母の侍従とともに姫を匿っている。侍従が里に下りてきて花を売ろうとしているところに、豊成が狩のためにやってきて問答となる。侍従が中将姫の境遇を思いつつ舞ううち、豊成は乳母の侍従であることを気づいて後悔を述べ、姫のいる庵に案内されて再会を果たし、ともに奈良の都へ帰っていく。姫の受難と父との再会が主題となり、劇的な展開をみる。

 江戸時代になると、浄瑠璃や歌舞伎に中将姫をモチーフに大胆な演劇的な改変を加えた作品が数多く上演される。主な特徴をあげると、お家騒動や合戦がストーリーに加わる。儒教的道徳観にもとづく忠節、その極端な証としての「身代わり」が見せ場になる。登場人物が増えて話の展開が複雑になり、時に換骨奪胎し伝奇性さえ帯びてくる。これらは宗教的な要素が薄れ、世俗的な物語性に比重がかかる。それは中将姫説話が庶民の教養・常識として普及していたことを示す。

 並木宗輔作の浄瑠璃『鶊山姫捨松』はその代表で、長屋王、玄昉、淳仁天皇、徳道上人も絡み、お家騒動、仇討ち、身代わりと繰り広げられ、勧善懲悪の大団円の結末となる。継母が雪の中で姫を責める「雪責めの場」は有名となり、この部分だけを取り上げた芝居が歌舞伎でも演じられるようになった。

   中将姫信仰

 曼荼羅の発願者にして極楽浄土に往生した中将姫は、衆生の救済者として崇拝されるようになる。姫を描いた絵伝や画像、彫刻が安置され、説話にまつわる伝承地が當麻寺の他にも生まれ霊場となる。中将姫信仰ともいうべき信仰が多くの人を魅了した。

 説話のなかで中将姫が継母の讒言で捨てられる場所は三説あり、紀州の有田、紀伊と大和の国境、大和の宇陀である。紀州説の舞台になっているのが、雲雀山得生(とくしょう)寺(浄土宗西山派 和歌山県有田市糸我)である。開山堂には中将姫と姫を匿い育てた春時夫妻の座像が安置され、中将姫筆とされるお経や各種の縁起・絵巻・絵伝が所在し、二十五菩薩練供養会式が行われる。史料はいずれも江戸時代以降のものである。姫が称讃浄土経を書写した「机岩」、経を納めた「経ノ窟」、姫が助けられた「伊藤ヶ嶽」などの旧跡が残る。

 有田市糸我のある宅には家伝として、糸我荘の12人の年寄が中将姫から和歌を一首ずつ賜ったという伝承があるという。

 紀伊と大和の国境説は、和歌山県橋本市から奈良県五條市にわたる地域に中将姫にまつわる旧跡が点在する。旧家に伝わる『由来記』には「姫は紀伊有田に捨てられて春時夫婦に助けられるが、夫婦が亡くなってから當麻寺で出家するまでの間、この地で過ごしたという」。

 姫が村人のためにかけた「いとのかけ橋」、都を恋しく思った「恋野」、村人が匿って食物を運んだ「運び堂」、姫が托鉢した「乞門」などが伝えられる。姫の身の回りのものを手配したので「勘定司(かんじょうし)」と呼ばれる旧家には、姫からお礼に受け取ったという小さな観音像が祀られる。

 大和宇陀説の舞台となるのが日張山青蓮(しょうれん)寺(浄土宗 奈良県宇陀市菟田野宇賀志)である。中将姫御影像をまつった茅葺の開山堂、中将姫19歳の姿を模した法如坐像を安置する檜皮葺の阿弥陀堂、姫を保護したという松井嘉藤太夫妻を供養する石塔などがある。

 漢方薬の株式会社ツムラの創業者・津村重舎は宇陀市出身で、母方の藤村家には中将姫にまつわる家伝がある。中将姫が最初に捨てられたのが藤村家で、薬草の知識を教えられ、それが婦人薬・中将湯が生まれるもとになったという。

 青蓮寺の當麻曼荼羅、縁起、絵巻などが制作され、歴史がわかるのは江戸時代初期からである。供養のための位牌が各地の信者から納められたが、目立つのが奈良町界隈の住人である。

 奈良町には中将姫ゆかりの寺院として、誕生寺(浄土宗)、徳融寺(融通念仏宗)、高林(こうりん)寺(融通念仏宗)、安養寺(浄土宗西山派)が存在する。平城京外京で藤原豊成の邸宅があったという伝承からゆかりの寺となったようだ。これらの霊場の勃興には浄土宗の学僧・袋中良定(たいちゅうりょうじょう)上人の活動が考えられる。奈良滞在中に開化天皇陵そばの念仏寺を創建した袋中は「當麻曼荼羅白記(びゃっき)』を著し、江戸時代の曼荼羅解釈や説話に大きな影響を与えたが、奈良町のこれらの寺にある曼荼羅は袋中の教えに従っている。また袋中は、姫が遺棄された山を大和宇陀の日張山とした。このため奈良町の寺院と宇陀の青蓮寺を結ぶ中将姫信仰圏ができあがったと見られる。

 當麻寺で4月14日に行われる聖衆来迎練供養会式は、来迎会、来講、練供養とも呼ばれ、境内は参詣者で埋まる。これは中将姫が阿弥陀如来と二十五菩薩に導かれて西方の極楽浄土に往生したという縁起の場面を再現する行事である。本堂(曼荼羅堂)から東方の娑婆堂に来迎橋がかけられ、仮装した観音菩薩勢至菩薩をはじめとする二十五菩薩が橋を練り歩き娑婆堂の中将姫を迎えに行く。中将姫像の胎内には小さな阿弥陀坐像が納まっており、坐像を取り出して蓮台に載せ、観音菩薩を先頭に本堂へ帰っていく。本堂へ着けば極楽往生したことになる。中将姫の胎内にあった阿弥陀仏が蓮台に載り往生するという趣向が興味深い。

 仮面には鎌倉時代のものがあり、その頃には来迎会が行われていたと思われる。しかし史料に現れるのは、享禄4年(1531)に描かれた『当麻寺縁起絵巻』であり、現在のような形になったのは室町時代だと推測できる。練供養は當麻寺を有名にしたのはもちろん中将姫信仰を普及するうえで大きく役立っただろう。

   結び

 當麻曼荼羅は浄土宗のイコン(聖像)となり、宗派の布教に用いられ、絶対的な権威をもつようになる。その曼荼羅の由来として中将姫の発願という説明ができた。曼荼羅の内容の説明とそれができた由来をセットにして語られる。そのうちに由来の部分に継子いじめの物語が加わる。それは宗派の僧侶の絵解きで人気を呼んだと思われる。そして、宗派の説法の場を超えて、中将姫の物語は読み物や芸能の世界に取り入れられて、民衆に伝えられていく。江戸時代になると浄瑠璃や歌舞伎の演目となり、換骨奪胎されながら世俗的な娯楽として受け入れられる。中将姫の物語は民衆の教養あるいは知識として広まった。それとともに中将姫信仰のようなものができて各地に物語の舞台となる霊場が生まれ、練供養などの行事や姫の画像や彫刻、絵巻、真筆などの信仰対象が輩出した。平安時代から江戸時代までおよそ700年の時代を通して形成された中将姫のイメージは、言葉の本来の意味におけるアイドルとして今に生き続けている。

 

参考

元興寺文化財研究所『中将姫説話の調査研究報告書』1983年
島健・河原由雄『当麻寺保育社 1988年
日沖敦子『時空を翔ける中将姫 説話の近世的変容』平凡社 2020年
中村元早島鏡正紀野一義浄土三部経 下』岩波文庫 1990年
奈良国立博物館『中将姫と當麻曼荼羅』2022年

136 内山永久寺の消滅

 


内山永久寺の境内中心部 『大和名所図会』寛政3年(1791)


     「西の日光」と呼ばれた巨大寺院

 天理市布留町に鎮座する石上神宮の境内を抜けて、東海自然歩道(山の辺の道)を500mほど南へ向かうと国道25号線のバイパスにつきあたる。バイパスに交差するトンネルをくぐる。あたりは元棚田を利用した柿畑である。朽ちたビニールハウスや温室が放置されている。緩やかな坂を少し上ると、池がある。ため池のように見えるが、もとは浄土庭園の池であった。150年前に忽然と消えた巨大寺院、内山永久寺がここ(杣之内町)に存在したことを伝える数少ない遺構である。

 北、東、南の三方から山が迫り西に開けた谷あいの地に、寺が創建されたのは永久年間(1113~1117)、鳥羽天皇の勅願であるという。実は興福寺大乗院の第二世院主頼実(らいじつ)の隠居所として発足し、第三世の尋範によって拡充されたらしく、大乗院の末寺であった。近世に真言宗に属するようになった。

 伽藍は東西南北に門があり、上街道から通じる西門が正門となる。それぞれの門から伽藍中心部に向かう道の両側に子院が軒を接して建ち並び、江戸時代には50以上を数えた。寛政3年(1791)の『大和名所図会』に伽藍中心部が東を上にして描かれる。前面に回遊式の池があり、大亀池の名前の謂われとなった亀に擬す中島には弁天、宝蔵と記された建物が建つ。現在、中島は地続きであり、「内山永久寺記念碑」と刻む石碑が立つのみである。

 池から東に一段高い平坦面があり、ここに寺院中枢の堂塔が集まる。阿弥陀如来を本尊とする本堂、観音堂、鎮守三社、八角多宝塔、鐘楼、大日如来を奉る真言堂、御影堂などが配された。境内には松が数多く繁っていたようだ。「西の日光」と呼ばれた壮麗な寺観は、絵図からしのばれる。

 後醍醐天皇が吉野へ落ちのびる際にここに立ち寄ったことがあり、この故事から「萱の御所」と呼ばれて、その碑が立っている。また、芭蕉が宗房と称した若きころに詠んだ「うち山やとざましらずの花盛り」は当地のこととされ、句碑が池のほとりに立つ。

 江戸時代には971石の朱印地が与えられていたが、これは大和では興福寺東大寺法隆寺につぐ待遇であった。


大亀池の辺りが寺の中心部、東西南北の門から中心部に向かって子院が建ち並んだ

     永久寺上乗院院主・亮珍の野望

 中世には興福寺、近世には徳川幕府という時の最高権力によって庇護され、特権的な身分を長きにわたって享受した内山永久寺であるが、明治維新神仏分離令によって突然終わりを迎えることになる。永久寺が一山全員の復飾願いを提出したのは、慶応4年(1867)8月であった。永久寺は布留社(石上神宮)の別当神宮寺であり、桃山竜福寺、中筋寺の神宮寺と交代で社僧を務めていたが、これらの寺の僧は還俗して布留社に神勤することにした。これを主導したのは、永久寺上乗院院主の亮珍であった。上乗院は朱印領の229石を占め、代々の院主は公家の血筋を引き抜群の経済力と権威をもって一山を支配した。

  吉井敏幸氏(天理大学教授・近世史)は、亮珍が勤王思想の持主であったと推測して復飾の理由の一つにする。時代の大勢として勤王思想を受け入れていたかもしれないが、彼らは基本的に事大主義者であった。興福寺とも共通するが、永久寺の権威と経済の源泉は、時の権力の保証がよりどころである。旧来の主が倒れたので、新たな主に乗り換える。新たな主は神道を重視しているようなので、ためらいなく復飾する。厳しく言えば、彼らにとって宗教とは世を渡る手段であった。

 『明治維新神仏分離史料』には、布留社社務・内山藤原亮珍が神祇官・御役所に宛てた慶応4年9月から明治3年8月までの口上書が収載される。復飾間もない9月の口上書には次のような文がある。

「……今より山内は社地に相改め、永久寺伽藍諸堂等は、境外に伽藍附きの山林に相応の地がありますので、残らず此処に転遷いたします。猶また持僧の儀は同流の内より人選して上乗院院代を指名し仏祭勤修をつとめさせます。この儀に取り計らい苦しからず御座候や……」

 永久寺境内は社地にして、諸仏堂は山林に移し寺内の者から選んでまつらせたいという願いである。永久寺の境内を神社にするとはどういうことなのだろう。明治2年5月の口上書から亮珍の考えが推察できる。

上乗院には、生産(正産)守護之神が鎮座しています。神功皇后三韓征伐のみぎり御産気づかれましたが、事が成就するまで御降誕が先に延びるように住吉三神に御祈願されたときの霊璽です。住吉大神の物実を皇居にて奉斎していましたが、鳥羽皇帝の詔があって創建されたばかりの永久寺が預かりました。養和年間に新たに神庫を造り霊璽を奉納しました。御降誕あれば霊璽に祈願致しました。その度に朝廷より金銀・縮緬・御辛櫃・御簾・御絵付御紋・御提灯などを神輿につけて寄付神納されました。しかし近年神庫が大破し修理したいと思っていたところ、大政御一新にて亮珍も復職したので、神庫を改めて社殿に造営し、御安産・天下泰平・五穀豊穣の御祈願を丹精こめて行います。王政復古の御時節にあれば特別の御沙汰をもって社殿造立の御寄附をお願い奉ります。

 同様の趣旨で、明治2年9月、11月にも口上書が提出されている。永久寺には、鎮守三社と呼ばれる牛頭天王・春日明神・布留明神、白山権現社、丹生高野社、玉垣弁財天社があった。亮珍はこれらではなく、生産守護之神の社殿を新たに建立して、これをもって永久寺の境内を神社に変えることを考えたのだろう。生産守護之神が皇室と深い縁があることを強調していることから、王政復古の時流に乗ろうとしたようだ。しかしこの野望は叶えられなかった。

     亮珍の位階授与の懇願

 亮珍ら永久寺の僧侶は復職して布留社に神勤したはずだが、なぜ別のもうひとつの神社の公認をもくろんだのか。生産神社の新造寄付を願い出た口上書と同時に提出された口上書がある。

私どもは元内山永久寺山務上乗院住職をつとめてまいりました。御勅許を蒙り法眼から大僧正にまで至ったところ、昨年御沙汰あり復飾して布留社に勤めるようになりました。唯一神道の祭祀並びに作法を預かり伝えております。なにとぞ同神社社務に相当する官階への叙任を嘆願申し上げます。格別の憐憫をもって御許容いただければ冥加至極ありがたき仕合せに存じます。  
         布留社社務 鷹司故入道准后猶男 内山藤原亮珍
         同家嗣 花山院前右大臣前右大臣家厚雄 内山藤原亮愼

 亮珍は大僧正であったこと摂関家の出自であること、家嗣の亮愼は清華家の出自であることを誇示して、布留社社務にふさわしい官位を求めている。数日後に提出した口上書には「内山永久寺の住職であった時は堂上方(従五位以上)であった。復職して布留社に神勤するようになっても堂上方同格に取り立ててほしい」と訴えている。この願書は奈良県に回されて検討されたようで、「御掛紙」が付いて「願いの趣聞き届け難き事、但し位階願いは別段の事」と記してあった。

 興福寺の僧は復飾して春日神社の新神司となり堂上格の待遇となり、さらに華族となった。亮珍も同じような「出世コース」を切望したのである。これ以後1年余りの口上書のほぼすべてが、亮珍と家嗣の亮愼、配下の僧侶たちの布留社における身分の保証を神祇官当局に訴えるものと言っていい。


大亀池(現木堂池)、山の辺の道が池に沿う。東側(左)に本堂や多宝塔があった

     布留社の社家と復飾者との対立

 その背景には、復職して布留社に神勤する元僧侶と従来の社人との対立があった。口上書から両者の間の紛争が見えてくる。布留社の祭日につき亮珍が提出した書付と従来の社人が提出した書付との間に齟齬があり、役所からその点を突かれた。亮珍はいろいろと弁解しながらも社人たちが話し合いに応じないので、役所が彼らを呼び出して書付をまとめるように説得してほしいと訴えている。

 また、復飾した元僧侶と従来の社人と職掌や規則を取り決めようとしたが、社人が勝手なことを言って決められない。いったん決めたことも破る。このままでは神祀りも行き届かず、神慮の程も恐れる次第で、一同合一して神勤を大切にするように仰せつけてほしい。職役・役名・座席を定めて下知してほしい。このような内容で両者の内紛に役所が介入して解決してもらうことを期待している。もちろん、亮珍ら復職した元僧侶たちに都合の良い解決を願ったのである。

 亮珍は、「布留社神職交名之事」として、自らを社務に配下の復飾元僧侶20人と従来の社家3人の名前を挙げて「宣しく御沙汰之程願上奉り候」と記す。またこれまで神宮寺である永久寺寺務をつとめ総括してきた自分に布留社の長者総括の任務を仰せつけてほしと懇願する。長く培われた伝統ある神社に元僧侶が突然押しかけて運営の要を奪おうとするのだから、社家や氏子たちが反発するのは当然と言える。亮珍は役所から布留社別当であることの証拠を示す物の有無を問われて、往古より別当職を務めてきたが、ご覧いただける証拠のようなものはない、ご賢察いただきたいと返答している。

 内山永久寺が桃山竜福寺、中筋寺とともに布留社の別当寺であったことは事実であるが、支配―従属関係にあったわけではない。布留社はヤマト王権の神話にさかのぼる由緒を持つ古社であり、地域に強固な地盤を有していた。内山永久寺は勅願寺であるが、創建は平安の末であり、余剰貴族の就職口のような存在であった。布留社とは地理的に隣接していたから別当寺になれたのだろう。興福寺と春日社のような濃い関係は、この両者には見られない。永久寺の復飾元僧侶が布留社の神職になることは無理があった。亮珍はそれを感じていたから、生産神社の「公認」を得てスケールを拡大させ、永久寺境内を社地化、自分たちはその神職になることを企てたのか。

 明治3年3月の口上書からは、両者の対立が抜き差しならないものに至ったことが分かる。

……配下内山神職の者ども、昨年来逆心仕り種々奸計を取り企て候につき、彼是惑乱あいなり、奈良県において数多御苦労を掛け奉り候ところ、元配下一同より申し立て方はなはだ不都合の儀に御座候にて、すなわち去る三日また八日、県に一統お召し出しの上、配下の者ども厳重にお叱りご理解を蒙り、諸事是までの如く、当家支配の者相請け一和致すべき様仰せられつけ、当家にも一同平定致すべき様尽力取り計らい仕るべき様御沙汰蒙り深く畏み奉り候事にて、なにとぞ早々平定取り計らい仕りたき候えども、配下一統弁えぬ者ども、当今は諸事ほしいまま振る舞い仕りおり候につき、社中平定の儀においては、掟規御座なき候はば取り計らい仕りかね心痛仕り候、なにとぞ伺いの條目、不都合の儀御座候はば恐れながら仰せ聞かせられ、別段御差支えの儀あらねば、御許容御沙汰成し下されたく恐れながらこの段願い上げ奉り候

 神職の者どもが昨年より良からぬことを企て奈良県庁の役人に苦労を掛け、さらにとんでもないことを申し立てたので県から一同召し出されてお叱りを受けた。諸事これまでのごとく行い和して、当家も一統を治めるようにお達しがあった。そうしたいのだが、弁えのない者たちがほしいままに振る舞うのに、一社を取りまとめる掟規がなく心が痛い。伺い立てた掟規に不都合がなければ許可してほしい。こういう内容である。「心痛」という言葉に亮珍の追い詰められた心境がうかがえる。

 亮珍の関心は布留社における地位と官位の叙任であった。明治3年7月の口上書では、「元興福寺喜多院の空晁が従五位の勅許を蒙った。自分も彼と同等の資格がある。憐憫をもって早々に位階の勅許を蒙りたい」と嘆願している。これには「此書面ハ御下ケ置ニ相成候」の朱書きがあった。

     亮珍の死と永久寺の廃寺

 明治4年(1871)5月、布留社は官幣大社となり、石上神宮と称せられるようになる。神宮の職制は神祇官によって定められ、亮珍は免官された。彼が亡くなったのは翌年である。

 永久寺の西門から延びる道の両側は子院で埋まったが、三重塔もあった。塔が廃絶した後、上乗院の墓地になり、現在その墓標が残る。そこに亮珍の墓もあり、銘が刻まれる。

  明治5年10月3日死/常盤木藤原亮珍墓/(享年67歳3ケ月)か?

 無縫塔が並ぶ中で、彼の墓は質素で銘も素っ気ない。墓地は常盤木家が所有・管理している。常盤木家は亮珍の後継者であった上乗院家嗣の内山藤原亮愼が名乗って、和泉大願寺(浄土宗/阪南市下出)住職を務める。復職した亮愼はふたたび出家し仏門に入ったことになる。大願寺と永久寺は何の関係もないという。(サイト「内山永久寺多宝塔」)

 明治7年3月永久寺は廃寺、堂塔伽藍・諸具は入札で売却、取り払われたという。約7町歩の境内地のうち、宅地(2町2反余)は旧僧侶の居住地として半額払下げ、畑(1町9反余)の内の私費開墾地は無償払下げ、鎮守の社地及び池は官有地、藪 (1反余)・山林(2反)・荒地(1町5反余)は入札で処分される。旧僧侶達は明治20年までには何れも立ち去り、旧境内地一円は田畑に帰した。(『天理市史 上』)

「堂取払願上書案」(鈴木家文書)が残っている。

 「当山内衆僧明治元辰年復飾後諸堂取払仰せ付けられ、大塔并地蔵堂等取毀候へども、其余諸堂今以て存在之處、無用之廃物勿論自立堂宇に付き、此度取払御趣意に基き、分配仕度見込に御座候 
 真言堂(桁梁行7間宛、屋根檜皮葺、代価見積金20円) 本堂(桁梁行6間宛、屋根檜皮葺、代価見積金15円) 観音堂(桁梁行5間宛、屋根檜皮葺、代価見積金30円) 不動堂(桁梁行3間宛、屋根檜皮葺、代価見積金5円) 大師堂(桁梁行3間宛、屋根檜皮葺、代価見積金3円)
 合計金73円 内20円道橋営繕手当、53円戸数に配当仕まつり、利足を以て学費用に宛て申し置き見込みに御座候
 右の通見込みに御座候間、及大破有之諸堂取り払い御許容成し下されたくこの段願い上げ奉り候
         内山惣代前田民夫 戸長岡田六郎
   奈良県令      」(『改定天理市史・史料編第一巻』)

 境内中枢の堂を総額73円で売却し、その利益でもって橋の営繕や村民の学費に宛てるというから、地元に還元されたのだろうか。内山総代として名前のある前田民夫は永久寺世尊院の住職であった。参考のため当時の物価を上げると(『値段史年表』朝日新聞社)、白米10㎏33銭(明治5年)、大工日当40銭(明治7年)である。見積もりは解体廃物利用としての値段であろう。まさに「二束三文」であったと言える。

     永久寺「廃仏毀釈」の風説

 石上神宮には、明治6年(1872)5月に元興福寺学侶の復飾者、今園国映が小宮司として赴任する。5月に元水戸藩藩士の菅政友が大宮司に就任する。彼は神社禁足地を発掘して数々の神宝を取り出したことで有名である。旧来の社家は禰宜に就いている。復飾者が取り立てられたかは不明だが、大半の者は離れざるを得なかっただろう。

 永久寺の極端な廃仏毀釈を伝える伝聞としてよく引用されるのが、東京美術学校第五代校長を務めた正木直彦の『十三松堂閑話録』(昭和12年刊)の中にある挿話である。

「布留石上明神の神宮寺内山の永久寺を廃止しよういうことになって役人が検分に行くと、寺の住僧が私は今日から仏門を去って神道になりまするその証拠はこの通りと言いながら、薪割りを以って本尊の文殊菩薩を頭から割ってしまった。さすがに廃仏毀釈の人々もこの坊主の無慚な所業を悪みて坊主を放逐した。そのあとは村人が寺に闖入して、衣類調度から畳建具まで取り外し米塩醤鼓まで奪い去ったが、仏像と仏画は誰も持って行き手がない。役所は町の庄屋中山平八郎を呼び出して是を預かれと厳命、(略)何時の間にやら預った仏像や仏画が中山所有の姿になった。今藤田家で所有する藤原期の仏像仏画の多くは中山の蔵から運んだものである」

 正木は帝国奈良国立博物館学芸員だったこともあり、おそらく奈良赴任中に話を聞いたのだろう。この話の前に興福寺五重塔を綱で引き倒せなかったので、焼き払おうとしたというエピソードも語られる。一種の風説のようで、この種のものに付きまとう誇張や偏見があるかもしれない。栄華を誇りながら無残に「自滅」した者たちに、人々は同情ではなく悪評をもって追い打ちをかけたようだ。

     永久寺の遺構と遺品

 永久寺の堂塔が撤去された後も神社は残っていたが、明治末までには退転した。残っていた鎮守社の拝殿は大正3年(1913)に移築されて、石上神宮の摂社出雲建雄神社の拝殿になった。鎌倉時代に建造された割社殿は国宝に指定される。

 永久寺の仏像・仏画・仏具の破壊を免れて流失したものがどれだけあるかはわからない。辛うじて特定されている主なものをあげておこう。持国天立像・多聞天立像(平安・興円他作・東大寺蔵・重文)、不動明王座像(鎌倉・快慶作・京都市正寿院・重文)、正観音菩薩立像(鎌倉・快慶作・東大寺蔵・重文)、四天王眷属立像(鎌倉・興円作・東京国立博物館静嘉堂文庫美術館/MOA美術館蔵・重文)不動明王及び八大童子像(鎌倉・興円作・世田谷山観音寺蔵・重文)、小野小町像(桃山―江戸・藤田美術館蔵)、密教両部大経感得図(平安・藤田美術館蔵・国宝)、鰐口(鎌倉・秋篠寺蔵)。

 ボストン美術館は、国宝級といわれる四天王画像(鎌倉)を所蔵する。特定されたほんの一部だけでもこれだけの逸品がそろう。在りし日の永久寺の荘厳絢爛な姿が想像できるだろう。

追記(2023/9/14)

 永久寺の僧侶は一山復飾して布留社の神職になる道を選んだ。これは、興福寺の僧侶が全員復飾して春日社の神職になったことと対応している。しかし、興福寺の元一乗院門跡・水谷川忠起が春日大社宮司になり、公家出身学侶が華族の身分を得たのに対し、永久寺の元僧侶たちはそのような優遇は得られなかった。この差はどこに原因があるのだろう。興福寺戊辰戦争のときから新政府に忠義を尽くして多大な貢献をし、復飾の決定も非常に早かった。それに対する恩賞が、貢献もできず決定も遅れた永久寺との差になって現われたともいえる。だが、根本的な原因は「奈良歴史漫歩135・廃仏毀釈を選んだ興福寺」の追記で述べたように、興福寺にあった岩倉具視の工作が、永久寺にはなかったということではないだろうか。岩倉からすれば、興福寺は「モデルケース」となる寺院であったが、永久寺はそのような寺ではなかった。檀家・信者を持たず別当を勤める神社にも強い影響力がない永久寺は、頼みの綱の領地を失っては消滅するしかなかったと言える。


石上神宮の摂社出雲建雄神社の拝殿(国宝)、永久寺鎮守社の拝殿を移築した

  • 史料の現代語訳・書き下しは筆者の責任で行いました。

参考
明治維新神仏分離史料 第八巻近畿編(㈡)』名著出版 1929年発行 1983年復刻
東京国立博物館編『内山永久寺の歴史と美術』東京美術1994年
『改定天理市史・上巻』天理市1977年
『改定天理市史・史料編第一巻』天理市1977年
正木直彦『十三松堂閑話録』相模書房1937年
由水常雄「新資料発掘『廃仏毀釈』で消えた国宝を追う」(『新潮45』2000年7月号
「大和内山永久寺多宝塔」http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_eikyuji.htm

135 廃仏毀釈を選んだ興福寺 


猿沢池から見た興福寺五重塔、明治5年、横山松三郎撮影 文化庁文化遺産オンライン

 明治維新神仏分離廃仏毀釈の事例としてつねに取り上げられるのが、興福寺に起きた出来事である。藤原氏の氏寺として創建され氏の繁栄と軌を一つにして千年以上にわたり隆盛をきわめた寺院、江戸時代には勢力が衰えたとはいえ、2万1千石の寺領を所有し数十の子院、末寺をかかえた巨刹が一夜にして廃寺となったのである。

 慶応4年(1868)3月に布達された神仏分離令は、神社に奉仕する別当社僧は復飾(還俗)することと神社にある仏像や仏具は取り除くことを命じて、神仏混淆した神社から仏教的要素を一掃することであった。興福寺は寺院であるのに、なぜ僧全員が復飾したのか。僧侶たちは自らすすんで信仰を捨て寺を滅ぼしたが、そこに躊躇いがなかったのか。その後、彼らはどうなったのか。このような疑問に答えるべくこの大事件の顛末をたどってみたい。

     尊王思想に共鳴した興福寺

 慶応3年(1867)12月、王政復古の大号令が発せられて間もなく、興福寺は朝廷方に米千石の献納を申し出ている。願書に曰く、

「今般、王政復古仰せ出でしこと拝承、古今の御美事、一山の輩も恐れながら踊躍恐悦存じ候。これにより万分の一と雖も天恩に報いむために玄米千石を献納奉り候。もし御用の一助になれば冥加至極ありがたき仕合せに存じ候。なお微力ながら何か御用あらせれば仰せつけられるよう願いあげ奉り候。この段よろしくお聴きずみのほど伏して願いあげ奉り候。 興福寺一山学徒中」(『明治維新神仏分離史料 第八巻近畿編(㈡)』8頁)

 鳥羽伏見の戦いは、翌年の1月2日に勃発した。ここでの幕府軍の敗北と徳川慶喜の逃走により雌雄が決した。12月はまだ幕府が押し返す可能性があったときに、興福寺のこの一方的な加担は興味深い。興福寺の公家出身の僧侶は国学を学び尊王思想に染まった者が多く、彼らは維新政府を全面的に支持したというのが、吉井敏幸氏(天理大学教授・近世史)の説である。鳥羽伏見の戦いの後、幕府軍の伊賀越襲来が予想されるので情報を逐一報告するようにと興福寺は命じられている。奈良奉行所の行政権を一時預かることもあった。大和国鎮撫総督久我通久が奈良に入部したときは供応し米1千5百石を献納する。3月の大阪行幸には供奉を依頼され180人の人数を派遣した。

     僧侶であるよりも社僧

 3月17日、神祇官は復飾命令を布告し、社僧と呼ばれる神社に詰める僧侶は還俗するか、僧侶のままなら神社を去るように命じた。興福寺は一山協議して4月13日に復飾願を提出した。そこに次のような文句がある。     

「春日社の義はもとより社家・禰宜の輩これあり候へども、ただ神前に仕る所役にてこれあり。興福寺一派においては総じて春日社に関係いたし年中の神供米をはじめ社頭造営の向き、山木・灯籠・神鹿等の義にいたるまで興福寺の差配、なかんずく若宮祭祀の大営、薪能の義はことごとく皆興福寺一派において差配。大乗院・一条院の両門跡あいかわり別当職を勅許こうむり、一山僧侶をはじめそれぞれ手取役々の輩総括指揮いたし、往古より一同明神へ奉仕いたし来、すなわち一同社僧に御座候。向後奉仕差配の義が断絶せば朝廷の御祈りを社頭で出来難く悲嘆の際なくやまず。臣(大乗院)隆芳(一条院)應照をはじめ院家・学侶・三綱・衆徒・堂司・専当・承仕等別紙公名の通り一同復飾の上在来通りの所務いたし候の様仰せ出で願い奉り候。微力ながら一同勤王の道第一に尽力いたしたく相応の御用向きあらせ候へば仰せられたく候」(同18頁)

 興福寺の僧侶は古来より春日明神に奉仕してきた社僧であり、興福寺の僧侶にしかできない役があるのでもし絶えてしまえば朝廷の祭祀も行えなくなる。一山全員の復飾を認めてほしい。勤王の道第一に尽くすので御用があれば仰せつけてください。こういう内容である。僧侶として興福寺を守るか、それとも春日社の神官になるか、二つの選択肢をつきつけられた彼らは、躊躇なく後者を選んだ。1200年の歴史を持つ興福寺のこと、そして信仰のこと、彼らはどう考えていたのだろう。それについて伺える史料がある。一乗院、大乗院につぐ四院家のひとつ喜多院空晃の意見書である。

「当院も春日神社へ奉仕とは申しながら世外の身なげかわしく、復飾の上随身の御用向きあい勤めたく、これまた千歳の流幣とは申しながら遊民同様の僧侶、過分の高禄世襲の候事、恐縮されるにつきこの度すみやかに返上、旧幕より渡置かれし領券残らずあい添え尋ね出され候と申す趣意に候」(同22頁)

 「遊民同様の僧侶、過分の高禄を世襲してきた」と自らのことを語る。この正直さには驚かされるが、江戸時代の興福寺の様子が伝わってくる。幕府の宗教政策は民衆慰撫のため仏教を利用するとともにいろいろな特権を与えたが、それは一部では僧侶の堕落を招いた。廃仏毀釈は僧侶より低い位置に置かれた神官たちの私怨にもとづく暴発という一面があるが、仏教の側にもそれを誘発する要因のあったことは否定できない。

 興福寺を構成するのは、頂点の両門跡そして院家・学侶・三綱・衆徒・堂司・専当・承仕等の階層秩序である。復職を主導したのは門跡・院家・学侶の寺の上層部である。下層にある者たちは従うしかなかった。復飾願いが当局に聞き届けられ寺に伝えられたとき、唐院のある承仕(下級役僧)の書付には次のようにある。

「之により興福寺の称号は廃亡に相成り候。千万嘆息無限」(『大和における神仏分離史料の収集と研究』25頁)

 「千万嘆息無限」という文字からその心情が伝わる。このような思いを抱いた僧侶も多かったのに違いない。しかしまだこの時点では寺の将来は見通せていなかった。廃寺の現実に直面するのはこの後しばらくしてからである。歴史に「もし」があれば、復飾するものと寺に残るものに二分して興福寺を存属させる方法もあっただろう。それを選ばなかったのは、全山復飾が維新政府の意に一番かなうことであるという忖度があったのか。復飾派と僧侶派にわけることで寺内が混乱することを恐れたのか。後の興福寺復興の口上書で分離令が廃仏ではなかったいう文句が見えるので、誤解があったのか。ひとつ確かに言えるのは、「遊民同様」の門跡や学侶ら身分の高い僧は復飾するにあたって信仰はまったく問題になっていないということだ。彼らを突き動かしていたのは政治的な動機と得失利害であったと思える。

     復飾への抵抗

 復飾した興福寺の元僧侶は新神司となり、春日神社に参勤することになった。神社にもともと謹仕していた社家と禰宜は、突然押しかけた新神司に反発した。別当号がなくなったという理由で新神司の召し出しに応じることを拒絶する。困惑した両門跡はこの事態を神祇局に訴え、従来通りにせよとの命令を引き出して旧神官の抵抗はやんだ。興福寺僧侶の素早い復飾が、春日神社神官による独立のチャンスを潰したともいえる。春日大社権宮司の岡本彰夫氏の雑談で「明治時代に新宮司が来たとき旧来の神官たちは新宮司の作法がなっていないと言って陰で笑った」と言われたのを聞いたことがある。こんなことでうっぷんを晴らしたのだろうか。

 興福寺には末寺(18寺)とその子院(83院)と坊(6坊)あったとされるが、復飾によって本末関係は絶たれた。末寺にも復飾したり廃寺になるところが続出していく。

 維新政府の神仏分離令から日にちが経過し、それが廃仏毀釈を意図したものではないとわかってくると、興福寺の復興を望む僧侶が現れる。明治2年(1869)1月に子院の妙音院から提出された口上書には次のようにある。

「御一新につき寺社隔別の御趣意候へども破仏の御沙汰にては御座なき候。復飾あい願候段まったく心得違い御座候、なにとぞ復僧願いの通りお聞き済み相成り候様、ご採用下されたくひとえに願い奉り候。左様相成り候はば、第一に歴朝聖主の叡願並びに藤氏累代御先霊の御願に相応し、第二に神明仏陀の妙威にあい叶い候、第三に満寺各院先亡諸徳にいたるまで歓喜踊躍つかまるべき候、第四におよそ一千百五十余年相続仕り来し皇国無比の法相大乗教も滅亡仕らず候、第五に霊仏等僧侶一統の滅罪をも祈念したく愚願をご賢察なし下され……」(『明治維新神仏分離史料 第八巻近畿編(㈡)』50頁)

 五つの理由を挙げて興福寺を元に戻すことを訴える、きわめて理にかなった願いである。また東金堂衆と西金堂衆からも口上書が提出された。

興福寺は千有余年聖帝御中絶なく、勅願寺の儀につき御一新の折柄とは申しながら、廃寺と相成り候ては嘆かわしき次第に御座候、伽藍廃絶仕らず様、かつは他山他宗にて支配相成らず様とりはからいつかまつりたく存じ奉り候」(同50頁)

 興福寺の復興を願う元僧侶たちの必死の訴えであるが、両門跡は、復僧は「私利私欲を謀るもの」という理由で退ける。しかし復飾したからには仏教行事はもちろんのこと堂塔の管理もできない。中世以来の伝統の薪能も中止となった。東大寺から両寺の由緒を引いて堂塔の管理の申し出があったが、これは無視されたようだ。子院の西大寺僧が入院する唐院と唐招提寺僧が入院する小坊の僧侶は興福寺の出納を担当していたが、彼らは復飾していないので、当分の間両院に管理を任すことになった。

     寺宝の散逸、堂塔の撤去

 復飾した僧侶は全員改号する。一乗院は光谷川忠起、大乗院は松園嘉尚と名乗るようになる。明治2年3月には、新政府から新たな位階が与えられる。元門跡・元院家・元住侶で藤原氏出身者は堂上格(従五位)、藤原氏以外の元住侶は一代限りの堂上格、元住侶で地下の者は新社司となった。彼らはのちに華族制度が整うとともに男爵を叙爵する。奈良華族と称せられ26家あった。明治2年8月には「春日神社新規則」が神祇官によって策定された。新旧の神官を統一する新たな神職制である。明治4年5月には、春日神社は官幣大社に列せられ、神職の人事や祭祀の内容は神祇官の指導を受けるようになる。明治5年6月、大宮司に元一乗院門跡の水谷川忠起が補任された。神職は整理され、新旧の神官の大多数が罷免され神社を去る。高畑や野田にあった社家が退転するのもこの時からである。

 このような混乱が続く中で、寺院にある経巻、仏器、重宝、絵画、書籍などは流出する。私腹を肥やすためであり、それに手を貸す役人もいたという。天平の写経は金銀を取るために燃やされたり、反故紙となって奈良塗の漆器の包み紙あるいは茶箱の張り紙にされた。奈良時代以来、権威・権力を恣にした国家級寺院である。どれほどの宝物が散逸し破壊されたことだろう。ところで各地に残る伝興福寺とされる仏像もこのとき流失したと思われていたが、最近の研究で興福寺復興以後、資金に窮した寺が売却したことが明らかになっている。

 復飾以後、興福寺にとって決定的な打撃となったのは、明治4年(1871)1月の上知(あげち)令である。境内以外の寺社領が没収され、興福寺は経済的な基盤を失う。この影響は翌年、子院の建物や築地塀の全面的な撤去となって現われた。寺は「旧殿建物残らず取り払いたき由」と県に申し入れる。県は教部省に建物の処置について伺書を出す。一部引用する。

「門塀堂宇の儀は大半破壊に及び修繕の目的もこれなく、方今の御自体にては畢竟無用の長物に属し、中外諸人の通行の妨げにも相成り、加えて諸門内外の儀は不毛の土地にてすなわち今人民撫育専務の時に際しこの良土を旧臭に拘泥しいたずらに荒蕪に差置候儀は惜しむべきことにこれあり……」(同98頁)

 こうして「無用の長物」と化したほとんどの堂宇と塀や門は解体撤去され、現在見るような姿になったのである。なお一乗院宸殿は県庁・裁判所、仮金堂は郡出張所・警察署・県出張所に転用された。このとき初代奈良県令にあったのが四条隆平であり、彼は積極的に「旧習打破・開化政策」を進めた。神鹿が迷信であることを証明するため飛火野で鹿狩りを行ったり、農作物被害を防ぐために鹿園を設けて鹿を閉じこめたりして、鹿は激減したという。

 五重塔が危うく燃やされそうになったという有名なエピソードもこのとき起きたのだろうか。『明治維新神仏分離史料』に水木要太郎(奈良女子高等師範学校教授)の談として載る。 

五重塔を彌三郎とか云う者に売却せんとし、その価格は二百五十円であったそうです。とても足場をかけて打ち壊す費用はないから、火を放って路盤九輪等の金目の物を焼落して拾取ろうとしたが、何分にもあの高い建物に火を放てば近辺が危険であると云うことで見合されたそうです」(同177頁)

 『史料』の他の個所では「二十五円」となっている。水木要太郎は「奈良の生き字引」と称されて信頼されていた人物であるから事実として流布したのだろう。水木の生年は慶応元年(1865)で奈良に移り住んだのは後年であるから伝聞である。『奈良市史 通史四』には、唐招提寺末寺竹林寺の住職吉川元暢の話として、「十五歳のとき師の霊随上人が五両で売りに出されていた五重塔を買い取ったが、奉行所(ママ)から早く取り払えと催促された。取り壊す費用がなかったところ、奉行所が塔は金物があるからといって十五両で買い取られてしまった」とある。この話は直接見聞であるが、これを証拠づける物的証拠はない。こういう事情からか、五重塔のエピソードは「伝承」であるというのが興福寺の公式見解である。しかし、このようなシンボリックな物語が生まれ人口に膾炙したことに、興福寺の徹底的な廃仏毀釈の衝撃性が語られているといえる。

     興福寺の再興

 明治8年(1875)5月に西大寺住職佐伯泓澄が興福寺の管理を任された。同十年代になると興福寺の復興を唱える声が出てくるようになる。13年(1880)5月、「興福寺復称宗名再興願」が堺県を経由して内務省に提出される。元藤原氏華族からも再興願いが出された。14年(1881)2月に復号が許され、9月に清水寺住職薗部忍慶が兼務住職に任じられる。翌15年(1882)、佐伯泓澄から管理権を引き継ぎ、興福寺が再興された。18年(1885)に「興福会」が発足し、メンバーには会長の九条通孝、久爾親王三条実美近衛忠熙らの皇室関係者、水谷川忠起・松園尚喜の元両院家、法隆寺管長千早定朝、西大寺住職佐伯泓澄、元学侶の朝倉景隆・中御門胤隆等が名を連ねた。

追記(2023/9/13)

 安丸良夫著『神々の明治維新神仏分離廃仏毀釈―』の中に次の一節がある。「新政府の首脳からすれば、神仏分離は朝廷に関係のふかい大社寺から漸進的にすすめればよいものであり、この年四月、岩倉の工作によって「一山不残還俗」した興福寺は、そのモデルケースだった」(54頁)。「岩倉の工作によって」というところに注目したい。この本は新書なので、厳格な学術論文ではなく、典拠は示されていない。安丸良夫氏は「日本近世思想史」の碩学と定評のある学者だから、ただの推測でこんなことを書いたとは思えない。これを事実として考えると、興福寺の今まで述べてきた一連の出来事は、復飾だけではなくすべてが門跡と岩倉との根回しというか裏取引があって進んだと考えるのが妥当と思える。

 興福寺復飾者の新政府側への忠義立てと新政府から興福寺復飾者への優遇ぶりは際立っている。岩倉は、寺社勢力が新政府に協力してくれることが必要であり、それには大寺社が率先して政府の方針を実行して範を示してくれることが有効だと考えたことだろう。安丸氏は、それをモデルケースと書いた。公家出身者がトップを占める大寺社は、公家同士ということでコネクションもあっただろう。大寺社は、支配者が変わるときに自らの保身を図るために、岩倉の工作に率先して乗ったのである。これだけの大転換があった背後に、裏工作・裏取引を想定するのはきわめて理にかなっていると思う。


菩提院前の三条通か。築地塀があるが、この撮影の直後解体された。明治5年、横山松三郎撮影。文化庁文化遺産オンライン

132 興福寺東金堂院の北面回廊


興福寺東金堂院の北面回廊発掘調査地、右奥の塔は五重塔。(現説資料より)

 興福寺は『興福寺境内整備構想』(1998年)に基づき、寺観の復元・整備を進める。これにともない、奈良文化財研究所は、中金堂院や南大門跡などの発掘調査を継続して行っており、ここ2年は東金堂院の発掘調査に取り組んでいる。「奈良歴史漫歩」でも興福寺発掘調査の現地説明会は随時レポートしてきた。2001年7月に「歴史漫歩」がスタートしたその回が「7度再建された興福寺中金堂」であった。2018年10月には9代目の中金堂が再建された。境内整備は世代を超えて続くだろう。20数年は寺の長い歴史からすれば、ほんの短期間であるが、この間、横目で再建事業と調査を眺めてきた私には一種の感慨を覚える歳月である。

 10月15日、「興福寺東金堂院北面回廊の発掘調査」の現地説明会が開かれた。そこで明らかになった事実は、東金堂院の構造に新たな知見を加え、その性格の再考を促すものだった。これらに関して報告したい。

 興福寺の東金堂と五重塔は、寺の残存する数少ない歴史的建造物の中でももっとも偉観を誇る堂塔である。東金堂は726年(神亀3)、聖武天皇が伯母にあたる元正太上天皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊像を安置する堂として創建された。五重塔の創建は天平2年(730年)で、光明皇后の発願によるものである。現在の建物は、東金堂が1415年(応永22)、五重塔が1426年(応永33)に再建された。創建以来、5度の焼失を繰り返し、いずれも6代目の建物である。五重塔は令和4年度から始まる120年ぶりの解体修理を目前にして塔初層の内部公開が行われている。

 東金堂と五重塔は、かつて回廊で囲まれていた。2年前(2000年)の調査では、五重塔の西側正面に塔と中軸を揃えた切妻造の八脚門跡が検出された。桁行3間(中央間11尺、両脇間9尺、全長約8.6m)、梁行2間(等間8尺、全長約4.7m)の門で、基壇は南北約10.6m、東西約7.7mと推定される。門に取りつく回廊とみられる基壇と雨落溝も出土した。埋め土に炭を含んでいたので、焼失と再建が推測された。

 昨年は東金堂の西側正面が調査され、堂と中軸の揃う門と西側回廊が明らかになった。門は切妻造八脚門とみられ、五重塔の正面にあった門と基壇の規模とほぼ一致する。門の桁行3間(等間)、全長30尺(約8.8m)、桁行2間(等間)、全長16尺(約4.7m)。基壇は南北36.5尺(約10.8m)、東西27尺(約8m)。回廊は梁行1間(12尺、約3.5m)の単廊であり、基壇は東西21尺(約6.2m)を測った。下層遺構と上層遺構が出土し、上層遺構は平安時代末から鎌倉時代初頭以降の再建に伴うものと考えられる。

 西側に開く二つの門と西面回廊は調査によって明らかにされた。東金堂の北側にも過去の調査から単廊のあったことが判明している。今回の調査は北面回廊の構造と東側への延長を明らかにするために実施された。調査区は、東金堂の北東約43mの位置に南北15m、東西28mのうち樹木等を避けて設定された。

 予想された通り桁行7間分の北面回廊が検出された。12か所で礎石やその据え付け穴・抜け取り穴が見つかった。梁行は12尺(約3.5m)、桁行が11.5尺(約3.4m)となる。礎石は直径ないし一辺が0.5~0.8mの大きさで、厚みは0.3~0.5mあり、安山岩花崗岩が使用されていた。柱座はなかったが、被熱痕跡から直径約0.36mの円柱であったことが推測された。創建時の位置を保ちながら再建時に据え付けなおされた可能性がある。

 基壇の規模は、幅が21尺(約6.3m)である。基壇外装として長辺0.3mほどの石を3段積む乱石基壇が出土する。雨落溝には焼け土が堆積していた。東金堂院内庭部の雨水を排出する暗渠が基壇を横断する。

 東金堂院の規模は南北約110mあり、東西は今回の調査で100m以上になることが判明した。南と東には築地塀があったとされる。回廊は創建時からあったことは確かであるが、いつ廃絶したのだろう。平安時代末から鎌倉時代初頭に再建された回廊は室町時代の応永18年(1411年)に東金堂や五重塔とともに焼失し、それ以後は再建されなかったと考えられる。近世の興福寺の絵図には回廊は描かれない。回廊を削平した参道が出土したが、これは近世の絵図にある春日大社参道から食堂・細殿に伸びる回廊に該当するとみられる。

 調査地区は小高い大きな築山状の裾である。築山には大木が茂るが、これは回廊廃絶後に築かれたのだろうか。ここで遊ぶような人を描いた江戸時代の絵図もあるという。回廊基壇の高さが北辺が0.5m、南辺が0.1mであり、元の地形が北から南へ高くなって傾斜していたといえるが、基壇のある面は現在の地表からかなり掘り下げているので(何センチになるかは確認していない)廃絶以後築かれた築山と思える。なぜ築かれたのか?土はどこから運んだのか?気になるところだ。

 『興福寺流記』は天平期、延暦期、弘仁期の記録をまとめているが、東金堂と五重塔と並んで檜皮葺雙(ならび)堂、副殿、檜皮葺掃守(かもり)殿のあったことがわかる。これらの堂には、丈六の阿弥陀仏地蔵菩薩、薬師檀像、不空検索檀像など多数の仏像が安置されていたようだ。回廊のあったこと、西側に門がふたつ、北側にひとつあることも記される。

 興福寺は多くの子院を抱え、僧侶や下働きする者が合わせて一説には3千人いたという。これら大衆は子院や堂の所在地域ごとにまとまって六方衆と呼ばれたが、さらに東金堂衆と西金堂衆が加わり八方衆となった。彼らはことあるごとに僧兵となって寺の要求を押し通し、また内紛を繰り返した。

 平重衡の南都焼き打ちのあと再建された東金堂の本尊とするために、興福寺僧兵は飛鳥・山田寺を襲って火をつけ、薬師如来坐像を強奪した。文治3年(1187年)のできごとで、その仏像が国宝館に安置された仏頭である。東金堂衆の乱暴狼藉が目に浮かぶ。

 東金堂衆は東金堂院に住んでいたのか。発掘現場で説明にあたっていた奈文研の担当者によれば、それはよくわからないということだ。東金堂院の南を画する寺の築地塀沿いに建物があったらしく、そこに住んだかもしれないという話をされた。江戸時代になると東金堂衆は修験者になったので、寺に住まなくなったともいう。

 なお興福寺の中金堂院も回廊が四周しているが、通路が二つある複廊である。東大寺東塔院は、発掘調査により南に複廊があり、東西と北に単廊のあることがわかっている。


北面回廊発掘平面図。(現説資料より)

参考
奈文研現地説明会資料
奈文研プレスリリース 2022年度「興福寺東金堂院北面回廊の発掘調査(平城第 649 次調査)」 2021年度「興福寺東金堂院の門と回廊の発掘調査(平城第640次調査) 2020年度「興福寺鐘楼・東金堂院の発掘調査(平城第625次調査)
興福寺流記」(『奈良六大寺大観 興福寺』岩波伊書店)

129 薬師寺薬師如来坐像は白鳳仏か天平仏か

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 奈良市西ノ京の薬師寺本尊薬師如来坐像はブロンズ像として世界の最高峰という位置づけが定着している。写実に基づく美の完成された姿として評価する言葉は枚挙にいとまがない。和辻哲郎は『古寺巡礼』のなかで「あの豊麗な体躯は、蒼空のごとく清らかに深い胸といい、力強い肩から胸と腕を伝って下腹部へ流れる微妙に柔らかな衣といい、この上体を静寂な調和のうちに安置する大らかな結跏の形といい、すべての面と線から滾々(こんこん)としてつきない美の泉を湧き出させているように思われる。」(岩波文庫版158頁)と最大級の賛辞を送る。和辻の仏像の捉え方が文学的すぎると批判した美術史家の町田甲一氏も「その(薬師如来坐像)写実的な表現は、上半身に纏った法衣についてもみられ、中に包まれた肉体の形姿に応じて的確な線を描き、薄衣の柔らかい質感をよくあらわしているばかりでなく、豊かな生気ある肉体をも薄衣を通じてリアルに表現している。ことに左胸の部分や、左上膊部から左肩先へかけて衣文のきえてゆくあたりには、生きた人間の体温や触感まで実感させるような、迫真的な表現が認められる。」(『奈良六大寺大観 薬師寺』44頁)と言葉を尽くしてその特徴を微細に表現している。シャープで繊細な感受性の持ち主たちの解説には教えられることが多い。

 薬師如来像は脇侍の日光・月光菩薩像とともにぬめるような輝きを放っていて、ときにその光の反射は鑑賞を妨げられるように感じることがあるほどだ。一説によれば、あの独特の輝きは火災をくぐり抜けた金属の化学反応だという(『大和古寺巡歴』149頁)。それが一層仏像の「神々しさ」を増幅しているのかもしれない。

    本尊移座を記す『薬師寺縁起』

 これほどの仏像だから製作年代への関心は高い。しかし今なお白鳳説と天平説が対立したままで決着をみていない。いわゆる本尊移座論争――藤原京の本薬師寺薬師如来像が平城薬師寺へ移座されたかどうか――と直結する問題であるから、その帰趨は容易ではないだろう。しかし論争の中身を知ることで、仏像と寺の歴史への理解が深まることは確かである。

 長和4年(1015)に成った『薬師寺縁起』は、薬師三尊像が持統天皇の造像であり本薬師寺から7日かけて運ばれたと記す。薬師寺はこの記述を公式見解とし、薬師如来像が白鳳仏であるという説の最大の根拠もこの『縁起』にある。ちなみに美術史上の白鳳文化乙巳の変(645年)から平城遷都(210年)の時期を指し、天平文化は平城遷都以後の奈良時代を指す。

 本薬師寺の造営のプロセスは、『日本書紀』と『続日本紀』の記述からいくつかの節目がある。本尊との関わりから注目されるのは、持統2年(688)に薬師寺で無遮大会が行われたことである。686年に崩御した天武天皇の葬送儀礼の一つとして重要な儀式が行えるほどに寺の造営は進捗し、金堂と本尊はこの時は完成していたと見なすのである。

 持統11年(697)6月に「公卿百寮、天皇の病気平癒のために仏像を発願」という記事が『書紀』にある。その1ヶ月後に「公卿百寮、薬師寺にて開眼供養をおこない」、2日後に持統天皇文武天皇に譲位している。この記事を以て本尊薬師如来像の完成という見方もある。しかし丈六ブロンズ像を製作するのに1ヶ月は短すぎる。また天武天皇が発願した寺院であるのに本尊が公卿百寮の発願となるのはおかしいという批判がある。天平仏派は本尊の持統2年完成とする者が多く、白鳳仏派は持統11年完成と見る者が多いようだ。

 『薬師寺縁起』は平城薬師寺が造営された約300年後に著された。奈良時代に作られた『薬師寺流記資財張』を直接引用する形式で書き進められるが、薬師三尊像を含む金堂条は間接引用であり、天皇の名も他が和風諡号であるのにここでは持統天皇という漢風諡号が用いられる。そのためこの部分の記述は『縁起』の作者の作文として「本尊移座」を疑う意見がある。一方、間接引用も和風諡号も問題ないという反論もある。

 長和4年時点で、本尊は本薬師寺から移座されたと思われていたことは確かである。他に手掛かりにできる有力な文字資料はないので、『縁起』だけから考えると、本尊移座=白鳳仏説の優位性は動かないようである。

     様式から見た薬師如来坐像 

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薬師如来坐像頭部

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山田寺仏頭

 昭和12年(1937)に興福寺東金堂から青銅丈六像の頭部が発見された。『上宮聖徳法王帝説』裏書から、天武天皇14年(685)に開眼供養が行われた旧山田寺講堂本尊薬師如来像の頭部とみられる。現在国宝館に安置された「仏頭」である。製作年代のわかる白鳳仏の出現は、仏像の様式研究を一気に進展させた。町田甲一氏は、仏頭と薬師寺薬師如来像の様式的な相違を次のように述べる。長文になるが引用する。

 「飛鳥仏に比べると、白鳳の仏像は、顔も肉体も丸く、柔らかな肉付けになっている。衣の襞も飛鳥のものに比べて、はるかに柔らかくリアルになっており、衣と肉体の関係も、かなり有機的にリアルになっている。(略)

 しかし、その点も.天平時代のものに比べればまだ十分でない感じがある。天平時代の仏像の衣は、全く本物のように、塑形されており、肉体の表現も完璧である。さらに細かい点についていえば、白鳳の仏では、眼は上瞼の線が弧を描き、下瞼の線はほぼ直線をなしているが、天平の仏像では、むしろ上瞼の方が直線に近く、下瞼の線がゆるく大きく波打っている。また白鳳仏では、鼻の外側がかたい面をなし、これが頬の面と接するところに、強い線をあらわしており。鼻筋の線も強い直線をなして眉の線につながっているが、天平時代のものでは、すべてが柔らかく.丸味をもってあらわされている。

 鼻も白鳳仏では、小鼻が幅せまく、上下に長く、鼻の孔のある面が多くの場合かたい平面をなしている。その点でも天平仏は柔らかく豊かな鼻であり、また白鳳仏は、顔の感じも童顔で、身体比例も小児的であったり、あるいはそうでなくとも身体つきの感じが小児の身体を思わせるようなものを示しているが、天平仏は、顔も身体も全く完成された成人の相好を示している。」(『大和古寺巡歴』153頁)

 これだけの様式の相違がある二仏がわずか3年の時間差で製作されるとは思えず、相当の期間を経て、すなわち薬師如来坐像は移転後の平城京において製作された天平仏であるということになる。

 様式の相違は白鳳仏派も認める。この時代の日本の仏像が唐の仏像の影響を受けて製作されたことは美術史の共通理解となっているが、唐から移入された新旧の様式が同時に並行して、一方は山田寺講堂の薬師如来像、もう一方は薬師寺薬師如来像になったというのが、本尊移座説の白鳳仏派の基本的な考え方である。様式の新旧が製作年代の差異に必ずしも現れないというのである。美術史家の杉山二郎氏は、「唐長安在住の一流の仏師、鋳造工」の手により「唐朝中期・盛期に結実したグローバルな造形表現、様式そのものがこれらの彫像に具現した」(『薬師寺白鳳伽藍の謎を解く』145・148頁)という。これなら新様式を理解吸収する時間も省けるだろう。

 しかし様式と製作年代とを切り離す説は、他の仏像を含む全体に当てはめることは困難に思える。飛鳥、白鳳、天平の仏像の様式は工法とともに年代と相関して変化していったと捉える方が整合的である。この点で薬師如来像=天平仏は説得力がある。

     長和4年の伝承

 本薬師寺は平城薬師寺ができたあとも存在し続けた。廃絶したのがいつ頃になるかは正確には不明だ。万寿2年(1025)に源経頼は本薬師寺に宿泊したことを『左経記』に記しているから、寺として存在していたことは確かである。しかしその70年後の嘉保2年(1095)には、本薬師寺の塔跡から舎利が発見され平城薬師寺へ移された(『中右記』『七大寺日記』)ことから、この頃までは完全に廃絶していたようだ。

 長和4年(1015)の『縁起』が書かれたころは、堂塔がどこまで残っていたかはわからない。『縁起』の金堂条が間接引用であり漢風諡号が使用されることを問題視する議論を先に紹介した。「已上持統天皇奉造請坐者 已上流記文今略抄之」と小文字で記されたあと、「古老傳云 件佛像従本寺七日奉迎云々」と続く。「以上(薬師三尊像)は持統天皇がお造りになり安置せられた 以上流記から抄略して記す 古老の伝えるところでは、件の仏像は本薬師寺から七日かけて迎えられた」という大意であろうか。この部分は『縁起』の作者が書き加えたもので、『流記」にあったものではない。そのため内容の真偽性に疑問の余地が生じるわけだ。確実に言えるのは、長和4年の時点で本尊は移座されたという伝承があったことのみである。

 このような伝承が生じたのは、本薬師寺の金堂が本尊仏像とともに廃絶して久しかったからではないだろうか。もし本尊移座が事実だとすれば、金堂は空となり新たに本尊を造るか空のままかのどちらかになる。古代史家の東野治之氏は、平城薬師寺が本薬師寺の宗教機能を吸収したため本尊不在であったとしても問題はないと述べておられるが、寺の中枢が不在のまま300年間維持されたというのは理解を超える。本尊を新たに造るというのも不自然であり手間を要する。やはり新旧の寺にはそれぞれに本尊が安置されていたが、本薬師寺の金堂と本尊が失われ幾世代を経る間に伝説が生まれたのではないか。その背景には見事な仏像を本願の天武・持統天皇へ結びつける思いがあったように思う。

参考
和辻哲郎著『古寺巡礼』岩波書店
『奈良六大寺大観三 薬師寺岩波書店
町田甲一著『大和古寺巡歴』講談社
東野治之「文献史料からみた薬師寺」(『薬師寺白鳳伽藍の謎を解く』冨山房インターナショナル)
杉山二郎「薬師寺金堂薬師如来三尊考」(『薬師寺白鳳伽藍の謎を解く』冨山房インターナショナル)
久野健著『白鳳の美術』六興出版
林南壽「金堂薬師三尊像」(『薬師寺千三百年の精華~美術史研究のあゆみ』里文出版)
大橋一章著『日本の古寺美術4 薬師寺保育社

128 薬師寺西塔心礎移動・本薬師寺西塔白鳳時代建立説

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復興された薬師寺西塔

 天武天皇が鸕野讃良(うののさらら)皇后の病平癒を祈願し創建した薬師寺は、天武亡きあと持統天皇文武天皇に引きつがれ、藤原京の地に698年にほぼ完成をみた。平城京遷都とともに薬師寺もその右京六条二坊に移され、南都七大寺の一つとして権勢と寺観を誇った。

 藤原京に残った本薬師寺平城京薬師寺との関係について、建物を移建したのかどうか、本尊を移座したのかどうかという論争が明治以来続いて今もなお決着がついていない。

 建物の移建については、本薬師寺が奈良・平安時代も存続し、また中門や回廊の構造が二つの寺で異なっていることから、伽藍がそっくり移るようなことは否定されている。しかし、本薬師寺で使用された瓦が平城薬師寺からも出土する事実から、一部の建物、たとえば僧坊などが移建された可能性も消えていない。

     薬師寺西塔新移建説の登場

 現在注目されるのが、西塔をめぐる問題である。平城薬師寺西塔の心礎には舎利孔があるが、本薬師寺西塔の心礎は舎利孔はなく出枘(でほぞ)がある。舎利孔のある心礎は白鳳時代より前のものであり、出枘の心礎は奈良時代以降に製作されたという年代観から、石田茂作氏は本薬師寺の西塔は平城京に移したあと再建されたという説を唱えた(1948年)。90年代に本薬師寺の発掘調査が進んで西塔跡から奈良時代の瓦が大量に出土した。この事実を受けて西塔の建立は奈良時代へ下るという説が有力となった。これを踏まえて鈴木嘉吉氏は、新たな「西塔移建説」を提唱されている(2006年)。以下、この新説を検討する。筆者はかねて「西塔心礎移動説」を提起しているが(奈良歴史漫歩68、奈良歴史漫歩79)、最後に西塔移建説に対置する新たな傍証を示して再説したい。

     本薬師寺塔の裳階は吹き抜けか

 本薬師寺と平城薬師寺の東西四塔を比較する。

 

基壇長

心礎

側柱礎石

裳階柱礎石

地覆石

薬師寺東塔

約14.2m

舎利孔あり

各等間

約240cm

地覆座あり

不明

凝灰岩?

〃西塔

約13.5m

出枘あり

柱間240cm

不明

花崗岩

平城薬師寺東塔

約13.3m

根継石を据えた窪みあり

各等間

約240cm

地覆座なし

地覆座あり

凝灰岩ほか

〃西塔

約13.65m

舎利孔あり

各等間

約240cm

地覆座なし

地覆座あり

花崗岩

 四塔は基壇規模や初層平面規模がほぼ一致する。本薬師寺東西塔の裳階柱礎石は見つかっていないが、裳階の屋根に葺かれたと推定できる小型の瓦が出土している上、さらに基壇規模からも判断して裳階のあったことは確実視される。ただ本薬師寺東塔の側柱の礎石には、柱間の壁を受ける地覆座があることから、裳階は吹き抜けであった可能性が高い。平城薬師寺の壁や連子窓のある裳階は、地覆座が側柱礎石ではなく裳階柱礎石につくことと一体であるから、二つの寺の塔の外観はかなり異なっていただろう。吹き抜けの裳階が二層と三層にあったかも疑問である。

 平城薬師寺の高さは34mあり、三重の塔としては他の塔の平均からして10mほどは高い。各層に裳階がついての高さである。初層の平面規模は裳階を入れて11m四方になり、この高さがあってバランスがとれることになる。裳階がなければ、ずいぶん間延びした印象になるし、他の三重塔並の高さならバランスを欠く。五重の塔であるなら、バランスの点からは合理的だろう。しかし堂塔の平面サイズや伽藍配置を踏襲することにこだわった寺院が、塔の外観を大きく変えるというのも解せない。

     本薬師寺西塔の奈良時代建立説

 本薬師寺西塔は基壇の四分の一の東南部が調査された。基壇には心礎しか残っていないが、四天柱と側柱の礎石据え付け穴4個が検出された。同時に出土した瓦の製作時期は、大きく二つに区分される。一つは本薬師寺創建期の白鳳時代、もう一つは奈良時代である。報告書からそれぞれの時期の出土数を見る。

 

本体軒丸瓦

本体軒平瓦

裳階軒丸瓦

裳階軒平瓦

白鳳時代

55

58

58

25

奈良時代

27

38

34

 出土瓦を分析した花谷浩氏は、この結果から本薬師寺西塔は「残っていた創建の瓦に新相の瓦を混ぜて、奈良時代の屋根を葺き上げた」という「西塔非移建・奈良時代建立説」を打ち出した。建築足場が一時期しかなかったことも傍証となる。

 鈴木嘉吉氏は、この花谷氏の本薬師寺西塔奈良時代建立説に同意する。その一方、平城薬師寺において他の堂の基壇がすべて凝灰岩でできているのに対し、西塔の基壇の一番底にある地覆石が花崗岩であることに着目する。これは飛鳥寺金堂・塔、山田寺金堂・塔、川原寺金堂・塔、本薬師寺金堂にも共通して、飛鳥・白鳳期の大寺の正統的手法だという。ここから次のような推測が導かれる。

 「藤原薬師寺で西塔の造営に着手するころ寺の移転が決まり、準備した材料をそのまま運んで平城で組み立てた。そして平城薬師寺がほぼ完成したころ、改めて旧寺に西塔を建立して伽藍の姿を整えた。」(『薬師寺白鳳伽藍の謎を解く』26頁)

 準備した材料には、舎利孔を刻んだ心礎がもちろん含まれる。「西塔材料移建・奈良時代建立説」とでも名づけられよう。これは本薬師寺と平城薬師寺の塔が規模はもちろん形もほぼ同じであるという推測が前提になっている。

     薬師寺西塔基壇の攪乱抗と版築の乱れ

 本薬師寺西塔基壇の調査報告では、心礎周辺の土の攪乱が記録されている。「心礎周辺と下面は大きく攪乱され、攪乱抗には瓦片が投棄されている。この攪乱は西塔心礎の上面が現状で水平ではなく、若干傾いていることとも関連するようである」(『奈文研年報1977-Ⅱ』27頁)。西塔基壇南北断面図を見ると、心礎の南側が大きく掘り返されたような跡がある。心礎据え付け穴とは明らかに異なる。さらに基壇版築について「基壇築成土は、底面から約1.5mの高さまで残る。築成土は上半部と下半部とでは状況が異なり、下半部(約1m)では、一層の厚さが約3~8cmと比較的細かく版築するのに対して、上半部(約0.5m)は、一層の厚さが約10~15cmと分厚い」(同27頁)。

 この事実から導かれる仮説は、心礎の移動があり攪乱抗や上半部の版築の粗雑さはその痕跡であるということだ。本薬師寺東塔と平城薬師寺西塔の心礎の舎利孔はうり二つと言っていいほど似ている。しかし後者には、前者にはない柱座底面周縁の溝があり湿気抜きの細穴が穿たれている。これは二つの心礎は同時期に製作されながら、後者があとで改良されたと推測できる。

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薬師寺西塔基壇調査遺構図(一部)

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薬師寺西塔基壇南北断面図

 すなわち次のようなストーリーが描ける。本薬師寺東西塔は藤原京においてすでに竣工されていたが、平城薬師寺を建立するにあって西塔の舎利を心礎ごと移すことになった。そのため心礎の周囲が大きく掘り返され、基壇の一部も削られ運び出された。そのあとに出枘のある心礎が運び込まれ、土が埋め戻された。そのときの工事が雑であったため、心礎がのちに傾くことになった。平城薬師寺へ運ばれた心礎は、湿気対策のための溝と細穴が刻まれて西塔に据え付けられた。

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薬師寺薬師寺の心礎舎利孔

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薬師寺西塔心礎

 心礎を移すために塔を解体する必要はない。心柱は本体の建物とは独立して立っているからである。ただ心礎から心柱を切り離すために、心柱を建物に固定するという作業が加わる。平城薬師寺東塔では、心柱に短い貫を通して両脇から支えるという細工が施されていたが、これは心柱の修理にともなって行われたのだろう。

 奈良時代の瓦が出土したのは、心礎を入れ替える工事の際に振動や衝突があって瓦が落下破損し、補充したからではないだろうか。本体建物の瓦数を比較すると、奈良時代白鳳時代の半数ぐらいであることが、それを物語る。裳階の軒丸瓦は報告書では時期の区別がつかないが、その総数において本体瓦と匹敵しているのは注目される。裳階が各層にあったという有力な証拠になる。

 従来の「西塔心礎移動説」には修正を加えたが、「薬師寺西塔心礎移動・本薬師寺西塔白鳳時代建立説」を再度提起したい。本薬師寺の構作がほぼ終わると記されたのが698年、平城京薬師寺が移ったのが718年、この間20年あるが、本薬師寺の西塔がまだ完成していなかったというのは考えにくい。天武と持統の思いのこもった寺院の造営は当時の政権にとって最優先すべき課題だったはずだ。西塔の完成が遅れた例として大官大寺がよく引用されるが、工事途中で焼失した超巨大な寺院に西塔の痕跡がなかったことが良い比較材料なるとは思えない。

参考
鈴木嘉吉「薬師寺新移建論―西塔は移建だった」(『薬師寺白鳳伽藍の謎を解く』冨山房インターナショナル)
「本薬師寺の調査―1995-1・2・3次、1996-1次 本薬師寺出土の瓦」(『奈文研年報1977-Ⅱ』)
花谷浩「本薬師寺の発掘調査」(『仏教芸術』235号 毎日新聞社
石田茂作「出土古瓦より見た薬師寺伽藍の造営」(『伽藍論攷』養徳社)

127 薬師寺東塔の解体修理

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 2009年7月から本格的な解体修理を行ってきた薬師寺東塔は修理を終え、今年の3月からその一新した華麗な姿をふたたび参観者の前に現した。コロナ禍のため正式な落慶法要は延期されているが、初層内部を基壇から拝観でき、また地上に降ろされた創建期の水煙なども間近に見学できる。

 「一新した」と書いたが、一見したところ、東塔は修理前の姿となんら変わっていないように見える。しかし注意深く観察すれば、変化に気づく。土に埋まって70cmの高さだった基壇がかさ上げされて130cmとなった。壇正積みだった基壇外装は創建期の切石積みにもどされ、これらの改修により他の堂塔と揃うことになった。前は西階段しかなかったが、西塔と同じように東西南北に階段が設けられた。

 復興した白鳳伽藍のなかで東塔は異質感が際立っていたが、今はなんとなく前よりも伽藍全体が落ちついた印象を与えるのは、このような改修のせいだろうか。かさ上げのせいで、東西両塔の高低のアンバランスが緩和され、東塔が威厳を取り戻したようにも感じる。

 天平2年(730)に建立されたという東塔は、1300年の風雪に奇跡的に耐えぬき現在に及ぶが、この間数々の災害に遭い修理を繰り返してきた。しかし満身創痍とも言える状態にあり、抜本的な修理が急務とされた。解体修理は塔を構成する部材のすべてを解体して、修復不能な部材は新調しふたたび組み立てる。東塔が建って以来の大修理であり、修理と平行してあらゆる方面からの調査も実施された。修理と調査の両面からこの平成の大事業をレポートしたい。

     元の基壇を保存して新基壇で覆う

 解体の最終段階である基壇の発掘調査から見ていく。心柱を取り除いた基壇は一辺が14.6~14.7m、明治の修理で壇正積みの外装にされていた。それを除くと内側に近世の基壇外装の跡が現れた。西側は切石積み、東側と南側は乱石積みである。さらにその内側に創建期の凝灰岩の地覆石が東西南北の四辺に残り、北西角には羽目石だけがあったことから一辺13.3~13.4m、高さ1.3mの切石積みの外装と判明した。その周囲に犬走りと雨落溝がめぐっていた。修理のたびに基壇は外側に拡張されたため、変遷の跡が残された。

 心礎や四天柱と側柱の礎石は創建期に据え付けられたままの位置を保ち、裳階柱の礎石は明治の修理で据え付け直されていた。西塔の心礎には舎利孔が穿たれていたが、東塔の心礎に舎利孔は存在しないと予想されていた。予想どおり舎利孔はなかった。

 基壇は版築で一層あたり2.5~6cmの厚さに突き固められて約30層あった。その下に掘り込み地業が行われていた。基壇より広い一辺15.7mの方形の範囲を40~70cm掘り下げて、粘土と灰白色の砂を入れ地質を改良した。

 版築の基壇と掘り込み地業で足もとを固めたものの、不均等に沈む不同沈下は避けられなかった。西側が東側よりも13~20cm低くなったのである。創建期の建物工事が始まる前から沈下したらしく、柱を切り詰めて水平になるような加工がされていた。

 東塔の周辺は地下水が流れて地盤が軟弱らしい。かつては大雨があれば周辺は水浸しになり、調査中も湧き水が絶えなかった。

 心礎近くの掘り込み地業の底から和同開珎4個が出土した。他のふたつの礎石の据え付け穴からもそれぞれ和同開珎が1個ずつ見つかっている。地鎮供養と見られる。

 塔を修理組み立てるにあたって元の基壇遺構はそのまま保存され、その上に新たな基壇と模造礎石が築かれることになった。新基壇は鉄筋の空箱を伏せたような形で元の基壇を覆い、24本の鋼管の杭(直径40~60cm、長さ12~13m)によって支えられる。これにより95cmかさ上げされた。柱は模造礎石の上に据えられたが、心柱は新基壇を抜けて元の心礎に据え付けられた。

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東塔基壇、東から

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創建期の基壇外装,北西角。羽目石の一部、地覆石、犬走りが見える

     心柱の空洞を埋木する

 檜材の心柱(最大直径約90cm)は根元から初重天井に達する大きな空洞ができていた。空洞はずいぶん前からできていたようで、正保2年(1645)の修理では根元を長さ1.06m切断し、代わりに根継ぎ石を補い心礎に据えていた。東塔の初重には釈迦の一生を表した釈迦八相の前半の四場面が、法隆寺の塔本塑像のように安置されていたが、この時の修理のために塑像は撤去され、その後に根継ぎ石を隠すために須弥壇が築かれた。

 空洞を埋めるため新しい檜を高さ50cmごとに段をつけ、上から下へ直径が大きくなる円筒を重ねるような5段にして埋木した。さらに基壇のかさ上げの高さを継ぎ足した。

 心柱は3重目で上方に杉材(最大直径53cm)を継いであった。康安元年(1361)に大地震があり塔が傾いたという記録があり、この後の修理で継がれたらしい。放射性炭素年代測定法では、杉材は1339~66年の測定値が出ていて、この推測を裏づける。下方の檜材は年輪年代法で719年の下限が示され、730年の創建と矛盾しない。二つの材は仕口ではなく添え木をあて明治の修理のボルトとナットで留めてあった。新たなボルトとナットと和釘を使用して継ぎ目を補強した。

 心柱の頂部を切り欠いて舎利容器が安置されていた。元来東塔には舎利が納められていなかったが、享禄元年(1528)に舎利を安置した西塔が兵火にあい焼失したため、明治の修理の際に玄奘ゆかりという舎利を江戸時代の舎利容器に納めて心柱に埋めたと見られる。今回の修理では舎利容器が新調された。

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正保の修理で心柱の根元を切り取り据えられた根継ぎ石

     相輪の宝珠、龍車、水煙などを新調

 相輪は高さ約10mあり、各部材は創建期に製作したものである。数多く修理された跡はあるが、1300年間、風雨にさらされて残ったのは驚きである。しかし劣化は進んでいたため多くの部材が新調された。上から順番に挙げると、宝珠、龍車、水煙、これらが据えられていた擦管、一番上の九輪、一番下の擦名が刻まれた擦管である。また二つの擦管が修理された。

 相輪の材質は最新の機械と方法で調べられて、復元には当時と同じ材料を用意した。型はレーザーによる3D計測をもとに作られた。製作にあたったのは、富山県の伝統工芸高岡銅器振興協同組合である。古色仕上げのため、前と変わらぬ相輪の姿である。歌にも詠まれた名高い水煙の飛天は、西僧坊に展示され間近に見学できる。

 薬師寺の塔の特徴である二重と三重の裳階は、柱下の腰組でその重量を支えている。腰組への負担を軽減するために裳階の四隅に金属板をあてがい、それらを金属棒で柱につなぐという補強がされた。

 初重内部の天井と初重裳階の垂木の裏板には彩色があり宝相華文が描かれる。その剥落止めが行われるとともに、復元された極彩色の文様の天井板が、当初材の失われた箇所にはめこまれた。

 木材の部材の総数は1万3千点、新材に取り替えられたのは1千5百点、まったく補修の必要がなかったのは9千点であった。

 丸瓦は約8千枚のうち約5千枚、平瓦は約1万7千のうち約1万枚が新品に替えられた。

 西塔の裳階は鮮やかな緑と朱の連子窓になっている。東塔は漆喰である。今回の調査では、初重の中央は扉、両脇は窓、端は壁であり、二重と三重は中央扉、両脇は窓のあったことが判明した。しかし窓の形式や寸法は不明だという。

 このレポートは、『よみがえる白鳳の美-国宝薬師寺東塔解体大修理全記録』(朝日新聞出版2021年)を参考にした。

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笛を吹く水煙の飛天

参考
『よみがえる白鳳の美-国宝薬師寺東塔解体大修理全記録』(朝日新聞出版)
薬師寺第127号』(薬師寺
大橋一章著『薬師寺 日本の古寺美術4』(保育社

117 新薬師寺・香薬師像の三度の盗難と戻ってきた右手

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盗難前の香薬師像。明治21年小川一真撮影
 

     白鳳仏の傑作

 奈良市高畑町に所在する新薬師寺は、光明皇后聖武天皇の病平癒を願って創建した古刹である。七体の薬師如来像を安置した金堂を中心に七堂伽藍整う巨大な寺院であったが、相次ぐ被災を経て創建時の建物は、かつて修法を行ったと言われる現在の本堂を残すのみである。本堂には平安初期の薬師如来座像が鎮座し、その周りを奈良時代十二神将が取り囲む。いずれも名高い国宝である。寺にはもう一体、有名な仏像が存在した。白鳳時代(7世紀後半から8世紀初頭)の傑作だとされる香薬師像である。本堂の西に建つ新しい香薬師堂にまつられた像はそのレプリカである。

 香薬師像は、昭和18年(1943)3月、盗難に遭ってその行方は今もようと知れない。写真で見る像高約74センチの金銅仏は、童子のような無垢で柔和な印象を与える。この時代の仏像特有の雰囲気を一身に体現しているようで、多くの仏像ファンを魅了する。歌人・美術史家の会津八一(1881~1956)は、奈良を訪ねるたびに香薬師を拝したという。歌集『南京新唱』には、香薬師を歌った三首が収められる。その一首が境内の石碑に刻まれた。八一の最初に立った歌碑だという。

 ちかずきてあふぎみれどもみほとけのみそなはすともあらぬさびしさ
 (大意 近寄って仰ぎ見ても、み仏が自分を認めてご覧下さることもないこのうらさびしさよ)

 次に他の二首も挙げる。(大意は、吉野秀雄『鹿鳴集歌解』から引用した。)

 かうやくしわがをろがむとのきひくきひるのちまたをなずさひゆくも
 (大意 香薬師を拝もうと、軒の低い小家続きの真昼の町に心親しみつつ、新薬師寺への道をたどっていく)

 みほとけのうつらまなこにいにしへのやまとくにばらかすみてあるらし
 (大意 香薬師のうつらうつらした仏眼に、遠きいにしえの大和国原はいまも霞んでいるらしい)

 亀井勝一郎(1907~1966)は『大和古寺風物誌』の中で香薬師を絶賛した。

 「香薬師如来の古樸で麗しいみ姿には、拝する人いずれも非常な親しみを感ずるに相違ない。高さわずかに二尺四寸金堂立像の胎内仏である。ゆったりと弧をひいた眉、細長く水平に切れた半眼の目差、微笑していないが微笑しているように見える豊頬、その優しい典雅な尊貌は無比である。両肩から足もとまでゆるやかに垂れた衣の襞の単純な曲線も限りなく美しい。‥‥どこかに飛鳥の楚々たる面影を湛えて、小仏ながら崇高な威厳を保っている。」

     三度の盗難

 ところで香薬師像は昭和18年の盗難の前にも明治に二度も盗難にあっている。いずれも発見されて仏像は寺に戻ってきている。これもよく知られた事実で、いやが上にも好奇心をかき立てる。これらの事件を詳しく知りたいと前から思っていたが、最近、貴田正子氏の著書『香薬師像の右手~失われたみほとけの行方~』(講談社2016年刊)を読んで、その機会を得た。この本を元に事件をたどり、後日談にも触れてみたい。(ネタバレがあります。)Amazonにある本の要旨を紹介しておく。

 「奈良・新薬師寺の香薬師像は、旧国宝に指定され、白鳳の最高傑作といわれた美仏。しかし、昭和18年に盗難に遭い、未だに行方が分かっていない。この香薬師像を見つけ出そうと、元産経新聞の記者である著者が取材を開始。新薬師寺住職の全面的な協力を得た調査の結果、衝撃の新事実が発覚。ついに、像の一部である「右手」を発見する……。美術史的にも非常に意義のある大発見までの経緯をまとめた、渾身のノンフィクション。」

 著者が香薬師像に初めて出会ったのは、新聞記者として最初に勤務した茨城の笠間市においてだった。戦後すぐ笠間町は「国宝コピー仏像」を展示する町営の美術館を創設し、そのひとつが石膏製の香薬師像だった。美術館はすでになく倉庫に眠っていた香薬師像の愛らしさに著者は一目惚れする。それから元の仏像について、コピーが製作された経緯について取材が始まる。

 盗難事件は新薬師寺にもほとんど記録が残っていなかった。当時の新聞記事や公文書を博捜して明治の事件が明らかにされる。1回目の盗難は明治23年(1890)1月に発生した。この時は、寺の西800メートルほどの喩伽山にある天満天神社の境内に放置された状態で仏像は発見された。折られた右手がそばにあった。黄金仏とも称されていたことから純金を狙った盗みと推測された。手を切断して純金製でないことを確かめ捨てられたようだ。

 2回目の盗難は明治44年(1911)6月に起きた。仏像は本堂内の厨子に収められ鍵は掛かっていなかった。深夜、留守居の者が本堂の方で物音がするのを聞いているが見回ることはせず、翌朝も本堂入り口の鍵に異常はなかったので不審を抱かなかった。気づいたのはその翌日、厨子を開けた時だった。捜査は難航し、寺は事件解決につながる通報者に100円の懸賞金をかけた。盗難から約10日後、大阪府東成郡墨江村(大阪市住吉区)の草むらに地元の人が捨てられた仏像と右手を見つけ警察に通報し、香薬師像だとわかった。両足は足首から切られて見つからなかった。像は寺に戻り、通報者には100円が払われた。今回も純金目当ての盗難だと推測できる。

 二度の盗難に懲りて、篤志家たちの寄付で仏像を安置する香薬師堂が大正6年(1917)に建てられた。右手は銅板で継がれ、失った両足は木製で補われた。死角(四角)がないようにと五角形の厨子に収められた。

 だが、二度あることは三度あった。昭和18年3月26日の朝、お堂の錠がバールのようなもので壊され、仏像が消えていた。6年前に東大寺法華堂の本尊、国宝の不空羂索観音像の宝冠が盗まれるという事件が起き未解決だったので、奈良県警は戦時下であったが大捜査態勢を組んだようだ。その捜査にかかって時効寸前だった宝冠は見つかり犯人も逮捕されたのは幸運だったが、香薬師の行方はわからず迷宮入りとなった。

     現場に残った像の右手とレプリカ

 著者は資料を調べていたとき、奈良古美術の写真館「飛鳥園」の創設者、小川晴暘(せいよう・1894~1960)の文章に目がとまる。3回目の盗難の直後、奈良県警の捜査室で像の右手と木で補作された両足を目撃したことが記されていた。現場に残されていたものだという。新薬師寺の住職、中田定観氏はこれを知って驚愕し容易に信じられなかったという。定観氏は昭和19年(1944)に寺で生まれ育った方である。先々代の福岡隆聖(りゅうせい)師と先代の中田聖観師(1917~2010)とずっと同じ屋根の下にいて、そのことを聞いておられなかったようで無理もない。だが、犯人はなぜ現場に右手と両足を残していったのか?盗まれた像はどんな姿だったのか?新たな謎が生まれた。

 著者が香薬師に関心を持ったのは、前述したように茨城県笠間市の像のレプリカに出会ってからである。レプリカはどのように製作されたのか。実は盗難の直前、昭和17年(1942)に二人の彫刻家がそれぞれに像の石膏雌型をかたどっている。笠間の石膏レプリカはその雌型を使用したものだ。他にも銅像製や樹脂製のレプリカが出回っているが、このふたつの雌型が元になっている。

 銅製レプリカが香薬師堂に収まった経緯も明らかになった。文藝春秋社の元社長・佐佐木茂索(1894~1966)は、昭和24年(1949)に妻を亡くす。ひどく悲しんだ佐々木は、交流のあった東大寺観音院住職の上司海雲師(1906~1975)に相談して、観音院に仮寓していた水島弘一(1907~1982)が香薬師の雛形をかたどり所持していたことを知る。佐々木は全額出資して雛形から複製銅像を作り供養することを考える。文化勲章を受章した鋳金工芸家の香取秀真(かとりほつま・1874~1954)に依頼して三体製作した。一体は新薬師寺に寄贈し、一体は謝礼として上司の観音院に置かれ、一体は佐々木が所蔵した。観音院の像は、文化サークル「七人会」のメンバーの鈴木光(元三共製薬会長・鈴木万平の妻)に譲渡されたあと奈良国立博物館に寄贈された。佐々木が所蔵した像は、佐々木の死後、遺族によって鎌倉の檀家寺・東慶寺に寄贈されている。

 もうひとつの雛形は、奈良一刀彫りの第一人者の竹林薫風(1903~1984)がかたどった。これからも銅像が製作され新薬師寺に収められたが、現在この型の像は寺には存在しない。

 水島弘一の子息、水島石根(いわね・1939~)氏も彫刻家であり、雛形について新たな情報が提供された。弘一が雛形を取るとき、右手と両足、蓮華座を新たに作りつなぎあわせたという。雛形を取る前に右手だけが盗まれるという事件があり、右手を新調したついでに両足、蓮台も作ったらしい。本物の右手はその後、寺の庭で発見されたという。この証言により、盗難現場に本物の右手と補作した足が残されていた理由が判明した。盗まれた像には新調した右手と足がついていたのである。国宝のこの修理について公式な記録はない。

 小川晴暘が警察署で目撃した本物の右手は寺に返却されただろう。しかし寺にはなく、その行方の手掛かりはまったく掴めなかった。立ちはだかった厚い壁に穴があいたのは偶然のようであり、また然るべき必然性があった。平成26年(2014)11月、仏像美術史家の水野敬三郎氏(1932~)が四天王の調査で新薬師寺を訪ねたとき、定観師が「香薬師のことで何かご存じありませんか」と尋ねたら「昔、香薬師の手を見たことがある」との答が返ってきた。

 昭和37年(1962)の冬、水野氏は恩師の仏像研究家・久野健(くのたけし・1920~ 2007)とともに佐佐木茂索が所有する法隆寺の塑像の調査で佐々木宅を訪れた。佐々木は不在であったが、そのとき夫人から香薬師の右手を見せられた。二人は驚き観察した。その記録と写真を水野氏は大切に保存していた。しかし発表されることはなかった。

 著者は佐々木の遺族と連絡を取る。しかし夫人は高齢で取材に応じられず、家には右手はないという返事が返ってきた。著者の夫の貴田晞照(きしょう)師は修験道者にして「気」の世界の治療家であり、中田定観師とは信頼しあった仲である。貴田師の「右手は東慶寺にある」という意見を受けて、中田師は東慶寺に問い合わせの手紙を送る。けれども応答はない。直接に東慶寺を訪ねようとした前日、寺から連絡が入り「前向きな話をさせていただきたい」と告げられた。

 東慶寺の住職は、2年前先代が死去され後を継いだ若い井上陽司師である。手紙が他の書類に紛れ返答し損なったことを詫び、木箱が差し出された。蓋を開け取り出されたものは、台座に載った驚くほど小さくかわいい右手であった。箱書きは現代語訳すると、「新薬師寺の香薬師の御手である。わけあって昭和二十五年初夏、この箱を作り、謹んで安置する。佐佐木茂索謹んで誌す」とあった。もうひとつあり、「平成十二年十二月一日佐々木茂策氏命日に夫人泰子東慶寺奉納 禅定謹誌」とあった。禅定というのは、先々代の住職の井上禅定師のことである。

 佐佐木茂索は昭和25年に香薬師の複製銅像を新薬師寺に寄贈している。その年の初夏に像の本物の右手が寺から佐々木に渡った。当時の国宝であるから然るべき手続きが必要だと思うが、それはなかったようだ。著者はあえて明言することを控えているが、それが関係者の口を閉ざさせ、右手の行方を不明にさせたのだろう。なにしろ住職の中田定観師もまったく知らなかったことなのである。佐々木が所蔵した複製銅像が泰子夫人から東慶寺に寄贈されたのは、模索の死後26年後、右手が寄贈されたのはその8年後であった。

 平成27年(2015)10月12日、香薬師の右手は65年ぶりに新薬師寺に戻ってきた。貴田晞照師が中を取り次ぎ、東慶寺から受け取った右手を定観氏に手渡し、本尊の薬師如来座像に香薬師如来像の右手が返還されたことを報告する法要が執り行われた。水野敬三郎氏は鑑定し本物であると太鼓判をおした。右手の返還は一連の経過を含めて文化庁に報告された。

     香薬師像の行方          

 香薬師像は寺の伝承では、光明皇后の念持仏であったという。皇后が創建した香山(こうせん)寺の本尊となり、新薬師寺が創建されると丈六薬師如来の胎内仏となった。火災にあって胎内から取り出され、寺で守護されてきた。像には火を被った跡が残るが、この由緒に史料的な裏付けはないようだ。

 「白鳳三仏」と呼ばれる仏像がある。東京・深大寺の釈迦如来倚像、法隆寺の夢違観音菩薩像、香薬師如来像である。三仏には共通点が多くて、同一作者または同一工房で製作されたという説がある。香薬師像の与願印を示す左手の掌には薬壺がのる。薬壺が現れるのは平安時代になってからと言われ、後世の補作でなければ最古のケースとなる。香薬師像が戻ってくれば、これらの学術的研究も進むだろう。

 著者が香薬師に関心を抱いたのは、新聞記者として取材した平成6年(1994)であった。取材を再開したのは、平成25年(2013)に貴田夫妻の元に香薬師のレプリカ銅像が現れ購入したことがきっかけだった。それは竹村がかたどった雌型の系譜につらなり、人間国宝鋳金作家の齋藤明(1920~2013)が鋳造したものだった。著者はすでにフリーの立場であったが、香薬師との不思議な縁を感じた。単なる取材者を超えた当事者的な情熱を持って取材に邁進した。取材の経過を追っての記述はミステリー小説を読むような面白さがある。ただ夫の神秘的な能力を賛美したり、生業の治療院の宣伝とも受け取れるような部分には引いてしまったが。香薬師の右手が発見され新薬師寺に無事に戻ったのは本当に良かったと思う。それに与った著者の功績は大きい。明治の盗難は純金狙いであったが、昭和の盗難は像の骨董的価値が動機になっているだろうから、人の目を避ける何処かに秘匿されている可能性が高い。著者は「これからも私は香薬師像の行方を追う取材を続ける。香薬師の高貴でやさしい、そして霊験あらたかな“うつらまなこ”が、再び世を照らす日が来るのを強く信じて――」と本の最後に記す。

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香薬師像の右手

参考
貴田正子『香薬師像の右手~失われたみほとけの行方~』講談社
会津八一『自注鹿鳴集』新潮文庫
吉野秀雄『鹿鳴集歌解』中公文庫
亀井勝一郎『大和古寺風物誌』新潮文庫
奈良国立博物館『白鳳~花開く仏教美術~』展覧会カタログ

093 金鍾山房と香山堂

 

 神亀4年(277)閏9月、聖武天皇光明皇后の間に待望の男子、基(もとい)王が生まれた。天皇の喜びは尋常ではなく誕生から1か月あまりの赤子を皇太子に任命した。翌年の8月、基王は重い病気になったため病が癒ることを願って観音菩薩177体、観音経177巻を造り礼仏、転経することを勅した。しかしその甲斐なく翌月に基王は亡くなり、那富山(なほやま)に葬られた。さらに皇太子の菩提を弔うため、従四位下智努(ちぬ)王を造山房司長官にし智行の僧九名を選び山房に住まわせることにした。これらは、奈良時代の正史『続日本紀』に記される。

 基王の死去はのちに長屋王の変の原因となり、天皇の仏教への過大な傾倒や天平以降の頻繁な政変を引き起こす遠因になったとも推測でき、奈良時代の政治史を見ていくうえで重要な事件である。

 山房については、正倉院文書にも出てくる。天平8(736)の写経目録に、元正太上天皇の病気平癒を祈願するために皇后宮識が命じて「薬師経」を書写させ山房に納めたというものである。さらに天平11年(739)の文書には、皇后宮識が派遣した役夫の出向先が金鍾山房とある。

 平安時代後期に編纂された東大寺の記録『東大寺要録』は、東大寺の起源とおぼしい記事に「天平5年(733)聖武天皇が良弁のために羂索院を創立す。古くは金鐘寺と号す」と掲載する。

 『続日本紀』の山房、正倉院文書の金鍾山房、『東大寺要録』の金鐘寺と記される史料をつなぎ綜合して、聖武天皇光明皇后が亡き基王の菩提のために建立した山房は、金鍾山房であり、東大寺の起源である金鐘寺になったという通説ができた。

 天平17年(745)紫香楽宮を放棄して平城京に還都したあとすぐに東大寺で廬舎那大仏の造仏が再開された。天皇入魂の事業が東大寺を選んで行われたことに、山房を起点とする天皇と寺との深いつながりを想定することは説得力があって、この金種山房説は受け入れやすい。

 しかし、この通説とは別に山房について新たな説が有力になりつつある。正倉院宝物の「東大寺山堺四至図」は天平勝宝八歳(756)に東大寺の寺域を示すために描かれた絵図であり、平城京東郊の当時の地理を知るうえで貴重な史料である。絵図の南東、春日山中に香山(こうせん)堂というお堂が描かれる。新薬師寺の方から能登川沿いにたどる道が香山堂へと向かう。それに山房道と書き込まれる。基王のため建立された山房は香山堂ではないかというのが新説である。

 香山堂については『東大寺要録』に収録された『延暦僧録』逸文光明皇后の事績として登場する。

 「皇后また香山寺金堂を造る。仏事荘厳具足す。東西楼しゃ帯に影り、左右危観虚敞たり。雅麗名づけ難し。皇后また香薬寺九間仏殿を造る。七仏浄土七躯を造る。請いて殿中に在り。塔二区を造る。東西相対す。一鐘口を鋳る。住僧百余。僧房。田薗」

 光明皇后が、香山寺と香薬寺を創建したことが記され、香山寺が香山堂、香薬寺が新薬師寺とされる。香山堂の創建と景観を伝える唯一の文献である。これによれば、伽藍は整い、東西に二つの楼が聳え、この上なく美しかったという。

 昭和41年(1966)に奈良国立文化財研究所によって香山堂が現地調査された。海抜421mから442mの山麓に、平坦な六つの段がある。もっとも広い段は、東西32m、南北22m。礎石と見られる石も散在して、少なくとも相当規模の四棟以上の建物があったようだ。平城宮出土瓦と同笵の瓦も見つかっている。しかし、本格的な発掘調査は行われなかったので、詳しい伽藍配置や建物規模はわからない。

 香山堂(香山寺)についての従来の解釈は、新薬師寺の前身寺院であり、新薬師寺が創建された後はその奥の院となったという説である。天平17年(745)9月、難波宮行幸した聖武天皇は体調を崩し重体に陥る。その回復を願って講じられた策の中に、京師や畿内の諸寺および諸の名山浄処において薬師悔過を営むこと、七仏薬師像の造立があった。新薬師寺の創建は『東大寺要録』には「天平19年(747)3月、仁政皇后、天皇の不予に縁りて新薬師を立て、並びに七仏薬師像を造る」と著される。このため、天平17年の詔が新薬師寺の創建につながったとされる。この詔で最初に創建されたのは香山寺であり、ここで薬師悔過が営まれた。しかし、七体の薬師像を納める仏堂を建てるには狭隘なので、平地を選んで新薬師寺の仏堂が建てられた。新薬師寺は香山薬師寺、香薬寺とも別称されるので、両寺は深い関係にあると推測される。よって香山寺は新薬師寺の前身寺院であり、やがて奥の院的な存在になったというわけである。

 この説も説得力があるのだが、現地で採集された平城宮の瓦と同范の瓦は奈良時代初期に属し、天平17年の勅をもって創建されたという説に矛盾する。瓦の年代観からすれば、山房は神亀から天平元号が変わるころに創建されていることになり、山房説の強力な支援材料になる。

 奈良文化財研究所の渡辺晃宏氏は、山房解の表書を持つ皇后宮識にかかわる二条大路木簡3点(天平7年、天平8年、年代不明の3点)と平城宮の東院の溝から出土した山房解の木簡を紹介して山房説を主張する。二条大路木簡には「楼閣山水図」が描かれたものがあり、中国の屏風絵の模写と考えられていたが、実は山房の描写ではないかという大胆な仮説を提唱される。

 山房説の山房はのちに香山堂あるいは香山寺の名称に変更されることになる。その時点や理由は不明であるが、寺の性格の変化が想定される。元正太上后の病気平癒祈願のため薬師経を納経したことが、そのきっかけになったのだろうか。また木簡には延福という僧の署名があり、彼は東大寺大仏開眼供養会で読師を務めた。『日本紀略』康和4年(967)に、香山寺聖人正祐が東宮憲平親王の御悩のため参じたことが載る。京都清水寺が所蔵する古写経に天元5年(982)の日付と香山寺の名を残す奥書がある。10世紀末を最後として香山寺の記録は絶える。

 新薬師寺に香薬師像という国宝にして白鳳仏の傑作といわれる仏像があった。昭和18年に3度目の盗難にあい、長らく所在不明である。写真で見ると童顔の神秘で無垢な表情に魅せられる。この仏像の由来は分からないが、なぜか香山堂を連想する。香という字に注意がいき、寺の滅亡と仏の災難が結びつくせいだろうか。

 東大寺長老の森本公誠氏は、山房説に賛意を示しながら金鍾山房説との両立を図られている。『東大寺要録』は基王の早逝と山房建立の経緯を詳細に引用して、これと東大寺誕生とがかかわっているかのように示唆している。天平5年に聖武天皇は良弁のため羂索院あるいは金鍾寺を創立したが、羂索院は不空羂索観音を本尊にする法華堂(三月堂)を中心にした寺院である。最近、法華堂の須弥壇が修理され、その際の調査によれば須弥壇不空羂索観音も創建当初からのものであることが判明した。さらに年輪年代法が示すところでは、須弥壇および法華堂の木材の伐採年が730年前後になる。これにより羂索院の創立が天平5年(733)であるという記述の真実性が高まった。

 基王の病気平癒祈願のため177体の観音像の造仏が命じられたものの1か月後に親王は逝去した。このとき制作に着手された観音像を祀るために山房が計画され、中止された造仏もあっただろうが、その数の多さに山房は複数造営されたというのが森本氏の推理である。確かに羂索堂は不空羂索観音像、「山堺四至図」の羂索堂の隣に描かれる千手堂は千手観音像、二月堂は十一面観音像を本尊にする。香山堂の前身の山房も当然、観音像が祀られたことになる。そればかりか、「山堺四至図」の広大な領域が観音霊場としての補陀落山に見立てられ、基王の冥福を祈る霊場にしようとする意図が読み取れるという。スケールの大きな魅力ある構想だと思う。

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東大寺山堺四支図(模写)上の赤丸内が羂索堂、下の赤丸内が香山堂

参考 『平城京一三〇〇年「全検証」』渡辺晃宏 柏書房2010 『東大寺のなりたち』森本公誠 岩波書店2018 『日本の古寺美術16「新薬師寺稲木吉一 保育社

奈良歴史漫歩No48春日奥山の香山堂

092 元興寺五重小塔は国分寺の塔のひな形か?(元興寺⑤)

 元興寺の五重小塔は奈良時代後期に製作され、この時期の建築様式を伝える貴重な建造物であり、国宝に指定される。しかし、謎に満ちた塔であり、文献での記録がなく、元はどこにあったのか、何を目的に製作されたのか不明である。

 現在は総合収蔵庫の法輪館に保管される。江戸時代には本堂外陣南側に床を抜いて安置されていたという。高さが5.5mあるため、収容するには天井にかからないように地面に置かなければならなかった。だから本堂にはもともとなかった。

 元興寺ゆかりの寺として小塔院がある。今は仮堂が建つだけで、中世には吉祥天信仰で栄えたという。小塔院という名称は創建時からのものである。この名称から連想して五重小塔がここにあったという推理が生まれるのは自然だろう。しかし、1140年に著された大江親通の『七大寺巡礼私記』には、小塔院には光明皇后御願の八万四千基小塔を祀っていると記される。『七大寺巡礼私記』は平安時代末の奈良を知ることのできる一次資料で信頼性が高い。五重小塔はこの時、小塔院にはなかったのだろう。他の時代においても小塔院と五重小塔を結びつける記録はまったくない。

 海龍王寺には奈良時代前期の様式を示す五重小塔(総高4.1m)がある。箱を五段に積み上げて組物を張り付け、内部は省略されている。初重は扉や壁がない空間となり、法華経が納まる。塔は最初から礼拝の対象であり、塔が安置された西金堂の本尊であった。

 元興寺の五重小塔は実際の五重塔の建築構造を細部まで忠実に再現する。そのため幕末に焼失した元興寺五重大塔のひな形と考える説もあったが、大塔の礎石から計測した柱間間隔や江戸時代に描かれた図面から五重小塔とは異なることがわかり、この説も否定された。

 五重小塔の平面は方三間で初重柱間が1.1尺等間とする。上重の逓減は各柱間1寸ずつで、二重が1尺×3間、重が9寸×3間、四重が8寸×3間、五重が7寸×3間と明確な平面計画を持つ。各部材は柱を除き初重から五重まで規格化された一定の寸法を持ち、柱長の逓減も5分ずつと単純である。相輪が全体の5分の2と大きいことを除けば標準型とされる。「小塔は部材寸法や構法がそのまま10倍すると直ちに実際の建物が作れるようになっており、しかも柱間寸法以下各部分の規格がきわめて単純で工作の簡便化に最大限の考慮が払われている」(鈴木嘉吉)という。(この段、箱崎和久氏の「七重塔の構造と意匠」を参照)

 奈良時代に創建された各地の国分寺塔跡の発掘調査から、国分寺には3間等間であった塔の多いことが分かっている。時代を通して3間等間になる塔は非常に珍しく、国分寺の塔の大きな特徴だ。これらのことから、五重小塔が国分寺の塔のひな形であった可能性が浮上している。小塔は簡単に分解できて組み立てやすいということもこの説を補強する。

 相輪の規格外の大きさはどう考えるべきか。狭川真一氏は、相輪は鋳型に金属を流し込んで作られたことに着目する。鋳型は粘土であるが、乾燥するときに収縮する。そのため木製の原型を大きめにしたのではないかとする。原型の8割ほどのサイズが標準型となる。

 五重小塔=国分寺塔モデル説は説得力がある。小塔はいつからか礼拝の対象になったのだろうけれど、もともと何処にあり、なぜ元興寺に伝わったのかは依然として謎である。

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元興寺五重小塔

参考:箱崎和久「「七重塔の構造と意匠」(『国分寺の創建 組織・技術編』(吉川弘文館)所収) 鈴木嘉吉「元興寺極楽坊五重小塔」(『大和古寺大観第3巻』(岩波書店)所収) 狭川真一講演「元興寺五重小塔の性格」平成30年7月11日

091 世界遺産の元興寺 (元興寺④)

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 元興寺(極楽坊)の本堂(国宝)と禅室(国宝)は、東室僧房南階大房をもとにして鎌倉時代に大きく改築された。本堂(極楽堂)は東を正面として、桁行き、梁間ともに6間、正面に1間の通庇がつく本瓦葺きの建物。寄棟造妻入りである。東が正面なのは極楽浄土が西方にあり東から望むという形をとるためだ。寛元2年(1244)に東室僧房南階大房の東端3房分を切り離し現在の形になった。

 堂内中央は内陣となり須弥壇が置かれ、本尊の智光曼荼羅を納める厨子を安置する。この場こそ智光が居住した一房であるとされる。この周囲を広い外陣がとりまき、念仏講の参加者が集った。床下には僧房時代の礎石が並ぶ。

 禅室は僧房の姿を伝える。桁行4間、梁間4間で平屋の切妻造、本瓦葺き。鎌倉時代初期に改築され、大仏樣様式が取り入れられた建物になった。飛鳥時代奈良時代の部材も一部利用されている。東室僧房南階大房は12坊あったが、禅室は4房分の大きさである。現状は東側3房分を開け放たれた大きな部屋にしているが、僧房時代は1房毎に間仕切りを設けて僧侶の居住に使用した。その時は、一房の中央に板扉が開き左右は連子窓となる。床は板敷きで、室内は南・中・北と大きく3室に区切られ、北側はさらに3室に区分されたと考えられる。禅室北西隅のスペースに僧房室内の一部が復元されている。

 禅室屋根の南側東寄りと本堂屋根の西側の瓦は、赤みがかったり濃淡のある灰色であったりし、丸瓦は行基葺きとなる。これは、丸瓦の重なる部分がへこんでいないため瓦の厚みが段として見える葺き方である。飛鳥時代創建期や奈良時代移建期の葺き方だという。ちなみに行基とはとくに関係ない。赤い瓦が飛鳥時代の瓦といわれる。

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行基葺きの丸瓦

 東門(重文)は元興寺(極楽坊)の正門、1間1戸の四脚門、本瓦葺き。応永年間(1394~1428)に東大寺西南院から移築した。

 小子房はもと僧房東室南階小子房であった建物を改造し移築した。学僧の居住施設が大房であるのに対し小子房はその従弟が居住した施設だといわれる。庫裏として江戸時代に使用された。現在地には昭和40年(1965)に移築された。

 五重小塔(国宝)は総合収蔵庫に保管される。高さ5.5mを測り、組み物や瓦、欄干、内部構造まで精密に表現された奈良時代末の製作である。本堂外陣南側に床を破って安置されていたという。しかし本来はどこにあったか不明である。小塔院にあったことが有力視されるが、その証拠はないらしい。元興寺五重大塔のひな形と考えられたが、礎石から計測した柱間間隔や江戸時代の図面から五重小塔とはまったく異なることがわかった。

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五重小塔

 元興寺の仏像の主なものを紹介する。これらは総合収蔵庫の1階に安置される。

 阿弥陀如来座像は高さ157.3cmで半丈六のサイズ、かつては本堂の本尊として厨子に納まっていた。しかしもとは禅定院(後に大乗院となる)多宝塔の本尊であり、文明15年(1483)に多宝塔が火災に遭って極楽堂へ移された。頭と体をケヤキ一木から作り、膝から前の部分は別材からつくり接ぎ合わせる。全体的にどっしりした風格を醸す。衣のひだや体のしわは木彫の素地に塑土と呼ばれる土を盛りつける。両手は来迎印を結ぶ。平安時代中頃(10世紀末)の製作と推定される。

 法興寺聖徳太子が創建に関わったという伝承があり、元興寺には強い聖徳太子信仰があった。室町時代の初めには太子堂が建てられた。太子堂は早くに退転したが、南無仏聖徳太子像(県指定文化財)と聖徳太子十六歳孝養像(重文)が伝わる。南無仏像は太子が2歳の時、東に向かって合掌し「南無仏」と唱えたという伝説を木像にしたものだ。X線CT検査で像の内部にある五輪塔の中にも紙束や数粒の舎利が詰めこまれていることがわかった。

 十六歳孝養像は、十六歳の太子が父用明天皇の病気回復を薬師如来に祈る姿を刻む。解体修理の際に胎内から多数の納入品が見つかった。文永5年(1268)に眼清という僧侶がこの像を造る代表になったことを記した『眼清願文(がんせいがんもん)』、この像を造った仏師や画師の名前を記した『木仏所画所等列名(きぶつしょえどころとうれつめい)』、像を寄付した人々の名前を記した『結縁人名帳』、太子の姿を版画にした『聖徳太子摺物』、寄付した人に配られた『太子千杯供養札(たいしせんぱいくようふだ)』などである。これらの資料から、この像を造るにあたって5000人に及ぶ人々が協力したことがわかった。

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聖徳太子十六歳孝養像

 弘法大師座像(重文)は寄来造で、大師450年忌にあたる弘安7年(1284)頃に造られた。像内から多くの納入品が見つかり、五色の舎利、愛染明王印仏、康永4年(1345)の年号を持つ『結縁交名状(けつえんきょうみょうじょう)』などであるが、これらは後の修理で入れられた可能性が高いという。

 永正12年(1515)の「極楽坊記」には、元興寺禅室にある「春日影向の間」に毎日春日明神が鹿に乗ってあらわれ、智光曼荼羅と舎利を護ったので、弘法大師が明神を勧請して春日曼荼羅を描き、あわせて自らの像を造ったと記される。春日信仰と弘法太子信仰も元興寺に息づいていたことがわかる。

 

 元興寺極楽坊は南都浄土教の中心となるとともに聖徳太子信仰や弘法大師信仰、地蔵信仰、春日信仰、陰陽道などさまざまな庶民信仰が流れ込む。また鎌倉時代の大和の仏教に大きな影響を与えた西大寺叡尊の布教活動は極楽坊にも及んだ。叡尊の流れを汲む僧侶たちが入寺して戒律を重視する律院としての面目を整えていく。元興寺(極楽坊)が現在、真言律宗であるのはこういう事情による。

 庶民信仰の聖地として極楽坊がもっとも栄えたのは15、6世紀であった。江戸時代に入って極楽坊は庶民の寺としての活気を失う。納骨容器は寛永年間(1624~44)を境に姿を消し、境内の石塔は享保年間(1716~36)以後は急減する。徳川幕府から100石の領地を与えられる御朱印寺となり、経済的には一定の安定を得たが、庶民との直接の接点がなくなったのである。地域の民衆も寺壇制度が整備されるにしたがって元興寺周辺の寺院と結びつくようになる。

 明治維新となり、元興寺は寺領を失う。経済的に立ちゆかなくなった寺は無住となり、西大寺の預かりとなる。明治初年に境内に小学校が創設され本堂と禅室は校舎に変わる。駐車場に「飛鳥小学校発祥の地」の石碑が立つのは、これを指す。この後、真宗大谷派の説教所として貸し出され、一時は女学校も開校した。

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境内にある「飛鳥小学校発祥の地」碑

 50年間の賃貸契約が終了した時、「狐狸の住み処」と呼ばれるほど、寺は荒れ果て建物は崩壊寸前だった。昭和18年(1943)に住職に就任した辻村泰園師は、禅室の解体修理に取りかかる。敗戦の混乱期の中断をはさんで昭和26年に終了、続いて本堂、東門の解体修理、境内の整備・防災工事も行われる。この時の修理や工事で発見された多量の信仰資料を整理・調査するため、昭和42年(1967)に元興寺仏教民族資料研究所が設立された。のちに財団法人元興寺文化財研究所と改称され、人文、考古学、保存科学にまたがる総合的な文化財の研究機関として発展していく。

 この間、寺の年中行事も復興され、活発な宗教活動は庶民信仰の聖地であった伝統を取り戻しつつある。平成10年(1998)には「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録された。奈良町のランドマークとしてシンボルとしてその存在感はますます増している。

参考 岩城隆利『元興寺の歴史』吉川弘文館 野口武彦・辻村泰範『古寺巡礼奈良 元興寺淡交社 太田博太郎他『大和古寺大観3巻』岩波書店 元興寺編『わかる!元興寺』ナカニシヤ出版 元興寺ホームページ

090 元興寺の中世庶民信仰資料 (元興寺③)

 元興寺(極楽坊)からは、昭和の本堂解体修理や境内の防災工事で中世の庶民信仰資料が多量に発見された。そのうち65395点が重要有形民俗文化財に指定されている。これらからは鎌倉時代から江戸時代初期までの元興寺(極楽坊)の信仰の様相が生々しく伝わってくる。総合収蔵庫にこれらの資料の一部が展示されている。

 極楽坊は納骨寺院として名高かった。智光曼荼羅を本尊とする本堂は堂内空間が極楽そのものと意識されていた。ここへ納骨することにより死者の極楽往生が確信されたのである。納骨容器は4738点遺る。木製塔婆として五輪塔、宝篋印塔、板碑、宝塔、層塔があり、土釜、竹筒、曲物も利用された。納骨五輪塔の場合は一番下段の地輪部に骨穴が穿たれて、堂内の柱や長押に釘で打ちつけられていた。

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納骨容器

 発見された資料は、死者の追善供養と生者が功徳を積む逆修を目的にしたものが多い。柿(こけら)経は木片に経文を書写したものである。本堂の天井や地中から発見され3万5千点以上におよぶ。柿経として最古のものと考えられる嘉禄元年(1225)の銘が入ったものも遺される。法華経が多く、書写したのはほとんどが僧侶だろうが、庶民の厚い願いがこもっている。

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こけら経

 千体仏は供養や逆修のために高さ10cm程度の小仏を多数造る。貴族は功徳を積むために寺院や本格的な仏像を奉納し豪華な納経を行うが、庶民はいわば質よりも量をもって少ない経費で多くの善根を積もうとした。庶民らしい多数作善の思想が背景にある。板彫千体地蔵菩薩立像(114枚)は、桧材を地蔵菩薩の形に切り抜いたものである。木像千体仏像(886体)は立体で地蔵菩薩が多いが、阿弥陀如来薬師如来聖観音、十一面観音、十王像などもある。

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板彫千体地蔵菩薩立像

 木製小型五輪塔も多数作善思想から生まれた。板状五輪塔、立体五輪塔、板状宝塔があり、大きさは1.1cmから14.3cmにおよぶ。五大種子、経文、仏・菩薩の種子・名号を書くものがある。2万数十点遺り、数十をひとまとめにして奉納されたと考えられる。

 印仏は、仏や菩薩の像を版木に刻して印章のように押印したものをいう。これも故人の追善供養のため毎日押印(日課印仏)したと思われる。95点が遺る。

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彩色印仏

 位牌、卒塔婆、写経、過去帳なども伝わっている。

 陰陽師(おんみょうじ)が関わった遺物もある。物忌札(ものいみふだ)は、穢れを祓ったり不吉な出来事を避けるために製作された。元興寺に遺る物忌札は葬礼に際して作られ、中陰明けに位牌や納骨器とともに寺に納められたと思われる。元興寺近くには陰陽(いんよう)町があり、ここに住んだ陰陽師が作成に関わったのだろうか。

 夫婦和合・離別祭文は興味深い。康暦3年(1381)に写筆されたもので、和合祭文は、妻を捨ててほかの女に心を寄せる夫を再び自分のもとに取り戻そうとする妻の願文である。離別祭文は、悪夫の虐待に堪えかねて離別を望む妻の願いが述べられる。それぞれの祈祷の方法も書かれていて、依頼者の願いに応じてこれらの祭文が読み上げられたのだろうか。

 元興寺境内には整然と並べられた多量の石塔があり目を惹く。いわゆる墓石、石造供養塔である。室町時代から江戸時代初期のもので、元興寺興福寺大乗院の菩提寺墓所でもあり、僧侶や裕福な庶民のお墓がつくられた。それらは整理されて禅室の北西部石舞台に積み上げられていたが、昭和63年(1988)に現在の形に並べられ、浮図田(ふとでん)と呼ばれる。浮図とは仏陀のことであり、仏塔が稲田のごとく並ぶ場所という意味である。

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浮図田

 石塔にはさまざまな形態があり、多いのが五輪塔である。五輪塔密教の教義をもとに造りだされた塔で、地・水・火・風・空という宇宙を構成する五大要素を体現し、大日如来阿弥陀如来を表すという。五輪塔の形を舟形の碑に浮彫や線刻した舟形五輪塔板碑は戦国時代から江戸時代にかけて多く造られた。ほかにも宝篋印塔、箱形の枠内に阿弥陀や地蔵を浮彫にした地蔵石龕仏、自然石に文字を刻んだ自然石板碑などさまざまな種類がある。現在の墓地で見かける方柱状の墓石は江戸時代から始まったが、浮図田にないのは、元興寺が徳川家のために祈祷を行う御朱印寺に指定されたことで庶民の墓が作られなくなったからである。

参考 岩城隆利『元興寺の歴史』吉川弘文館 野口武彦・辻村泰範『古寺巡礼奈良 元興寺淡交社 太田博太郎他『大和古寺大観3巻』岩波書店 元興寺編『わかる!元興寺』ナカニシヤ出版 元興寺ホームページ

089 元興寺極楽坊の智光曼荼羅 (元興寺②)

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 2月3日、元興寺極楽坊の節分会、柴燈大護摩供(さいとうおおごまく)を行じる境内は大勢の拝観者、見学者で埋まっていた。風の向きが変わると真っ白な煙が押し寄せる。思わず背をひるがえし伏せて目をつぶる。風の方向は直ぐに変わり喚声があがる。そんなことを繰り返して、護摩木の杉の葉からもうもうと湧く煙は、周りを囲む群衆を満遍なくいぶしていく。煙たさにもしだいに慣れていき、生木の焼かれる匂いのみずみずしさで身体が満たされていく。護摩を焚く熱気と興奮が入り混じって寒さも忘れている。注連縄を巡らした結界の中では頭襟、結袈裟姿の山伏が立ち働く。町中では滅多に見られない屋外の大護摩焚きは、怪しい炎が原始の感覚を呼び起こしてくれるようだ。この後、煙がくすぶる護摩木の上を裸足で歩き渡る「火渡りの行」があり、一般の者もそれぞれの願いを胸に参加できる。節分会はさらに豆まきと続く。

 元興寺と言えば、私はこの節分会がすぐに浮かび、数ある行事の中でも一番惹かれる。やはり春を待ち焦がれる気持ちにぴったり応えてくれるからか。夏は8月23日の地蔵会もよく知られる。境内の塔婆がおびただしい灯明に浮かぶ万灯供養は奈良町の風物詩として人気が高い。

 飛鳥の法興寺の法統を引き継ぐ元興寺世界文化遺産であり、南都七大寺として威勢を誇った歴史を持つ。そのような格式や由緒がある一方、町にとけこんだ庶民的な雰囲気をまとう。誰もが気軽に参加できる節分会や地蔵会はまさに現代の元興寺を象徴するものだろう。どちらも戦後になって創始された行事である。しかし元興寺の長い歴史を見ると、これもまた甦った伝統のように思えてくる。

 

 古代の元興寺の伽藍については「奈良町に刻まれた元興寺の記憶」で詳述した。現在、寺の歴史は世界遺産元興寺(極楽坊)と塔跡の残る元興寺(観音堂)と小塔院がそれぞれ独立して引き継ぐ。この三寺院が残ったのは理由がある。今回は、元興寺(極楽坊)に絞ってその起伏激しい歴史をひもときたい。

 元興寺(極楽坊)のある場所は東室僧房の南階大房があった。この一室に奈良時代の学僧、智光が住んだという。智光については、9世紀始めに成立した『日本霊異記』に次のような説話がある。行基が菩薩と崇められ大僧正の位にまで上ったことを嫉妬した智光は、「我には学問はあるが、行基は無学である」と批判する。病で没した彼は灼熱地獄に堕ちる。苦しみを味わうこと9日間、行基を誹謗したため地獄に落とされたと教えられ、この世に戻される。智光は悔いて行基のもとに赴き前非を詫びると、行基は笑って迎えた。行基の偉大さを讃えるために、智光が不名誉な狂言回しになったような話である。彼は南都六宗のひとつである三論宗の高名な学僧であり、さらに浄土教にも造詣が深かった。万葉集巻六に「白玉は人に知らえず知らずともよし知らずとも我れし知れらば知らずともよし(1023)」という歌がある。前書きに「元興寺の僧が自ら嘆く歌」とあって、智光の心情を吐露したものではないかとの指摘がある。

 10世紀の末に成立した『日本往生極楽記』にも智光に関する説話が載る。智光と頼光は同室で修学していたが、ある時から頼光は喋らなくなりその理由も話さず入滅した。智光は頼光の行く先を知りたく祈り続けたところ、夢の中で頼光に会った。そこは極楽浄土であった。頼光は修行のできていない智光が来るところではないと言ったが、智光は泣いて極楽往生の道を問うた。仏の前に連れて行かれた智光は、仏から仏の相好と浄土の荘厳さを観想せよと教えられ、掌に浄土の相を示された。夢から覚めた智光は、画工にその浄土の相を描かせて観想し往生した。

 東室僧房南階大房の一室に浄土曼荼羅が安置されていたらしく、その由来が智光と結びつけて語られる。10世紀の後半から末法思想の普及と共に浄土教への関心が貴族層から庶民の間にまで広がる。人々は極楽往生することに救いを求めるようになり、元興寺の僧房にあった浄土曼荼羅が一躍脚光を浴びるようになったのである。この曼荼羅は智光曼荼羅と呼ばれて、當麻寺の当麻曼荼羅、旧超昇寺の青海曼荼羅とともに三大浄土曼荼羅として信仰を集めるようになる。

 律令体制の動揺とともに国家の保護を失った元興寺は、興福寺東大寺の僧侶が別当になりその支配下に入る。それと共に独自の宗教的資産を活かして存在意義を見いだしていく。中門に祀られた丈六観音菩薩立像を取りこんだのは東塔院で、観音信仰の高まりによって聖地となる。元興寺(観音堂)が残った理由であるが、観音菩薩像は五重の塔とともに安政6年(1859)の大火で焼失した。小塔院には吉祥天画像が祀られ信仰を集めたが、画像は今は伝わらない。

 智光曼荼羅が安置された僧房は極楽坊あるいは曼荼羅堂とも称され、百日念仏講が催行される。故人の極楽往生や自分の功徳のために100日間、念仏を唱えた。その記録が本堂内陣の柱に刻まれている。百日念仏のために財宝を寄進したことが施主名と年月日とともに記され、嘉応3年(1171)から天福元年(1233)までの6通が見える。文永2年(1265)のものがもう1通あるが、これには「七昼夜念仏」とある。

 百日念仏の施主には興福寺の僧が多く、多額の費用が掛かる。庶民も参加しやすいように七日念仏に短縮されたと考えられる。寛元2年(1244)に極楽堂は大改造されて今あるような本堂になった。念仏講への参加者が増えて大きな堂が必要になったのだろう。この頃から七日念仏が主流となる。

 智光曼荼羅は30cm四方の大きさであったという。しかし宝徳3年(1451)の火災で焼けてしまう。この原本をもとにした幾種もの智光曼荼羅が伝わる。2m四方の板地著色曼荼羅鎌倉時代初期に描かれ、本堂内陣須弥壇厨子の背面を荘厳していた。現在、板絵曼荼羅は重文の指定を受け収蔵庫に収められている。その図柄は「上段の中央および左右に回廊を連ねた三宇の楼閣があり、その前庭には阿弥陀三尊と十余体の諸聖衆が結跏趺坐している。(略)下段には、中央に二歌舞菩薩が舞う舞楽壇と左右に各二音声菩薩が奏する奏楽壇があり、それらをめぐる蓮池の上には、お互いを結ぶ橋が架かり、その上に左右各一人ずつの比丘形が坐している」(『古寺奈良巡礼6元興寺淡交社)。なお、比丘形は智光、頼光を表したのだろう。

 明応7年(1498)頃には、絹本著色板張りの曼荼羅(重文)が描かれ春日厨子に収められた。今は禅室の春日明神影向の間に安置される。室町時代に成立したという縦約2m、横約1.5mの絹本著色の曼荼羅は軸裝されて、仏事の際に内陣に吊されたという。元禄14年(1701)には住持の尊覚が縦約60cm、横約50cmの開版本の曼荼羅を製作し頒布した。

f:id:awonitan:20180226194750j:plain明応7年(1498)頃、描かれた絹本著色板張りの智光曼荼羅(重文)

参考 岩城隆利『元興寺の歴史』吉川弘文館 野口武彦・辻村泰範『古寺巡礼奈良 元興寺淡交社 太田博太郎他『大和古寺大観3巻』岩波書店 元興寺編『わかる!元興寺』ナカニシヤ出版 元興寺ホームページ

088 奈良町に刻まれた元興寺の記憶 (元興寺①)

    ●平城京への移建1300年を迎える元興寺

 奈良市にある世界文化遺産元興寺は今年で移建1300年を迎える。飛鳥に創建された日本最初の本格的な寺院の法興寺が、平城遷都にともなって移建されたのが養老2年(718)である。それと共に寺名は元興寺となり、元の法興寺は飛鳥に留まって、それぞれの歴史を刻むことになった。

 法興寺蘇我氏の氏寺として創建されたが、実質は官寺としての待遇を受け、それは平城京に移っても変わりなかった。大安寺、薬師寺興福寺と並ぶ4大寺として朝廷の保護を受け、その要求に応じたのである。元興寺の寺地は、いわゆる外京にあたる左京七坊四条、五条の十五町分(南北約630m×東西約370m)を占めた。北限は猿沢池の南(四条条間北小路)、南限は築地之内町、花園町(五条条間路)、東限は大乗院の西の境界(七坊坊間東小路)、西限は餅飯殿通商店街(六坊大路)のラインである。現在の奈良町の大半を占める。

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緑で囲んだ区域が旧元興寺の範囲、赤で囲んだ区域が築地塀のあった境内、点線は平城京の条坊道路

 このうち築地に囲まれた区域は8町分である。伽藍配置図を参照しながら、古代の元興寺の姿をたどってみよう。五条条間北小路に開いた南大門に接して中門があった。中門の両翼から回廊が伸びて、金堂を囲み講堂の両側に連なる。金堂は五間四面で重閣をなし、本尊は丈六弥勒菩薩座像であった。堂の正面には「弥勒殿」という額が掲げられていたという。講堂は十一間で中尊は丈六薬師如来坐像であった。

 講堂の北に僧房があった。東側に南階大房・同小子房、北階大房・同小子房が並び、それぞれ12室があった。西側には南行大房・同小子房、北行大房・同小子房で、それぞれ10室であった。元興寺(極楽坊)の禅室は南階大房を前身として元の建物に近い形で面影を留める。東西僧房の中央に三間の鐘楼、僧房の北に食堂と食殿が建つ。

 南大門を入った東側に東塔院があり五重の塔が聳えていた。塔は惜しくも安政6年(1859)に焼失し、現在その塔跡を伝える。南大門を入った西側には小塔院があった。称徳天皇御願の百万塔八万四千基が収められていたという記録がある。今は極楽坊に安置されている五重小塔がかつては小塔院にあったという説もあるが、記録では確認できないという。

 他に築地内の北側に新堂院、中院、温室院、蔵院、大衆院、修理所などがあったようだ。南大門の南側には南院と花園院があった。

 元興寺の隆盛は経済面からも裏づけられる。奈良時代の記録では、元興寺に施入された封戸(戸が負担する租庸調が寺の収入になる)が1700戸あり、東大寺5000戸、大安寺1500戸、興福寺1200戸であった。また諸寺の墾田所有の限界が定められたが、元興寺東大寺の4000町に次ぐ2000町であり、大安寺、興福寺国分寺の1000町に比較しても多かった。ただしこれは元興寺法興寺の両寺を合わせた数値であるかもしれない。

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元興寺の中枢伽藍配置図

   ●町名や路地の屈曲に元興寺の遺産

 元興寺の法灯を今に伝えるのは、元興寺(極楽坊)と元興寺(観音堂)と小塔院である。七堂伽藍を誇った昔日の面影は見るすべもないが、町名や路地の屈曲に在りし日の姿を偲べないこともない。今御門、下御門、中院、北室、脇戸、高御門、中新屋、芝突抜、芝新屋、西新屋、公納堂、毘沙門、薬師堂、納院、元興寺、花園、築地之内、瓦堂などの町名に元興寺ゆかりの記憶が残っている。

 奈良町の地図を見ると、芝突抜、芝新屋、中新屋、西新屋町を通り抜ける路地が幾重にも鍵型に曲がっているのが分かる。ここ以外の道が、東西南北碁盤目に比較的直線であり、これは平城京の町割りを基本的に引き継いだものであるのに対し、この道の屈曲は異例である。実は元興寺の金堂などの中枢部がこの区域あったことと関連している。

元興寺の衰退は、律令体制の動揺により朝廷の十分なバックアップを得られなくなった10世紀からすでに始まる。広大な境内は建物が退転した後、長い歳月をかけて周辺から民家に侵食されていく。中枢部の堂塔は毀損しながらも幸い火災に遭うこともなく持ちこたえていたが、宝徳3年(1451)の土一揆により金堂を始めとする主要建物は灰燼に帰する。再建の試みはあったが、結局は復興ならなかった。

 道の屈曲部は金堂と南大門があった場所である。道はこれらの堂の基壇を避けるか沿うような形で屈曲している。古代の寺院の基壇は版築という方法で突き固められコンクリート並みに固かった。だから障害物を避けるように道が曲がりくねったのだろう。

 宝徳の大火の後すぐに町になったわけではない。発掘調査によれば、この区域に民家が建ち人が住むようになったのは、16世紀末から17世紀にかけてであるという。大火から1世紀以上経ていたことになる。講堂や金堂、鐘楼の礎石も発見されたが、いずれも穴を掘り埋められた状態であった。道が先にできた後、基壇が崩され大きな礎石は埋められて均され民家が建ったのだろう。周辺からしだいに町になり、最後に残った寺の中枢部も町化した。新屋という町名がこのことを物語っている。

 中新屋、芝新屋、西新屋は奈良町の中心である。奈良町にぎわいの家、奈良町物語館、奈良町資料館、奈良町オリエント館、庚申堂、御霊神社などが密集する。見通しのきかない路地を曲がると不意にユニークな店や古い民家が現れて驚かせる。奈良町散策のこんな楽しみも土地に刻まれた元興寺の遺産であろう。

f:id:awonitan:20180201165524j:plain奈良町の中心部、橙が旧元興寺築地塀を示す

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奈良町物語館内にある金堂の礎石

参考 岩城隆利『元興寺の歴史』吉川弘文館 野口武彦・辻村泰範『古寺巡礼奈良 元興寺淡交社 太田博太郎他『大和古寺大観3巻』岩波書店 元興寺編『わかる!元興寺』ナカニシヤ出版 元興寺ホームページ

083 超弩級七重塔が聳えた東大寺東塔院

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北東から見る東塔基壇、27m四方、高さ1.7m以上。周囲には石が敷き詰められていた。2015/11/21の現地説明会

    東塔院南門と回廊

 東大寺東塔院跡の発掘調査現地説明会が10月7日に実施された。一昨年と昨年に続く3回目の説明会である。今回は、東塔院南門と南回廊、東門と西門が主な調査対象である。

 鎌倉時代に再建された南門の礎石抜き取り穴が検出され、桁行き柱間3間、梁行き柱間2間の八脚門であることが確認された。建物規模は桁行き43尺(約12.9m)、中央間15尺、脇間14尺、梁行き24尺(約7.2m)、12尺等間と推定される。これを同じく八脚門の手害門と比較すると、手害門が桁行き56尺であるから、少しは大きさがイメージできるだろう。南門の中央間(約4.5m)から南へ伸びる参道が両端にある石敷とともに特定された。

 回廊は複廊であることが確かめられた。梁行き20尺(約6m)、等間10尺で、中央の柱筋にはおそらく連子窓などのある壁が設けられ、内外ふたつの廊下があった。古代寺院中枢部の複廊は珍しくないが、塔院の複廊が発掘調査で明らかになったのは初めてだという。雨落ち溝が南門基壇の南東部と北東部と回廊に沿って見つかっている。鎌倉時代の瓦の破片が多量に見つかり、「東大寺」、「七」、「嘉禄三年作之」などの銘が刻まれたものもあった。焼け落ちた時の炭化した木材灰や変色した壁の欠片、かすがいや釘の錆びた金属片も出土した。

 礎石建物の門や回廊の基壇は石の外装が施されるのが普通であるが、今回の調査ではまったく見つかっていない。礎石が持ち去らされたのと同じように剥がされたのか。その場合も少しぐらいは残ると思うのだが、新たな謎であるというのが調査担当者の説明である。

 東門と西門も調査されたが、今回は試掘調査であった。東門基壇の遺存状況が良好なこと、西門基壇の瓦溜まりや石敷が確認された。塔基壇の西面の一部も調べられた。鎌倉時代の西面階段の盛り土、踏み石、延べ石とその抜き取り穴、奈良時代の版築、階段の盛り土、西面の石敷が確認されている。

 塔東院の規模についてはまだ確認されていない。だが、おおよそのことはわかる。現地説明会の資料に載った地図から測ると、最大幅で南北90m、東西75mほどになる。

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南門東北端と回廊の雨落溝、鎌倉時代の瓦片が堆積し土が黒ずんでいる。

   東塔の歴史

 東大寺東塔の歴史を振り返っておこう。東塔は764年(天平宝字8)頃に創建された七重の塔で西塔とともに高さ100mとも70mとも伝えられる。西塔は964年に雷火で焼失し再建されることはなかった。東塔もたびたび火災に見舞われ修理されている。1180年には平重衡の南都焼き打ちに遭い焼失したが、1227年に再建された。しかし、1362年に落雷のため焼亡し、三度の再建はかなわなかった。

 江戸時代初期の絵図「東大寺寺中寺外惣絵図并山林」は両塔院跡を描いている。礎石から判断するに西塔は5間四方、東塔は3間四方の塔であった。これは奈良時代創建の塔が5間であり、鎌倉時代に東塔が3間で再建されたことを表す。東塔院の南北東西門は桁行き3間、回廊は複廊の礎石配置となっていて、今回の調査で部分的に確認されたことになる。

   東塔基壇

 これまでの発掘調査で判明したことをまとめておこう。鎌倉時代再建の塔は、奈良時代創建の基壇の上と周囲に盛り土して建てられた。盛り土には焼け土や奈良時代の瓦の破片が混じり、平重衡の焼き打ちの痕跡を伝える。基壇の規模は約27m四方、高さは1.7m以上と推定される。心礎や礎石は明治時代に抜き取られていたが、抜き取り穴の配置から塔は3間四方、中央間の寸法は20尺(約6m)、両脇間18尺(約5.4m)合計56尺となる。礎石を置いた場所には、環状に石を置いて地盤を強固にしていた。

 基壇の東面、北面では、階段最下部の延べ石が残り、基壇中央に階段のつくこと、その外側に敷き詰められた石が確認された。北面の階段からは鎌倉時代再建期の参道が伸びていた。

 奈良時代の階段の外装が東面と南面で出土していて、その位置から鎌倉時代の階段よりも幅が広かったと想定される。これは塔の柱間数が二つの時代では異なっていて江戸時代の絵図にあったように西塔と同じ柱間5間の塔であったことを示唆する。奈良時代の基壇規模は24mに復元でき、これは西塔基壇の23.8mとほぼ一致する。

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東塔基壇東面の鎌倉時代の階段跡、延べ石と石敷が残る。
左上に縦長に白く見えるのは奈良時代の階段の羽目石

   東塔の復元

 塔の高さが100mか70mとふたつの数値がならぶのは、史料の『東大寺要録』には「高23丈8寸(約69.24m)」とあり、一方『朝野群載』は「33丈8尺7寸(約101.61m)」、『扶桑略記』は「33丈8寸(約99.24m)」とわかれるからである。大仏殿に安置された創建期東大寺伽藍の模型にある七重塔は建築史家の天沼俊一が高31丈余と想定して復元した。

 模型であっても群を抜く巨大さは感じられる。しかし、奈良文化財研究所の箱崎和久氏は復元七重塔を検討して現実には復元案は成立しないことを論証した。再建期東塔の初重総柱間寸法は56尺であり、これは手害門の桁行き寸法と同じである。ちなみに現存する五重の塔で一番高い東寺の塔は31.3尺、発掘調査で確認された一番大きな初重平面を持つ大安寺西塔は40尺だ。日本の仏塔は塔身幅に匹敵する深い軒の出を持つことに特長があり、七重塔復元案も25尺以上の軒の出が設定された。これには継ぎ手のない長大な垂木、隅木が必要になってくるが、実際に入手するのは難しいという。

 箱崎氏は元興寺小塔をモデルにして10倍しさらに二重を足す、そして軒の出を抑えるという方法で創建期の七重塔を復元している。これによれば高さは約70mとなる。しかし、高さ100mについての建築学的な検討はなく、100mが現実的な数値なのかということについては言及されていないから、70mか100mかという問題はいぜん残る。

 発掘調査はまだまだ続くらしい。七重塔の高さが判明する手がかりが見つかることを期待したい。(2017/10/12記)

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奈良時代創建期東大寺の模型、手前が東塔。

参考 奈良歴史漫歩No.60「東大寺西塔の復元」
箱崎和久「東大寺七重塔考」
東大寺東塔院跡発掘調査現地説明会資料