094 春日信仰の二層構造

    東大寺山堺四至図」の「神地」

 「東大寺山堺四至図」を見てまず誰もが注目するのは、画面ほぼ中央に四角に囲んだ枠内に「神地」と書き込まれた箇所である。「御嵩山」と記入する円錐型の山の西側ふもとに位置する。「神地」も「御嵩山」も東を上に西を下にして記入される。「神地」は今の春日大社本社が存在する場所と見ていい。

 春日大社の創建は社伝によれば768年、常陸国鹿島神宮武甕槌命下総国香取神宮経津主命河内国枚岡神社天児屋根命比売神が勧請され、この地に四殿が建ったことをもってする。それより12年前の同一の場所は「神地」と称されて、建物もなく祭祀を行う広場があったように想像できる。現在の本殿は南向きだが、当時は御嵩山を東向きに礼拝するような形であったようだ。

 実際に御嵩山のふもとで行われた祭祀が『続日本紀』に記録される。718年(養老元年)に「遣唐使、神祇を御嵩山の南に祀る」とある。航海の安全と目的の成就が祈られたのだろう。遣唐使の派遣は当時の国家の大事業であり、御嵩山の神地は国家レベルの祭祀が行われた地であり、国家が管理していたと思える。

 このようになったのは、もちろん710年の平城遷都以降であろう。平城遷都の詔に「平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮をなす」とある。平城京が当時の風水思想を意識して選地されたことがこれによりわかるが、東の青龍たる春日山および御蓋山が京の条坊割りを決める基準点となったのではないだろうか。古代の三条大路を踏襲する奈良のメインストリート三条通りの延長上に春日大社御蓋山がくる。三条通りは西の京外で南西方向に曲がり暗(くらがり)峠越え奈良街道に通じて難波へ向かう。すなわち西の白虎たる生駒山と東の御蓋山が一本の大路で結ばれる。御嵩山は平城京のグランドデザインの要であったともいえる。

 春日奥山は佐保川、水谷川、能登川の源流だ。秀麗な円錐をなす御嵩山は水の神様として遷都以前からも住民の信仰を集めていただろう。三輪山大神神社が元来、水神を祀るといわれるように、土地の人々にとって切なる願いの対象はまず農事にかかわることであった。

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東大寺山堺四至図」の「神地」

    春日社創建以前の春日信仰

 768年の春日大社創建以前の信仰を伝える境内の形跡や伝承を探ってみたい。

 春日大社境内の遺跡で注目されるのは、築地遺構である。ちょうど神地をコの字型に囲むように設けられていた。北は万葉植物園、西は鹿苑、南は率川上流の菩提川まで総延長約1kmにおよぶ。

 2カ所で発掘調査が行われた。基底部の幅は2.45m~2.9m、版築地業が施され、小石を詰めた暗渠や瓦が多量に出土した。奈良時代初期の築造と見られる。また奈良時代の土馬が出土して、水に関する祭祀が行われていたことも明らかになった。平城宮を囲む築地に匹敵する大構築物である。

 御蓋山の南麓に摂社の紀伊神社がある。その東隣に石が多量に堆積し山腹を這い上っていく。石敷きの幅は最大37mで一定しないが、段を整えて両縁は石を組み、その間に人頭大の石を全面に敷く。石敷きは山頂の東側を通り、北に向かって下りていく。この遺構は磐境(いわさか)、すなわち聖域を区画する目印という意見が有力だ。奈良時代以前に作られたという説もある。

 境内には磐座が多数鎮座する。本社楼門門前には「赤童子出現石」がある。本殿床下や水谷神社本殿床下には漆喰で塗り込められた岩石群があり、大社創建以前の祭祀の一端がうかがえる。

 「つんぼ春日に土地三尺借りる」と呼ばれる地主神の榎本神社にまつわる説話がある。

 武甕槌命は、地主である榎本の神に「この土地を地下三尺だけ譲ってほしい」と言った。榎本の神は耳が遠かったために「地下」という言葉が聞き取れず、「三尺くらいなら」と承諾してしまった。そのため春日野一帯の広大な神地が武甕槌命のものになった。しかし約束通り境内の樹木は地下三尺より下へは延びないという。

 榎本社は本社回廊内の南西に回廊を占拠するような形で鎮座する。本社参拝前にはかならず参るべきとされる。武甕槌命の強欲さを茶化したような説話である。しかし、また別の意味にも受け取れる。春日明神がおられるのは地上から三尺までの範囲で、それより深い地は土地の神様の領分ということかもしれない。

 春日大社に参拝して不思議に思うのは、あれだけの格の高い神社でありながら、本社の境内が狭隘で社殿も全体に小ぶりであるということだ。これは本社の敷地が御嵩山の斜面が立ち上がる際にあって地形上、大きな建物が建てられないということによるだろう。神地を踏襲することにこだわったわけだ。さらに社殿を建てやすいように整地するのではなく、土地の形状をそのままにしたからでもある。

 たとえば本殿は第一殿から第四殿まで土地の高低に即してわずかな段差ながら階段状に建つ。実はこれを教えられたのが、「ブラタモリ」を見ているときだった。この指摘に目から鱗が落ちたような気になった。元の神地の形状を変えないために微妙な段差ができたのだった。

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春日大社四殿、微妙な段差がある

 社殿の春日造りも、敷き土台の上に柱が建つ。掘っ建て柱は土地を傷つけるから、それを回避するために春日造りがあみ出されたのではないだろうか。

 これは春日社の一貫した鉄則であって、時代が下っても土地を改変するような試みは厳しく制限された。春日山が禁足地になったこともこの方針の延長上にあるだろう。

 春日四神は他所から勧請された神である。もともとこの地には地に根差す神がおられて祭祀が行われていた。後から来たよそ者の神は社殿に祀られているが、元からおられる神に遠慮する、或いは尊ぶ精神が、春日大社の形に現れているように思える。これを指して、春日信仰の二層構造と呼びたい。

   若宮様の誕生――春日信仰古層の復活

 春日の祭神は公式には本社四殿に祀られる武甕槌命経津主命天児屋根命比売神であるが、その基層には土地固有の神様が根をおろす。それが表面に現れ明確な形になるのは、若宮の誕生とおん祭りの創始であった。長保5年(1003)、本社四殿の板敷にところてん状のものが落ちてきて、その中から五寸ほどの蛇が現れ四殿の中へ入っていったと社伝は記す。蛇の形をとった神様は、三殿と二殿の間の獅子の間に祀られていたが、長承4年(1135)に現在地に本殿が創建され移座した。翌年、若宮の例祭のおん祭りが始まる。

 若宮神社の祭神は若宮様と親しみをこめて呼びならわされるが、公式的には天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)である。この神名は江戸時代からのもので、それまでは五所王子(ごしょのみこ)と称された。本社の春日四神に対して五番目の神様という意味らしく、四神と同格の神様として明治維新までは扱われた。若宮様は謎の多い神とされる。しかし出現の姿が蛇であったことは、水にかかわり土地に根差す神であったことを示唆する。若宮の社殿が西面するのは、御嵩山を仰ぐ東大寺山堺四至図の神地の礼拝を彷彿させる。おん祭りは大和侍の興福寺衆徒が主催する。興福寺が関われなかった勅祭の春日祭に対抗するかのように大和一国を挙げての祭である。

 大和の住人は、藤原氏氏神で朝廷からも厚遇される権威と権力を利用して自己の利益を守ったのだろう。そして春日神社は興福寺と一体化して大和の住人を結集させ奉仕させたのだろう。信仰の二層構造は補完しあって春日信仰をより強固にしていったのである。

093 金鍾山房と香山堂

 

 神亀4年(277)閏9月、聖武天皇光明皇后の間に待望の男子、基(もとい)王が生まれた。天皇の喜びは尋常ではなく誕生から1か月あまりの赤子を皇太子に任命した。翌年の8月、基王は重い病気になったため病が癒ることを願って観音菩薩177体、観音経177巻を造り礼仏、転経することを勅した。しかしその甲斐なく翌月に基王は亡くなり、那富山(なほやま)に葬られた。さらに皇太子の菩提を弔うため、従四位下智努(ちぬ)王を造山房司長官にし智行の僧九名を選び山房に住まわせることにした。これらは、奈良時代の正史『続日本紀』に記される。

 基王の死去はのちに長屋王の変の原因となり、天皇の仏教への過大な傾倒や天平以降の頻繁な政変を引き起こす遠因になったとも推測でき、奈良時代の政治史を見ていくうえで重要な事件である。

 山房については、正倉院文書にも出てくる。天平8(736)の写経目録に、元正太上天皇の病気平癒を祈願するために皇后宮識が命じて「薬師経」を書写させ山房に納めたというものである。さらに天平11年(739)の文書には、皇后宮識が派遣した役夫の出向先が金鍾山房とある。

 平安時代後期に編纂された東大寺の記録『東大寺要録』は、東大寺の起源とおぼしい記事に「天平5年(733)聖武天皇が良弁のために羂索院を創立す。古くは金鐘寺と号す」と掲載する。

 『続日本紀』の山房、正倉院文書の金鍾山房、『東大寺要録』の金鐘寺と記される史料をつなぎ綜合して、聖武天皇光明皇后が亡き基王の菩提のために建立した山房は、金鍾山房であり、東大寺の起源である金鐘寺になったという通説ができた。

 天平17年(745)紫香楽宮を放棄して平城京に還都したあとすぐに東大寺で廬舎那大仏の造仏が再開された。天皇入魂の事業が東大寺を選んで行われたことに、山房を起点とする天皇と寺との深いつながりを想定することは説得力があって、この金種山房説は受け入れやすい。

 しかし、この通説とは別に山房について新たな説が有力になりつつある。正倉院宝物の「東大寺山堺四至図」は天平勝宝八歳(756)に東大寺の寺域を示すために描かれた絵図であり、平城京東郊の当時の地理を知るうえで貴重な史料である。絵図の南東、春日山中に香山(こうせん)堂というお堂が描かれる。新薬師寺の方から能登川沿いにたどる道が香山堂へと向かう。それに山房道と書き込まれる。基王のため建立された山房は香山堂ではないかというのが新説である。

 香山堂については『東大寺要録』に収録された『延暦僧録』逸文光明皇后の事績として登場する。

 「皇后また香山寺金堂を造る。仏事荘厳具足す。東西楼しゃ帯に影り、左右危観虚敞たり。雅麗名づけ難し。皇后また香薬寺九間仏殿を造る。七仏浄土七躯を造る。請いて殿中に在り。塔二区を造る。東西相対す。一鐘口を鋳る。住僧百余。僧房。田薗」

 光明皇后が、香山寺と香薬寺を創建したことが記され、香山寺が香山堂、香薬寺が新薬師寺とされる。香山堂の創建と景観を伝える唯一の文献である。これによれば、伽藍は整い、東西に二つの楼が聳え、この上なく美しかったという。

 昭和41年(1966)に奈良国立文化財研究所によって香山堂が現地調査された。海抜421mから442mの山麓に、平坦な六つの段がある。もっとも広い段は、東西32m、南北22m。礎石と見られる石も散在して、少なくとも相当規模の四棟以上の建物があったようだ。平城宮出土瓦と同笵の瓦も見つかっている。しかし、本格的な発掘調査は行われなかったので、詳しい伽藍配置や建物規模はわからない。

 香山堂(香山寺)についての従来の解釈は、新薬師寺の前身寺院であり、新薬師寺が創建された後はその奥の院となったという説である。天平17年(745)9月、難波宮行幸した聖武天皇は体調を崩し重体に陥る。その回復を願って講じられた策の中に、京師や畿内の諸寺および諸の名山浄処において薬師悔過を営むこと、七仏薬師像の造立があった。新薬師寺の創建は『東大寺要録』には「天平19年(747)3月、仁政皇后、天皇の不予に縁りて新薬師を立て、並びに七仏薬師像を造る」と著される。このため、天平17年の詔が新薬師寺の創建につながったとされる。この詔で最初に創建されたのは香山寺であり、ここで薬師悔過が営まれた。しかし、七体の薬師像を納める仏堂を建てるには狭隘なので、平地を選んで新薬師寺の仏堂が建てられた。新薬師寺は香山薬師寺、香薬寺とも別称されるので、両寺は深い関係にあると推測される。よって香山寺は新薬師寺の前身寺院であり、やがて奥の院的な存在になったというわけである。

 この説も説得力があるのだが、現地で採集された平城宮の瓦と同范の瓦は奈良時代初期に属し、天平17年の勅をもって創建されたという説に矛盾する。瓦の年代観からすれば、山房は神亀から天平元号が変わるころに創建されていることになり、山房説の強力な支援材料になる。

 奈良文化財研究所の渡辺晃宏氏は、山房解の表書を持つ皇后宮識にかかわる二条大路木簡3点(天平7年、天平8年、年代不明の3点)と平城宮の東院の溝から出土した山房解の木簡を紹介して山房説を主張する。二条大路木簡には「楼閣山水図」が描かれたものがあり、中国の屏風絵の模写と考えられていたが、実は山房の描写ではないかという大胆な仮説を提唱される。

 山房説の山房はのちに香山堂あるいは香山寺の名称に変更されることになる。その時点や理由は不明であるが、寺の性格の変化が想定される。元正太上后の病気平癒祈願のため薬師経を納経したことが、そのきっかけになったのだろうか。また木簡には延福という僧の署名があり、彼は東大寺大仏開眼供養会で読師を務めた。『日本紀略』康和4年(967)に、香山寺聖人正祐が東宮憲平親王の御悩のため参じたことが載る。京都清水寺が所蔵する古写経に天元5年(982)の日付と香山寺の名を残す奥書がある。10世紀末を最後として香山寺の記録は絶える。

 新薬師寺に香薬師像という国宝にして白鳳仏の傑作といわれる仏像があった。昭和18年に3度目の盗難にあい、長らく所在不明である。写真で見ると童顔の神秘で無垢な表情に魅せられる。この仏像の由来は分からないが、なぜか香山堂を連想する。香という字に注意がいき、寺の滅亡と仏の災難が結びつくせいだろうか。

 東大寺長老の森本公誠氏は、山房説に賛意を示しながら金鍾山房説との両立を図られている。『東大寺要録』は基王の早逝と山房建立の経緯を詳細に引用して、これと東大寺誕生とがかかわっているかのように示唆している。天平5年に聖武天皇は良弁のため羂索院あるいは金鍾寺を創立したが、羂索院は不空羂索観音を本尊にする法華堂(三月堂)を中心にした寺院である。最近、法華堂の須弥壇が修理され、その際の調査によれば須弥壇不空羂索観音も創建当初からのものであることが判明した。さらに年輪年代法が示すところでは、須弥壇および法華堂の木材の伐採年が730年前後になる。これにより羂索院の創立が天平5年(733)であるという記述の真実性が高まった。

 基王の病気平癒祈願のため177体の観音像の造仏が命じられたものの1か月後に親王は逝去した。このとき制作に着手された観音像を祀るために山房が計画され、中止された造仏もあっただろうが、その数の多さに山房は複数造営されたというのが森本氏の推理である。確かに羂索堂は不空羂索観音像、「山堺四至図」の羂索堂の隣に描かれる千手堂は千手観音像、二月堂は十一面観音像を本尊にする。香山堂の前身の山房も当然、観音像が祀られたことになる。そればかりか、「山堺四至図」の広大な領域が観音霊場としての補陀落山に見立てられ、基王の冥福を祈る霊場にしようとする意図が読み取れるという。スケールの大きな魅力ある構想だと思う。

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東大寺山堺四支図(模写)上の赤丸内が羂索堂、下の赤丸内が香山堂

参考 『平城京一三〇〇年「全検証」』渡辺晃宏 柏書房2010 『東大寺のなりたち』森本公誠 岩波書店2018 『日本の古寺美術16「新薬師寺稲木吉一 保育社

奈良歴史漫歩No48春日奥山の香山堂

092 元興寺五重小塔は国分寺の塔のひな形か?(元興寺⑤)

 元興寺の五重小塔は奈良時代後期に製作され、この時期の建築様式を伝える貴重な建造物であり、国宝に指定される。しかし、謎に満ちた塔であり、文献での記録がなく、元はどこにあったのか、何を目的に製作されたのか不明である。

 現在は総合収蔵庫の法輪館に保管される。江戸時代には本堂外陣南側に床を抜いて安置されていたという。高さが5.5mあるため、収容するには天井にかからないように地面に置かなければならなかった。だから本堂にはもともとなかった。

 元興寺ゆかりの寺として小塔院がある。今は仮堂が建つだけで、中世には吉祥天信仰で栄えたという。小塔院という名称は創建時からのものである。この名称から連想して五重小塔がここにあったという推理が生まれるのは自然だろう。しかし、1140年に著された大江親通の『七大寺巡礼私記』には、小塔院には光明皇后御願の八万四千基小塔を祀っていると記される。『七大寺巡礼私記』は平安時代末の奈良を知ることのできる一次資料で信頼性が高い。五重小塔はこの時、小塔院にはなかったのだろう。他の時代においても小塔院と五重小塔を結びつける記録はまったくない。

 海龍王寺には奈良時代前期の様式を示す五重小塔(総高4.1m)がある。箱を五段に積み上げて組物を張り付け、内部は省略されている。初重は扉や壁がない空間となり、法華経が納まる。塔は最初から礼拝の対象であり、塔が安置された西金堂の本尊であった。

 元興寺の五重小塔は実際の五重塔の建築構造を細部まで忠実に再現する。そのため幕末に焼失した元興寺五重大塔のひな形と考える説もあったが、大塔の礎石から計測した柱間間隔や江戸時代に描かれた図面から五重小塔とは異なることがわかり、この説も否定された。

 五重小塔の平面は方三間で初重柱間が1.1尺等間とする。上重の逓減は各柱間1寸ずつで、二重が1尺×3間、重が9寸×3間、四重が8寸×3間、五重が7寸×3間と明確な平面計画を持つ。各部材は柱を除き初重から五重まで規格化された一定の寸法を持ち、柱長の逓減も5分ずつと単純である。相輪が全体の5分の2と大きいことを除けば標準型とされる。「小塔は部材寸法や構法がそのまま10倍すると直ちに実際の建物が作れるようになっており、しかも柱間寸法以下各部分の規格がきわめて単純で工作の簡便化に最大限の考慮が払われている」(鈴木嘉吉)という。(この段、箱崎和久氏の「七重塔の構造と意匠」を参照)

 奈良時代に創建された各地の国分寺塔跡の発掘調査から、国分寺には3間等間であった塔の多いことが分かっている。時代を通して3間等間になる塔は非常に珍しく、国分寺の塔の大きな特徴だ。これらのことから、五重小塔が国分寺の塔のひな形であった可能性が浮上している。小塔は簡単に分解できて組み立てやすいということもこの説を補強する。

 相輪の規格外の大きさはどう考えるべきか。狭川真一氏は、相輪は鋳型に金属を流し込んで作られたことに着目する。鋳型は粘土であるが、乾燥するときに収縮する。そのため木製の原型を大きめにしたのではないかとする。原型の8割ほどのサイズが標準型となる。

 五重小塔=国分寺塔モデル説は説得力がある。小塔はいつからか礼拝の対象になったのだろうけれど、もともと何処にあり、なぜ元興寺に伝わったのかは依然として謎である。

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元興寺五重小塔

参考:箱崎和久「「七重塔の構造と意匠」(『国分寺の創建 組織・技術編』(吉川弘文館)所収) 鈴木嘉吉「元興寺極楽坊五重小塔」(『大和古寺大観第3巻』(岩波書店)所収) 狭川真一講演「元興寺五重小塔の性格」平成30年7月11日

091 世界遺産の元興寺 (元興寺④)

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 元興寺(極楽坊)の本堂(国宝)と禅室(国宝)は、東室僧房南階大房をもとにして鎌倉時代に大きく改築された。本堂(極楽堂)は東を正面として、桁行き、梁間ともに6間、正面に1間の通庇がつく本瓦葺きの建物。寄棟造妻入りである。東が正面なのは極楽浄土が西方にあり東から望むという形をとるためだ。寛元2年(1244)に東室僧房南階大房の東端3房分を切り離し現在の形になった。

 堂内中央は内陣となり須弥壇が置かれ、本尊の智光曼荼羅を納める厨子を安置する。この場こそ智光が居住した一房であるとされる。この周囲を広い外陣がとりまき、念仏講の参加者が集った。床下には僧房時代の礎石が並ぶ。

 禅室は僧房の姿を伝える。桁行4間、梁間4間で平屋の切妻造、本瓦葺き。鎌倉時代初期に改築され、大仏樣様式が取り入れられた建物になった。飛鳥時代奈良時代の部材も一部利用されている。東室僧房南階大房は12坊あったが、禅室は4房分の大きさである。現状は東側3房分を開け放たれた大きな部屋にしているが、僧房時代は1房毎に間仕切りを設けて僧侶の居住に使用した。その時は、一房の中央に板扉が開き左右は連子窓となる。床は板敷きで、室内は南・中・北と大きく3室に区切られ、北側はさらに3室に区分されたと考えられる。禅室北西隅のスペースに僧房室内の一部が復元されている。

 禅室屋根の南側東寄りと本堂屋根の西側の瓦は、赤みがかったり濃淡のある灰色であったりし、丸瓦は行基葺きとなる。これは、丸瓦の重なる部分がへこんでいないため瓦の厚みが段として見える葺き方である。飛鳥時代創建期や奈良時代移建期の葺き方だという。ちなみに行基とはとくに関係ない。赤い瓦が飛鳥時代の瓦といわれる。

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行基葺きの丸瓦

 東門(重文)は元興寺(極楽坊)の正門、1間1戸の四脚門、本瓦葺き。応永年間(1394~1428)に東大寺西南院から移築した。

 小子房はもと僧房東室南階小子房であった建物を改造し移築した。学僧の居住施設が大房であるのに対し小子房はその従弟が居住した施設だといわれる。庫裏として江戸時代に使用された。現在地には昭和40年(1965)に移築された。

 五重小塔(国宝)は総合収蔵庫に保管される。高さ5.5mを測り、組み物や瓦、欄干、内部構造まで精密に表現された奈良時代末の製作である。本堂外陣南側に床を破って安置されていたという。しかし本来はどこにあったか不明である。小塔院にあったことが有力視されるが、その証拠はないらしい。元興寺五重大塔のひな形と考えられたが、礎石から計測した柱間間隔や江戸時代の図面から五重小塔とはまったく異なることがわかった。

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五重小塔

 元興寺の仏像の主なものを紹介する。これらは総合収蔵庫の1階に安置される。

 阿弥陀如来座像は高さ157.3cmで半丈六のサイズ、かつては本堂の本尊として厨子に納まっていた。しかしもとは禅定院(後に大乗院となる)多宝塔の本尊であり、文明15年(1483)に多宝塔が火災に遭って極楽堂へ移された。頭と体をケヤキ一木から作り、膝から前の部分は別材からつくり接ぎ合わせる。全体的にどっしりした風格を醸す。衣のひだや体のしわは木彫の素地に塑土と呼ばれる土を盛りつける。両手は来迎印を結ぶ。平安時代中頃(10世紀末)の製作と推定される。

 法興寺聖徳太子が創建に関わったという伝承があり、元興寺には強い聖徳太子信仰があった。室町時代の初めには太子堂が建てられた。太子堂は早くに退転したが、南無仏聖徳太子像(県指定文化財)と聖徳太子十六歳孝養像(重文)が伝わる。南無仏像は太子が2歳の時、東に向かって合掌し「南無仏」と唱えたという伝説を木像にしたものだ。X線CT検査で像の内部にある五輪塔の中にも紙束や数粒の舎利が詰めこまれていることがわかった。

 十六歳孝養像は、十六歳の太子が父用明天皇の病気回復を薬師如来に祈る姿を刻む。解体修理の際に胎内から多数の納入品が見つかった。文永5年(1268)に眼清という僧侶がこの像を造る代表になったことを記した『眼清願文(がんせいがんもん)』、この像を造った仏師や画師の名前を記した『木仏所画所等列名(きぶつしょえどころとうれつめい)』、像を寄付した人々の名前を記した『結縁人名帳』、太子の姿を版画にした『聖徳太子摺物』、寄付した人に配られた『太子千杯供養札(たいしせんぱいくようふだ)』などである。これらの資料から、この像を造るにあたって5000人に及ぶ人々が協力したことがわかった。

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聖徳太子十六歳孝養像

 弘法大師座像(重文)は寄来造で、大師450年忌にあたる弘安7年(1284)頃に造られた。像内から多くの納入品が見つかり、五色の舎利、愛染明王印仏、康永4年(1345)の年号を持つ『結縁交名状(けつえんきょうみょうじょう)』などであるが、これらは後の修理で入れられた可能性が高いという。

 永正12年(1515)の「極楽坊記」には、元興寺禅室にある「春日影向の間」に毎日春日明神が鹿に乗ってあらわれ、智光曼荼羅と舎利を護ったので、弘法大師が明神を勧請して春日曼荼羅を描き、あわせて自らの像を造ったと記される。春日信仰と弘法太子信仰も元興寺に息づいていたことがわかる。

 

 元興寺極楽坊は南都浄土教の中心となるとともに聖徳太子信仰や弘法大師信仰、地蔵信仰、春日信仰、陰陽道などさまざまな庶民信仰が流れ込む。また鎌倉時代の大和の仏教に大きな影響を与えた西大寺叡尊の布教活動は極楽坊にも及んだ。叡尊の流れを汲む僧侶たちが入寺して戒律を重視する律院としての面目を整えていく。元興寺(極楽坊)が現在、真言律宗であるのはこういう事情による。

 庶民信仰の聖地として極楽坊がもっとも栄えたのは15、6世紀であった。江戸時代に入って極楽坊は庶民の寺としての活気を失う。納骨容器は寛永年間(1624~44)を境に姿を消し、境内の石塔は享保年間(1716~36)以後は急減する。徳川幕府から100石の領地を与えられる御朱印寺となり、経済的には一定の安定を得たが、庶民との直接の接点がなくなったのである。地域の民衆も寺壇制度が整備されるにしたがって元興寺周辺の寺院と結びつくようになる。

 明治維新となり、元興寺は寺領を失う。経済的に立ちゆかなくなった寺は無住となり、西大寺の預かりとなる。明治初年に境内に小学校が創設され本堂と禅室は校舎に変わる。駐車場に「飛鳥小学校発祥の地」の石碑が立つのは、これを指す。この後、真宗大谷派の説教所として貸し出され、一時は女学校も開校した。

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境内にある「飛鳥小学校発祥の地」碑

 50年間の賃貸契約が終了した時、「狐狸の住み処」と呼ばれるほど、寺は荒れ果て建物は崩壊寸前だった。昭和18年(1943)に住職に就任した辻村泰園師は、禅室の解体修理に取りかかる。敗戦の混乱期の中断をはさんで昭和26年に終了、続いて本堂、東門の解体修理、境内の整備・防災工事も行われる。この時の修理や工事で発見された多量の信仰資料を整理・調査するため、昭和42年(1967)に元興寺仏教民族資料研究所が設立された。のちに財団法人元興寺文化財研究所と改称され、人文、考古学、保存科学にまたがる総合的な文化財の研究機関として発展していく。

 この間、寺の年中行事も復興され、活発な宗教活動は庶民信仰の聖地であった伝統を取り戻しつつある。平成10年(1998)には「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録された。奈良町のランドマークとしてシンボルとしてその存在感はますます増している。

参考 岩城隆利『元興寺の歴史』吉川弘文館 野口武彦・辻村泰範『古寺巡礼奈良 元興寺淡交社 太田博太郎他『大和古寺大観3巻』岩波書店 元興寺編『わかる!元興寺』ナカニシヤ出版 元興寺ホームページ

090 元興寺の中世庶民信仰資料 (元興寺③)

 元興寺(極楽坊)からは、昭和の本堂解体修理や境内の防災工事で中世の庶民信仰資料が多量に発見された。そのうち65395点が重要有形民俗文化財に指定されている。これらからは鎌倉時代から江戸時代初期までの元興寺(極楽坊)の信仰の様相が生々しく伝わってくる。総合収蔵庫にこれらの資料の一部が展示されている。

 極楽坊は納骨寺院として名高かった。智光曼荼羅を本尊とする本堂は堂内空間が極楽そのものと意識されていた。ここへ納骨することにより死者の極楽往生が確信されたのである。納骨容器は4738点遺る。木製塔婆として五輪塔、宝篋印塔、板碑、宝塔、層塔があり、土釜、竹筒、曲物も利用された。納骨五輪塔の場合は一番下段の地輪部に骨穴が穿たれて、堂内の柱や長押に釘で打ちつけられていた。

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納骨容器

 発見された資料は、死者の追善供養と生者が功徳を積む逆修を目的にしたものが多い。柿(こけら)経は木片に経文を書写したものである。本堂の天井や地中から発見され3万5千点以上におよぶ。柿経として最古のものと考えられる嘉禄元年(1225)の銘が入ったものも遺される。法華経が多く、書写したのはほとんどが僧侶だろうが、庶民の厚い願いがこもっている。

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こけら経

 千体仏は供養や逆修のために高さ10cm程度の小仏を多数造る。貴族は功徳を積むために寺院や本格的な仏像を奉納し豪華な納経を行うが、庶民はいわば質よりも量をもって少ない経費で多くの善根を積もうとした。庶民らしい多数作善の思想が背景にある。板彫千体地蔵菩薩立像(114枚)は、桧材を地蔵菩薩の形に切り抜いたものである。木像千体仏像(886体)は立体で地蔵菩薩が多いが、阿弥陀如来薬師如来聖観音、十一面観音、十王像などもある。

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板彫千体地蔵菩薩立像

 木製小型五輪塔も多数作善思想から生まれた。板状五輪塔、立体五輪塔、板状宝塔があり、大きさは1.1cmから14.3cmにおよぶ。五大種子、経文、仏・菩薩の種子・名号を書くものがある。2万数十点遺り、数十をひとまとめにして奉納されたと考えられる。

 印仏は、仏や菩薩の像を版木に刻して印章のように押印したものをいう。これも故人の追善供養のため毎日押印(日課印仏)したと思われる。95点が遺る。

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彩色印仏

 位牌、卒塔婆、写経、過去帳なども伝わっている。

 陰陽師(おんみょうじ)が関わった遺物もある。物忌札(ものいみふだ)は、穢れを祓ったり不吉な出来事を避けるために製作された。元興寺に遺る物忌札は葬礼に際して作られ、中陰明けに位牌や納骨器とともに寺に納められたと思われる。元興寺近くには陰陽(いんよう)町があり、ここに住んだ陰陽師が作成に関わったのだろうか。

 夫婦和合・離別祭文は興味深い。康暦3年(1381)に写筆されたもので、和合祭文は、妻を捨ててほかの女に心を寄せる夫を再び自分のもとに取り戻そうとする妻の願文である。離別祭文は、悪夫の虐待に堪えかねて離別を望む妻の願いが述べられる。それぞれの祈祷の方法も書かれていて、依頼者の願いに応じてこれらの祭文が読み上げられたのだろうか。

 元興寺境内には整然と並べられた多量の石塔があり目を惹く。いわゆる墓石、石造供養塔である。室町時代から江戸時代初期のもので、元興寺興福寺大乗院の菩提寺墓所でもあり、僧侶や裕福な庶民のお墓がつくられた。それらは整理されて禅室の北西部石舞台に積み上げられていたが、昭和63年(1988)に現在の形に並べられ、浮図田(ふとでん)と呼ばれる。浮図とは仏陀のことであり、仏塔が稲田のごとく並ぶ場所という意味である。

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浮図田

 石塔にはさまざまな形態があり、多いのが五輪塔である。五輪塔密教の教義をもとに造りだされた塔で、地・水・火・風・空という宇宙を構成する五大要素を体現し、大日如来阿弥陀如来を表すという。五輪塔の形を舟形の碑に浮彫や線刻した舟形五輪塔板碑は戦国時代から江戸時代にかけて多く造られた。ほかにも宝篋印塔、箱形の枠内に阿弥陀や地蔵を浮彫にした地蔵石龕仏、自然石に文字を刻んだ自然石板碑などさまざまな種類がある。現在の墓地で見かける方柱状の墓石は江戸時代から始まったが、浮図田にないのは、元興寺が徳川家のために祈祷を行う御朱印寺に指定されたことで庶民の墓が作られなくなったからである。

参考 岩城隆利『元興寺の歴史』吉川弘文館 野口武彦・辻村泰範『古寺巡礼奈良 元興寺淡交社 太田博太郎他『大和古寺大観3巻』岩波書店 元興寺編『わかる!元興寺』ナカニシヤ出版 元興寺ホームページ

089 元興寺極楽坊の智光曼荼羅 (元興寺②)

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 2月3日、元興寺極楽坊の節分会、柴燈大護摩供(さいとうおおごまく)を行じる境内は大勢の拝観者、見学者で埋まっていた。風の向きが変わると真っ白な煙が押し寄せる。思わず背をひるがえし伏せて目をつぶる。風の方向は直ぐに変わり喚声があがる。そんなことを繰り返して、護摩木の杉の葉からもうもうと湧く煙は、周りを囲む群衆を満遍なくいぶしていく。煙たさにもしだいに慣れていき、生木の焼かれる匂いのみずみずしさで身体が満たされていく。護摩を焚く熱気と興奮が入り混じって寒さも忘れている。注連縄を巡らした結界の中では頭襟、結袈裟姿の山伏が立ち働く。町中では滅多に見られない屋外の大護摩焚きは、怪しい炎が原始の感覚を呼び起こしてくれるようだ。この後、煙がくすぶる護摩木の上を裸足で歩き渡る「火渡りの行」があり、一般の者もそれぞれの願いを胸に参加できる。節分会はさらに豆まきと続く。

 元興寺と言えば、私はこの節分会がすぐに浮かび、数ある行事の中でも一番惹かれる。やはり春を待ち焦がれる気持ちにぴったり応えてくれるからか。夏は8月23日の地蔵会もよく知られる。境内の塔婆がおびただしい灯明に浮かぶ万灯供養は奈良町の風物詩として人気が高い。

 飛鳥の法興寺の法統を引き継ぐ元興寺世界文化遺産であり、南都七大寺として威勢を誇った歴史を持つ。そのような格式や由緒がある一方、町にとけこんだ庶民的な雰囲気をまとう。誰もが気軽に参加できる節分会や地蔵会はまさに現代の元興寺を象徴するものだろう。どちらも戦後になって創始された行事である。しかし元興寺の長い歴史を見ると、これもまた甦った伝統のように思えてくる。

 

 古代の元興寺の伽藍については「奈良町に刻まれた元興寺の記憶」で詳述した。現在、寺の歴史は世界遺産元興寺(極楽坊)と塔跡の残る元興寺(観音堂)と小塔院がそれぞれ独立して引き継ぐ。この三寺院が残ったのは理由がある。今回は、元興寺(極楽坊)に絞ってその起伏激しい歴史をひもときたい。

 元興寺(極楽坊)のある場所は東室僧房の南階大房があった。この一室に奈良時代の学僧、智光が住んだという。智光については、9世紀始めに成立した『日本霊異記』に次のような説話がある。行基が菩薩と崇められ大僧正の位にまで上ったことを嫉妬した智光は、「我には学問はあるが、行基は無学である」と批判する。病で没した彼は灼熱地獄に堕ちる。苦しみを味わうこと9日間、行基を誹謗したため地獄に落とされたと教えられ、この世に戻される。智光は悔いて行基のもとに赴き前非を詫びると、行基は笑って迎えた。行基の偉大さを讃えるために、智光が不名誉な狂言回しになったような話である。彼は南都六宗のひとつである三論宗の高名な学僧であり、さらに浄土教にも造詣が深かった。万葉集巻六に「白玉は人に知らえず知らずともよし知らずとも我れし知れらば知らずともよし(1023)」という歌がある。前書きに「元興寺の僧が自ら嘆く歌」とあって、智光の心情を吐露したものではないかとの指摘がある。

 10世紀の末に成立した『日本往生極楽記』にも智光に関する説話が載る。智光と頼光は同室で修学していたが、ある時から頼光は喋らなくなりその理由も話さず入滅した。智光は頼光の行く先を知りたく祈り続けたところ、夢の中で頼光に会った。そこは極楽浄土であった。頼光は修行のできていない智光が来るところではないと言ったが、智光は泣いて極楽往生の道を問うた。仏の前に連れて行かれた智光は、仏から仏の相好と浄土の荘厳さを観想せよと教えられ、掌に浄土の相を示された。夢から覚めた智光は、画工にその浄土の相を描かせて観想し往生した。

 東室僧房南階大房の一室に浄土曼荼羅が安置されていたらしく、その由来が智光と結びつけて語られる。10世紀の後半から末法思想の普及と共に浄土教への関心が貴族層から庶民の間にまで広がる。人々は極楽往生することに救いを求めるようになり、元興寺の僧房にあった浄土曼荼羅が一躍脚光を浴びるようになったのである。この曼荼羅は智光曼荼羅と呼ばれて、當麻寺の当麻曼荼羅、旧超昇寺の青海曼荼羅とともに三大浄土曼荼羅として信仰を集めるようになる。

 律令体制の動揺とともに国家の保護を失った元興寺は、興福寺東大寺の僧侶が別当になりその支配下に入る。それと共に独自の宗教的資産を活かして存在意義を見いだしていく。中門に祀られた丈六観音菩薩立像を取りこんだのは東塔院で、観音信仰の高まりによって聖地となる。元興寺(観音堂)が残った理由であるが、観音菩薩像は五重の塔とともに安政6年(1859)の大火で焼失した。小塔院には吉祥天画像が祀られ信仰を集めたが、画像は今は伝わらない。

 智光曼荼羅が安置された僧房は極楽坊あるいは曼荼羅堂とも称され、百日念仏講が催行される。故人の極楽往生や自分の功徳のために100日間、念仏を唱えた。その記録が本堂内陣の柱に刻まれている。百日念仏のために財宝を寄進したことが施主名と年月日とともに記され、嘉応3年(1171)から天福元年(1233)までの6通が見える。文永2年(1265)のものがもう1通あるが、これには「七昼夜念仏」とある。

 百日念仏の施主には興福寺の僧が多く、多額の費用が掛かる。庶民も参加しやすいように七日念仏に短縮されたと考えられる。寛元2年(1244)に極楽堂は大改造されて今あるような本堂になった。念仏講への参加者が増えて大きな堂が必要になったのだろう。この頃から七日念仏が主流となる。

 智光曼荼羅は30cm四方の大きさであったという。しかし宝徳3年(1451)の火災で焼けてしまう。この原本をもとにした幾種もの智光曼荼羅が伝わる。2m四方の板地著色曼荼羅鎌倉時代初期に描かれ、本堂内陣須弥壇厨子の背面を荘厳していた。現在、板絵曼荼羅は重文の指定を受け収蔵庫に収められている。その図柄は「上段の中央および左右に回廊を連ねた三宇の楼閣があり、その前庭には阿弥陀三尊と十余体の諸聖衆が結跏趺坐している。(略)下段には、中央に二歌舞菩薩が舞う舞楽壇と左右に各二音声菩薩が奏する奏楽壇があり、それらをめぐる蓮池の上には、お互いを結ぶ橋が架かり、その上に左右各一人ずつの比丘形が坐している」(『古寺奈良巡礼6元興寺淡交社)。なお、比丘形は智光、頼光を表したのだろう。

 明応7年(1498)頃には、絹本著色板張りの曼荼羅(重文)が描かれ春日厨子に収められた。今は禅室の春日明神影向の間に安置される。室町時代に成立したという縦約2m、横約1.5mの絹本著色の曼荼羅は軸裝されて、仏事の際に内陣に吊されたという。元禄14年(1701)には住持の尊覚が縦約60cm、横約50cmの開版本の曼荼羅を製作し頒布した。

f:id:awonitan:20180226194750j:plain明応7年(1498)頃、描かれた絹本著色板張りの智光曼荼羅(重文)

参考 岩城隆利『元興寺の歴史』吉川弘文館 野口武彦・辻村泰範『古寺巡礼奈良 元興寺淡交社 太田博太郎他『大和古寺大観3巻』岩波書店 元興寺編『わかる!元興寺』ナカニシヤ出版 元興寺ホームページ

088 奈良町に刻まれた元興寺の記憶 (元興寺①)

    ●平城京への移建1300年を迎える元興寺

 奈良市にある世界文化遺産元興寺は今年で移建1300年を迎える。飛鳥に創建された日本最初の本格的な寺院の法興寺が、平城遷都にともなって移建されたのが養老2年(718)である。それと共に寺名は元興寺となり、元の法興寺は飛鳥に留まって、それぞれの歴史を刻むことになった。

 法興寺蘇我氏の氏寺として創建されたが、実質は官寺としての待遇を受け、それは平城京に移っても変わりなかった。大安寺、薬師寺興福寺と並ぶ4大寺として朝廷の保護を受け、その要求に応じたのである。元興寺の寺地は、いわゆる外京にあたる左京七坊四条、五条の十五町分(南北約630m×東西約370m)を占めた。北限は猿沢池の南(四条条間北小路)、南限は築地之内町、花園町(五条条間路)、東限は大乗院の西の境界(七坊坊間東小路)、西限は餅飯殿通商店街(六坊大路)のラインである。現在の奈良町の大半を占める。

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緑で囲んだ区域が旧元興寺の範囲、赤で囲んだ区域が築地塀のあった境内、点線は平城京の条坊道路

 このうち築地に囲まれた区域は8町分である。伽藍配置図を参照しながら、古代の元興寺の姿をたどってみよう。五条条間北小路に開いた南大門に接して中門があった。中門の両翼から回廊が伸びて、金堂を囲み講堂の両側に連なる。金堂は五間四面で重閣をなし、本尊は丈六弥勒菩薩座像であった。堂の正面には「弥勒殿」という額が掲げられていたという。講堂は十一間で中尊は丈六薬師如来坐像であった。

 講堂の北に僧房があった。東側に南階大房・同小子房、北階大房・同小子房が並び、それぞれ12室があった。西側には南行大房・同小子房、北行大房・同小子房で、それぞれ10室であった。元興寺(極楽坊)の禅室は南階大房を前身として元の建物に近い形で面影を留める。東西僧房の中央に三間の鐘楼、僧房の北に食堂と食殿が建つ。

 南大門を入った東側に東塔院があり五重の塔が聳えていた。塔は惜しくも安政6年(1859)に焼失し、現在その塔跡を伝える。南大門を入った西側には小塔院があった。称徳天皇御願の百万塔八万四千基が収められていたという記録がある。今は極楽坊に安置されている五重小塔がかつては小塔院にあったという説もあるが、記録では確認できないという。

 他に築地内の北側に新堂院、中院、温室院、蔵院、大衆院、修理所などがあったようだ。南大門の南側には南院と花園院があった。

 元興寺の隆盛は経済面からも裏づけられる。奈良時代の記録では、元興寺に施入された封戸(戸が負担する租庸調が寺の収入になる)が1700戸あり、東大寺5000戸、大安寺1500戸、興福寺1200戸であった。また諸寺の墾田所有の限界が定められたが、元興寺東大寺の4000町に次ぐ2000町であり、大安寺、興福寺国分寺の1000町に比較しても多かった。ただしこれは元興寺法興寺の両寺を合わせた数値であるかもしれない。

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元興寺の中枢伽藍配置図

   ●町名や路地の屈曲に元興寺の遺産

 元興寺の法灯を今に伝えるのは、元興寺(極楽坊)と元興寺(観音堂)と小塔院である。七堂伽藍を誇った昔日の面影は見るすべもないが、町名や路地の屈曲に在りし日の姿を偲べないこともない。今御門、下御門、中院、北室、脇戸、高御門、中新屋、芝突抜、芝新屋、西新屋、公納堂、毘沙門、薬師堂、納院、元興寺、花園、築地之内、瓦堂などの町名に元興寺ゆかりの記憶が残っている。

 奈良町の地図を見ると、芝突抜、芝新屋、中新屋、西新屋町を通り抜ける路地が幾重にも鍵型に曲がっているのが分かる。ここ以外の道が、東西南北碁盤目に比較的直線であり、これは平城京の町割りを基本的に引き継いだものであるのに対し、この道の屈曲は異例である。実は元興寺の金堂などの中枢部がこの区域あったことと関連している。

元興寺の衰退は、律令体制の動揺により朝廷の十分なバックアップを得られなくなった10世紀からすでに始まる。広大な境内は建物が退転した後、長い歳月をかけて周辺から民家に侵食されていく。中枢部の堂塔は毀損しながらも幸い火災に遭うこともなく持ちこたえていたが、宝徳3年(1451)の土一揆により金堂を始めとする主要建物は灰燼に帰する。再建の試みはあったが、結局は復興ならなかった。

 道の屈曲部は金堂と南大門があった場所である。道はこれらの堂の基壇を避けるか沿うような形で屈曲している。古代の寺院の基壇は版築という方法で突き固められコンクリート並みに固かった。だから障害物を避けるように道が曲がりくねったのだろう。

 宝徳の大火の後すぐに町になったわけではない。発掘調査によれば、この区域に民家が建ち人が住むようになったのは、16世紀末から17世紀にかけてであるという。大火から1世紀以上経ていたことになる。講堂や金堂、鐘楼の礎石も発見されたが、いずれも穴を掘り埋められた状態であった。道が先にできた後、基壇が崩され大きな礎石は埋められて均され民家が建ったのだろう。周辺からしだいに町になり、最後に残った寺の中枢部も町化した。新屋という町名がこのことを物語っている。

 中新屋、芝新屋、西新屋は奈良町の中心である。奈良町にぎわいの家、奈良町物語館、奈良町資料館、奈良町オリエント館、庚申堂、御霊神社などが密集する。見通しのきかない路地を曲がると不意にユニークな店や古い民家が現れて驚かせる。奈良町散策のこんな楽しみも土地に刻まれた元興寺の遺産であろう。

f:id:awonitan:20180201165524j:plain奈良町の中心部、橙が旧元興寺築地塀を示す

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奈良町物語館内にある金堂の礎石

参考 岩城隆利『元興寺の歴史』吉川弘文館 野口武彦・辻村泰範『古寺巡礼奈良 元興寺淡交社 太田博太郎他『大和古寺大観3巻』岩波書店 元興寺編『わかる!元興寺』ナカニシヤ出版 元興寺ホームページ

087 平城宮東院の巨大井戸

  平城宮東院は平城宮の東に張り出した地区で、その南半部の東西約250m、南北約350mの範囲を指す。皇太子の住居である東宮天皇の宮殿があったことが、奈良時代の正史『続日本紀』に記される。また称徳天皇の「東院玉殿」や光仁天皇の「楊梅宮」は、ここにあったと考えられている。

 東院ではこれまで南辺と西辺の発掘調査が進んでいる。12月23日に現地説明会が開かれた第593次調査は、西辺の既調査の北側に調査区が設けられた。出土した主な遺構は奈良時代前期の大型掘っ立て柱建物と後期の巨大井戸とその付属施設である。

 大型建物は東西9間以上(約26.5m)×南北3間(約9m)の南庇付き東西棟建物で、調査区の東に続く。身舎(もや)の柱穴に床を支える添柱の痕跡があり、床張りの格式の高い建物であったと想定される。南隣の第584次の調査区から検出された南北10間×東西2間の南北棟建物とは同時期であり、柱筋も揃うことから一体の空間を構成していたようだ。

 巨大井戸は、東西約9.5m×南北約9mの方形の範囲を深さ約30cm掘り込み、その中央に東西約4m×南北約4mの方形の井戸枠堀方を設ける。井戸枠の周囲には拳大の小礫が多量に分布する部分があった。四周に幅約0.5mの石組み溝を巡らせる。井戸が廃絶するとき、井戸枠や石組みも抜き取られ整地された。

 井戸西辺中央付近から溝が直線的に西へ伸びる(東西溝1)。幅約1.2m、深さ0.2~0.5m、長さ約8mで、井戸から西へ約4.6mの範囲に側石と底石で護岸していた。

 この溝はさらに西へ直線的に伸びる(東西溝2)。幅0.8~1m、深さ0.5~0.6mの素掘りの溝で調査区の西方へ続く。 

 東西溝2は途中で北へ分岐し、北へ約5mの地点で直角に屈曲して西へ直線的に伸び、調査区の外へ続く(L字溝)。幅0.8~1m、深さ0.5~0.8mの素掘りである。

 東西溝2とL字溝は一時に埋まり、多量の瓦や土器が出土した。

 この2つの溝を覆うような形で掘っ立て柱建物が検出された。東西6間以上×南北3間の南庇付き東西棟建物で、調査区の西方へ続く。

 平城宮の大型井戸は内裏や造酒司、東院で見つかっているが、今回検出した井戸は宮内最大級の規模である。溝は井戸水を計画的に配水するために設けられたと考えられ、溝を引き込む覆い屋は厨の可能性が高い。溝から出土した杯や皿などの食器類、土師器甕・カマド、須恵器盤・甕などの調理具や貯蔵具などから、それが裏づけられる。

 朝廷では貴族や役人が集う重要な行事には宴会がつきものであった。それには天皇も出御し紐帯を確かめ深めたのである。東院で開かれた宴会の食膳をまかなう施設がここにあったのか。井戸水を汲んだり食器や食材を洗う人の姿が浮かんできそうである。

 東西溝2とL字溝が平行して建物内に引かれていた。どのように使い分けられていたのか想像するのも楽しい。庇の下にある東西溝に対し身舎内のL字溝は深くて幅も広い。L字溝から浄水を汲んで使用し、汚水は東西溝2に捨てていたのだろうか。

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現地説明会資料より

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現地説明会資料より

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奈良時代前半の大型建物跡、東西柱穴筋が青いテープで示される、東から撮影。

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奈良時代後半の巨大井戸跡、中央の窪みが井戸枠堀方、南東から撮影。

086 第1次平城宮に似た恭仁宮の中枢部

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 木津川市加茂町瓶原の地にあった恭仁宮は、昭和48年(1973)から毎年、発掘調査が実施され、その姿が少しずつ明らかになっている。今年の調査では、大極殿院と朝堂院の境界を確定する手がかりが得られた。12月9日にあった現地説明会の報告である。

  • これまでの調査成果

恭仁宮は、天平12年(740)から16年まで聖武天皇の宮が置かれた。この間、近江の甲賀郡紫香楽宮盧舎那仏の建立が始まり、天皇は恭仁宮に席を温めることもなく、宮廷は難波宮をふくむ三都を右往左往する事態となる。結局、天平17年(745)、平城京に還都して恭仁宮は放棄されることになった。平城宮から移築された大極殿山城国分寺の金堂に転用される。

 これまでに明らかになった恭仁宮を概観してみよう。

 宮は東西約560m、南北約750mの大きさで設計され、四周は築地塀で囲まれていた。ちなみに平城宮は東西約1250m、南北約1000mの規模である。

 宮の中央北寄りにある大極殿は高さ約1mの土壇の上に建ち、東西が約45m、南北が約20mを測る。礎石の一部は今に残り、北西と南西の隅の礎石は動いていないことが確認された。大極殿を囲む回廊は中央に築地を築き、その両側を通路にした複廊であった。奈良時代の正史『続日本紀』は、平城宮の第1次大極殿と回廊を恭仁宮へ移したことが記される。発掘調査からも平城宮と恭仁宮のそれらの柱跡の間隔は一致しており、移建は裏付けられた。

大極殿院の北側からは、内裏と見られる地区が二つ東西にわかれてあった。内裏東地区は、北側が掘っ立て柱塀、東西、南側が築地塀で囲まれ、東西約109m、南北約139mの大きさである。内裏西地区は、四周すべてが掘っ立て柱塀であり、東西約98m、南北約128mの大きさで、東地区とはそのスケールと造りにおいて少し格差がある。聖武天皇元明上皇の住まいであろうが、どちらに誰が住まわれたかはわからない。

 大極殿院の南に接続する朝堂院、朝集院はこれらを囲む掘っ立て柱塀の一部が確認されている。瓦が出ていないので、塀の屋根は板であったと推定される。役人が集合する朝集院は、東西約134m、南北約125mのスケールで、朝集院南門が見つかる。朝集堂に相当する建物はまだ見つかっていない。

役人が政務を執る朝堂院は、朝集院よりもやや東西幅が狭く約115mで、柱が一列に並ぶ「棟門」の朝堂院南門(三間=中央扉間約6m、東西脇間各約4.5m)と朝堂と推測される建物が一棟見つかっている。また重要な儀式に伴う宝幢(ほうどう)を2回立てた遺構が朝堂院南門のすぐ北側で見つかる。『続日本紀』の記載から天平13年と14年の元旦朝賀の際に立ったと見られる。

  • 平成29年度(第97次)の調査成果

 今年度の調査は大極殿院の南限を明らかにすることが目的だった。南限想定案は二つあり、1案は大極殿跡に隣接する恭仁小学校の正門付近、2案は1案よりも南に位置して大極殿院南面回廊跡の可能性がある遺構が出たラインである。

 三つの場所で調査が行われた。第1トレンチは2案の回廊跡を確認する狙いがあり、想定位置から遺構が検出されたが、埋め土が上層の中世の遺物包含層に似ることから、恭仁宮の遺構である可能性は低いと判断された。第2トレンチからは顕著な遺構は検出されなかった。

 第3トレンチでは、朝堂院の東面掘っ立て柱塀の柱穴が南北一列に6カ所検出された。一番北の柱穴よりさらに北にトレンチを延長して調べられたが、遺構は出てこなかった。そのためここが朝堂院の北限であり、大極殿院の南面回廊はここで接していた可能性が高くなった。回廊は礎石建物であるため、遺構が浅くて礎石が持ち去られると跡が残らないことが往々にしてある。しかし、有力な第3案が今回の調査で浮上した。今後、このラインで回廊跡が検出されれば、確定することになる。確定すると、朝堂院の南北規模は約103m、大極殿院は東西約145m、南北約215mとなる。

 恭仁小学校正門付近の南北高低差は、大極殿院にあった高低差を反映しているとすれば、平城宮第1次大極殿院にあった龍尾壇が恭仁宮にも設けられていたと推定できる。

 恭仁宮の中枢部は、第1次平城宮の中枢部を小規模にしながら構造的に似た形で造営されていたことがわかる。

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恭仁宮跡全体図およびトレンチ配置図(現説資料)

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大極殿院の復元3案と第97次調査の3つのトレンチ配置図(現説資料)

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恭仁宮大極殿院(第3案)と平城宮大極殿院(第一・二次)の比較(現説資料)

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第3トレンチを南から見る。トレンチ北端あたりに朝堂院と大極殿院の境界があったのか?

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恭仁小学校正門付近の段差、龍尾壇の跡か?

参考 恭仁宮跡の発掘調査

085 平城宮跡の銀杏

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昭和20年代平城宮跡、道は一条通り、西側方向に撮影、行く手の木立は銀杏、遠景に生駒山、『岩波写真文庫 奈良』より

 

 広大な平城宮跡は自然に恵まれて春夏秋冬、植物や鳥たちの生態を楽しむことができる。晩秋のススキ、冬の山茶花、春の梅、桜などはその名所として知られる。名所となるほど多くはないが、銀杏もつい前まで鮮やかな黄葉を見せていた。遺構展示館の東側にある駐車場の一角には10本ほどの太い銀杏がかたまって茂る。一条通りを東側から宮跡を走り抜けると、遠くからでもその鮮やかな真っ黄色い塊は目を惹く。私が確認した限りでは、銀杏の黄葉を他に2カ所、認めることができた。朱雀門の東側の復元築地塀がとぎれるあたりにある数本、復元された第1次大極殿のすぐ東、一条通り沿いに2本である。宮跡には多種多彩な樹木が植わっているから、これらの銀杏もその一つとして紅葉を愛でる以外はとくに意識することもなくきた。

 平城宮跡保存史に興味を持って、大正15年に内務省から発行された『平城宮阯調査報告』を読んでいたとき、次のような一文に出会った。

 (史蹟)指定地域の四周には公孫樹の植え込みを造り(土地は買収)四隅には八寸角地上六尺の花崗岩の標識と注意札とを建て……

 大正11年10月、史蹟名勝天然紀念物保存法により宮跡の一部、約47ヘクタールが史蹟指定された。12年に保存工事が始まり、史蹟指定地域の四周に公孫樹を植えたという。添えられた地図を見ると、指定地域は東西約600メートル、南北約800メートルのほぼ長方形状の範囲であり、その四周に銀杏林のマークが約200メートル毎に付いている。四隅とその間に合計14カ所である。その位置を見ると、北東の隅が遺構展示館東側の駐車場にあたる。朱雀門と第1次大極殿近くの銀杏も地図のマークと重なる。銀杏は指定地域を明示するため、大正12年に植えられたことがわかった。

 〈銀杏林〉とあるから、ある程度の本数だろう。遺構展示館東の銀杏は10本を数えたから、それぞれの箇所に10本ぐらい植樹されたと思える。3カ所しか残らなかったのは、周囲が田んぼだから銀杏が生長するにつれ日陰ができて邪魔になったせいだろうか。北東角の銀杏だけ残りが良いのは、植樹の事情を知った地元の人たちの「残そう」という意思を感じる。

 銀杏植樹の事情がわかって、私の銀杏を見る目は変わった。宮跡の植木の中では一番古く、平城宮跡保存史のスタートを告げる記念すべき存在なのである。そう思うと尊敬の念と愛おしさが湧いてくる。こうして晩秋の頃には黄葉した銀杏を一度は眺めるために、宮跡を尋ねることになった。 

 入江泰吉の宮跡の写真には、銀杏の木立がよく登場する。昭和20、30年代の宮跡は草原と田んぼが見渡す限り広がっていて、変化の乏しい駄々広い風景は絵にはなりにくかったに違いない。その中で銀杏木立は絶好のアクセントになったのだろう。遠景にあるいは近景に配して画面効果を計算し尽した撮影である。銀杏の幹が今より細くて低いところに歳月を感じる。

 他にも昭和20,30年代の銀杏が写った宮跡のモノクロ写真をいくつか写真集やネットで見かけた。この時代の幼い記憶を持つ私には、風景も風俗も郷愁を誘って見飽きることがない。

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赤線で囲んだ範囲が大正11年の史蹟指定区域、黄色丸が銀杏を植樹した位置、範囲と位置は多少の誤差があります。

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タイトル下の写真とほぼ同じ位置から撮った現在の風景。

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遺構展示館東側の銀杏、道は一条通り、東方向に撮影

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朱雀門東側の銀杏、西方向に撮影

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第1次大極殿東側の銀杏、道は一条通り、西方向に撮影

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入江泰吉『昭和の奈良大和路』(光村推古書院)より、道は一条通り西方向に撮影、昭和31年

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入江泰吉撮影、道は一条通り東方向に撮影

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岡田庄三撮影、1959年、西方向に撮影

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福川美佐男撮影 1957年 道は一条通り東方向に撮影

参考 なぶんけんブログ「平城宮跡自然散策」

号外 「奈良をもっと楽しむ講座」

 毎月第2金曜日10:00~11:55頃、中部公民館(奈良市上三条町)で奈良まほろばソムリエの会の主催で上記の講座を開催しています。会場費・資料代300円。申込は不要、当日会場にお越しください。問い合わせは090・3657・5445(前田)まで。

 12月8日には、「奈良歴史漫歩」の筆者が「纒向遺跡邪馬台国」のテーマで語ります。筆者からのメッセージです。 

 今もっとも注目されている古代遺跡は桜井市纒向遺跡だろう。三世紀の倭国の女王、卑弥呼が宮を置いた邪馬台国の候補地として有力視されている場所である。
 三輪山の麓に東西2km、南北1.5kmの範囲に広がる遺跡は、ユニークな遺構と遺物が出土して古代都市の様相をおびる。各地から運ばれた多量の土器が出土し、当時の最大規模の建物をふくむ4棟が東西軸線上にならぶ光景は他では見られない。また全長280mの墳丘をもつ箸墓古墳など誕生期の前方後円墳が付近に集中するのもここが特別な地であることを示唆する。
 中国の歴史書『魏志倭人伝に記された邪馬台国は、その記述をどう解釈するかで百人百通りの説が生まれ、それが邪馬台国ブームを起こした一因でもあった。考古学的な調査が進むにつれて、日本列島の古代の姿が動かぬ証拠をもってしだいに明かされつつある。邪馬台国論争の舞台も考古学のフィールドに移った観がある。
 論点は徐々に絞られてきたが、全貌が見えるにはほど遠い。ひとつのことが分かると、それが新たな謎をよびおこす。邪馬台国は古代史最大の歴史ミステリーであり続けるだろう。

 http://www.stomo.jp/osirase/pdf/osirase171025.pdf

084 初期ヤマト政権の宮都、纒向遺跡

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 纒向遺跡は大和の甘南備、三輪山の麓に東西約2km、南北約1.5kmの範囲に広がる。3世紀の初頭、それまでまったく集落のなかった場所に出現し4世紀前半まで存続した大型集落である。同時代の他の集落とは異なる特徴と大きな規模を持ち、都市ととらえる見方もある。『日本書紀』では、第10代崇神天皇磯城瑞籬宮(しきみつかきのみや)、第11代垂仁天皇の纒向珠城宮(まきむくたまきのみや)、第12代景行天皇の纒向日代宮(まきむくひしろのみや)がこの付近に指定される。初期ヤマト政権発祥の遺跡というのが定説となる。

 さらに『魏志倭人伝』に記された倭国の女王卑弥呼が活躍した時代が3世紀前半であり、同時代の他の遺跡で纒向遺跡に匹敵するような場所はないことから、卑弥呼が所在した邪馬台国をこの地に求める説が有力視されるようになった。

 これまでの調査で明らかになった纒向遺跡の特徴ある遺構と遺物を見てゆく。

    ●2009年、大型建物の発見

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2009年11月の現地説明会

 纒向遺跡への一般的な注目が一気に高まったのは、2009年11月、辻地区の大型建物の発見以後である。3世紀初めの国内最大級の建物は、推定で南北約19.2m×東西約12.4m、床面積約238.08㎡と復元された。この建物の東西中心軸の延長上に中心軸を同一にする建物が他に3棟並んでいた。これらを囲む柵か塀と想定される柱列も検出されている。4棟が東西軸に整然と並ぶのは、ほかに例を見ない。太陽信仰との関わりがあるとも言われる。東西を軸にした建物配置は大神神社の拝殿や鳥居もそうだ。後世の宮殿は南北を軸にした配置となる。これは「天子南面」という中国の思想の影響である。それ以前の世界観がうかがわれて注目される。建物のスケールと配置形式から、普通の住居や倉庫ではなく有力者の居館のようなものと想像された。

 遺跡はそれまで出土した遺構や遺物から、祭祀が活発に行われた政治的な中枢都市と見られてきたが、この宮殿と目される建物の出現でさらに証拠づけられるようになった。

 大型建物のそばに土坑があり、祭祀用の土器に混じって多種類の動物と植物の遺存体が出土した。中でも桃の種は2769個を数えた。「記紀」には桃が聖性を帯びた果実として登場する。桃は祭祀に使用されたのだろう。

 建物は3世紀初期から中期にかけて存続したということだ。

 黒田龍二神戸大学教授(建築学)が、4棟の復元案を発表されている。

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黒田龍二神戸大学教授(建築学)の復元案にもとづく模型

  • 調査開始と孤文を刻む土器

 纒向遺跡は戦前にすでに太田遺跡として知られていた。遺跡の本格的な発掘調査のきっかけとなったのは、1971年、アパート建設の事前調査で辻地区に古代の川跡が見つかったことだった。翌年には、埴輪のルーツといわれる特殊器台特有の文様を刻んだ土器破片が見つかった。特殊器台は岡山の楯築墳丘墓や箸墓古墳から出て注目されており、それと共通した文様の出現に遺跡の重要性が気づかれるようになった。この文様は曲線と直線を組み合わせた孤文であり、さらに板や石に刻まれたものが後に発見されている。

  • 纒向大溝

 遺跡の規模と計画性を気づかせたのは、大溝の発見である。東田地区の纒向小学校の建設時に2本の大溝が合流した状態で見つかった。幅約5m、深さ約1.2mの直線状で、北溝は纒向川の旧河道、南溝は箸墓古墳の周濠または現纒向川を取水源とする。合流地点には流量を調節する井関があり、舟をつなぎとめるに使ったような杭が残り、南溝の護岸には矢板が打ち込まれていた。出土したのは200mであったが、延長すると2600mにもおよび、行く先は大和川に通じ運河として利用されていたことが推定できる。

 2世紀末に開削され4世紀初期に埋没したと想定されるから、纒向遺跡の発端から終末まで機能したことになる。集落を作るとき、まず計画的に大溝を掘削したのだ。

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  • 外来系土器

 纒向遺跡から出土する遺跡は外来系土器が多い。210年頃から290年頃にかけて年代が下るにつれて増える。15%から30%の割合である。高い割合と共にその範囲がほぼ全国にわたるというのが特徴である。中でも突出して多いのは東海地方でありほぼ半分を占める。次に山陰・北陸地方、河内、吉備、関東、近江、西部瀬戸内、播磨と続く。九州からももたらされているが、これは少ない。

 外来系土器には2種類あり、各地域で製作され運ばれたものと材料の土は大和産であるが様式がそれぞれの地域特有の特徴を示しているものだ。前者は各地の人が携えてきたか交易品かであり、後者は各地から来て纒向に住み着いた人か子孫が製作したことになる。各地から多数の人が集まった都市的な様相が浮かんでくる。

f:id:awonitan:20171112200815j:plain外来系土器 桜井市埋蔵文化財センター

  • ベニバナ花粉

 太田季田地区から大量のベニバナ花粉が見つかった。ベニバナは日本には自生しておらず、大陸から運ばれたらしく、染料か薬用かに使用されたのか。また、日本にはないバジルの花粉も出土する。これは薬用として利用されたと見られる。このような貴重なものを取得できたのは相当な有力者が居住した証でもある。3世紀前半

 鍛冶工房と見られる跡も10カ所ほど見つかっており、鉄製品、鉄片、鉄滓、送風管(フイゴ羽口)などが出ている。送風管には北九州に多いタイプのものがあって北九州との交流が想定される。3世紀後半から4世紀初頭。

 韓式系土器や断面が丸や三角となる半島と共通した木製鏃も出土する。半島との交流もあったようだ。

 逆に見つかっていないものがある。掘立柱建物はあっても竪穴住居は見つかっていない。この時代の遺跡としては非常に珍しい。また水田跡も出ていない。農具類も非常に少なく、工具は土木工事に利用するタイプのもの、鋤が中心だ。

 階層の高い住人が集まった都市的な様相がここからも想像できる。

  • 祭祀遺構と遺物

 辻地区の土坑からは、祭祀を行った跡と見られる遺構と遺物が出土している。尾張、伊勢からの外来系のものが混じる土器、大量の籾殻、直径50cmほどの赤と黒の漆で花柄模様を描いた大型高坏、機織具、鳥船型木製品などがまとめて放棄されていた。『延喜式新嘗祭条の用具と共通していることが指摘されている。石野博信氏は、ここで直会のような共食儀礼がともなう神まつりが行われていたと推測する。

 「司祭者はまずカミの衣を織り、大きな穴を掘って清らかな水を汲み、新しい米を脱穀して、ご飯をたき、カミにささげる。さまざまなカミ祭を行ったあと、祭に使用した用具を穴におさめる。」という流れだ。その中にはお供えした食物を下げて共食するという場面もあったのだろう。このような儀式は今も伝わる。

 土坑のそばには一間四方の建物跡が見つかっている。祭祀に使用されたのだろうか。

 同じような遺構は唐古・鍵遺跡にも存在するという。唐古・鍵遺跡は纏向の集落が出現する2世紀末から土器の出土が激減し異変のあったことが推定できる。しかし、それ以降も村は存続したと見られる。二つの集落の関係に興味あるが、あまりわかっていないようだ。

  • 導水施設

 巻野内家ツラ地区には導水施設跡が見つかっている。中央に幅63㎝、長さ190㎝の木槽を据え、北、東、南から木樋を通して水を注ぎ入れ西へ排出する。石敷きもあり、2間×1間の掘立柱建物がそばに建つ。木剣、木刀、弧文板などの祭祀用具が出土する。浄水を使う祭が行われていたと見られる。しかし、木樋の中から多量の寄生虫卵が見つかっており、「トイレ説」も浮上している。3世紀後半から4世紀初頭にかけて存在したと推定される。

 

  • 木製仮面と巾着状絹製品

 特筆すべき出土品として太田メクリ地区の木製仮面がある。アカガシの広鍬を転用したもので、長さ26㎝、幅21.5㎝。柄孔はそのまま口になり、両目は新たに細く穿ち眉毛は線刻し鼻は削り残して作る。赤色顔料がわずかに付着していた。ヒモをつけた形跡はないので、手で持って使用したのだろう。木製仮面としては国内最古の事例である。3世紀前半。

 巻野内尾崎半花地区の巾着状絹製品は高さ3.4cm、厚み2.4cm、平織りの絹で包み、植物性繊維のヒモで口を結ぶ。絹は日本産の山繭である。3世紀後半。

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 纒向に集落があった時期に集落内に最初期の古墳が多数築かれた。主な古墳を見ていく。

 纒向石塚古墳は全長約96m、後円部径64m、前方部長32mの規模である。全長、後円部径、前方部長の比率が3:2:1となる古墳は寺沢薫氏が纒向型前方後円墳と名づけたが、その典型である。埴輪や葺石は出土せず、幅約20mの周濠から多数の土器群、鋤・鍬・建築部材などの木製品、赤く塗られた鶏型木製品や孤文円板が出土した。築造時期は3世紀前半と中葉とする2説がある。

 纒向矢塚古墳は全長約96m、後円部径64m、前方部長32mに復元される纒向型古墳である。幅約17mから約23mの周濠が確認された。築造時期は3世紀中頃までとされる。

 ホケノ山古墳は全長約80m、後円部径55m、前方部長25mを測る。葺石を有し周濠が部分的に確認されている。後円部の埋葬施設は「石囲い木郭」と呼ばれる木材でつくられた郭の周囲に河原石を積み上げて石囲いにするという二重構造を持つ。このような構造は吉備や讃岐、阿波、播磨で散見されるので、東部瀬戸内地域の影響が想定される。出土遺物は二重口縁壺や小型丸底鉢、同向式画文帶神獣鏡、内行花文鏡の破片、鉄製刀剣類、鉄製農耕具、多量の銅鏃・鉄鏃など豊富な副葬品がある。築造時期は3世紀中頃と想定されている。

f:id:awonitan:20171112200953j:plain 纒向石塚古墳、墳丘頂部は戦中、高射砲陣地となり削平された。

 定型化前方後円墳の始まりとされる箸墓古墳は全長約280m、後円部径155m、前方部長125mのスケールを持ち、纒向型前方後円墳よりも前方部の比率が増す。後円部は5段、前方部は4段の段築で構成され葺石を有する。幅が内濠約10m、周堤約15m、外濠約100mの二重周濠が想定される。後円部墳頂で特殊器台や特殊器台型埴輪、特殊壺が採集された。出土土器から3世紀後半の築造とされるが、国立歴史博物館館は箸墓古墳やその周辺で出土した土器の付着物の放射性炭素14年代を測定し、3世紀中頃を築造時期とする異論もある。また、4世紀初めの木製鐙が内濠から見つかっている。倭迹迹日百襲姫命大市墓として陵墓指定される。

 纒向勝山古墳は全長約115m、後円部径70m、前方部長45m、幅約20mの周濠が確認される。墳丘くびれ部から多量の朱塗りされた板材が出土した。築造時期は3世紀前半とも後半とも想定できて不明である。

 東田大塚古墳は全長約120m、後円部径70m、前方部長50m、幅約21mの周濠が見つかる。築造は3世紀後半と推定される。

f:id:awonitan:20171112194039j:plain箸墓古墳

  • 庄内式と布留式

 纒向遺跡の解説で頻出する用語に、「庄内式」と「布留式」がある。土器の様式を表す用語で、庄内式は弥生時代から古墳時代に移行する段階の土器、布留式は古墳時代初期の土器を指す。庄内式は大阪府豊中市庄内で出土した土器をもとに編年されたので奈文研の田中琢によって名づけられた。布留式は奈良県天理市布留から出土した土器をもとに編年され、京大の小林行雄が名づけた。

 庄内式の甕は器壁が1.5~2mm、弥生式の4~5mmに比べて非常に薄く熱効率が良い。内壁を削って薄くするという手法が使われた。3世紀初頭から後半ぐらいに普及し、1~3期と編年される。0期を置く考え方もある。表面にタタキの跡が残る。

 布留式は庄内式と同じように壁が薄く、表面がはつられて滑らかである。より精製されて飾りが少なく、全国から出土して均整である。3世紀後半から5世紀後半ぐらいに普及し、0~4期に編年される。

 纒向遺跡の遺構や遺物の年代は基本的に共伴する出土土器によって推定される。遺跡は大きく前期と後期にわけられるが、これは庄内式と布留式の区分が指標となる。

 庄内式期の遺構・遺物が集中するのは、大型建物があった辻地区や木製仮面が出土した太田地区など遺跡の中心に近い東西南北1kmほどの範囲である。布留式期の遺構が出るのは、その周囲である。とくに導水施設が見つかった巻野内地区は後半期の中枢施設があったと推定されている。

 

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庄内式甕

f:id:awonitan:20171112194121j:plain纒向遺跡エリア、内側の線で囲んだ範囲に庄内式の遺構が集中する。その周囲に布留式期遺構が出土する。

参考 石野博信著『邪馬台国の候補地 纒向遺跡』新泉社2008 『大和・纒向遺跡』学生社2011 『纒向へ行こう!』桜井埋蔵文化財センター2011  桜井市纒向学研究センター 他

083 超弩級七重塔が聳えた東大寺東塔院

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北東から見る東塔基壇、27m四方、高さ1.7m以上。周囲には石が敷き詰められていた。2015/11/21の現地説明会

    東塔院南門と回廊

 東大寺東塔院跡の発掘調査現地説明会が10月7日に実施された。一昨年と昨年に続く3回目の説明会である。今回は、東塔院南門と南回廊、東門と西門が主な調査対象である。

 鎌倉時代に再建された南門の礎石抜き取り穴が検出され、桁行き柱間3間、梁行き柱間2間の八脚門であることが確認された。建物規模は桁行き43尺(約12.9m)、中央間15尺、脇間14尺、梁行き24尺(約7.2m)、12尺等間と推定される。これを同じく八脚門の手害門と比較すると、手害門が桁行き56尺であるから、少しは大きさがイメージできるだろう。南門の中央間(約4.5m)から南へ伸びる参道が両端にある石敷とともに特定された。

 回廊は複廊であることが確かめられた。梁行き20尺(約6m)、等間10尺で、中央の柱筋にはおそらく連子窓などのある壁が設けられ、内外ふたつの廊下があった。古代寺院中枢部の複廊は珍しくないが、塔院の複廊が発掘調査で明らかになったのは初めてだという。雨落ち溝が南門基壇の南東部と北東部と回廊に沿って見つかっている。鎌倉時代の瓦の破片が多量に見つかり、「東大寺」、「七」、「嘉禄三年作之」などの銘が刻まれたものもあった。焼け落ちた時の炭化した木材灰や変色した壁の欠片、かすがいや釘の錆びた金属片も出土した。

 礎石建物の門や回廊の基壇は石の外装が施されるのが普通であるが、今回の調査ではまったく見つかっていない。礎石が持ち去らされたのと同じように剥がされたのか。その場合も少しぐらいは残ると思うのだが、新たな謎であるというのが調査担当者の説明である。

 東門と西門も調査されたが、今回は試掘調査であった。東門基壇の遺存状況が良好なこと、西門基壇の瓦溜まりや石敷が確認された。塔基壇の西面の一部も調べられた。鎌倉時代の西面階段の盛り土、踏み石、延べ石とその抜き取り穴、奈良時代の版築、階段の盛り土、西面の石敷が確認されている。

 塔東院の規模についてはまだ確認されていない。だが、おおよそのことはわかる。現地説明会の資料に載った地図から測ると、最大幅で南北90m、東西75mほどになる。

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南門東北端と回廊の雨落溝、鎌倉時代の瓦片が堆積し土が黒ずんでいる。

   東塔の歴史

 東大寺東塔の歴史を振り返っておこう。東塔は764年(天平宝字8)頃に創建された七重の塔で西塔とともに高さ100mとも70mとも伝えられる。西塔は964年に雷火で焼失し再建されることはなかった。東塔もたびたび火災に見舞われ修理されている。1180年には平重衡の南都焼き打ちに遭い焼失したが、1227年に再建された。しかし、1362年に落雷のため焼亡し、三度の再建はかなわなかった。

 江戸時代初期の絵図「東大寺寺中寺外惣絵図并山林」は両塔院跡を描いている。礎石から判断するに西塔は5間四方、東塔は3間四方の塔であった。これは奈良時代創建の塔が5間であり、鎌倉時代に東塔が3間で再建されたことを表す。東塔院の南北東西門は桁行き3間、回廊は複廊の礎石配置となっていて、今回の調査で部分的に確認されたことになる。

   東塔基壇

 これまでの発掘調査で判明したことをまとめておこう。鎌倉時代再建の塔は、奈良時代創建の基壇の上と周囲に盛り土して建てられた。盛り土には焼け土や奈良時代の瓦の破片が混じり、平重衡の焼き打ちの痕跡を伝える。基壇の規模は約27m四方、高さは1.7m以上と推定される。心礎や礎石は明治時代に抜き取られていたが、抜き取り穴の配置から塔は3間四方、中央間の寸法は20尺(約6m)、両脇間18尺(約5.4m)合計56尺となる。礎石を置いた場所には、環状に石を置いて地盤を強固にしていた。

 基壇の東面、北面では、階段最下部の延べ石が残り、基壇中央に階段のつくこと、その外側に敷き詰められた石が確認された。北面の階段からは鎌倉時代再建期の参道が伸びていた。

 奈良時代の階段の外装が東面と南面で出土していて、その位置から鎌倉時代の階段よりも幅が広かったと想定される。これは塔の柱間数が二つの時代では異なっていて江戸時代の絵図にあったように西塔と同じ柱間5間の塔であったことを示唆する。奈良時代の基壇規模は24mに復元でき、これは西塔基壇の23.8mとほぼ一致する。

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東塔基壇東面の鎌倉時代の階段跡、延べ石と石敷が残る。
左上に縦長に白く見えるのは奈良時代の階段の羽目石

   東塔の復元

 塔の高さが100mか70mとふたつの数値がならぶのは、史料の『東大寺要録』には「高23丈8寸(約69.24m)」とあり、一方『朝野群載』は「33丈8尺7寸(約101.61m)」、『扶桑略記』は「33丈8寸(約99.24m)」とわかれるからである。大仏殿に安置された創建期東大寺伽藍の模型にある七重塔は建築史家の天沼俊一が高31丈余と想定して復元した。

 模型であっても群を抜く巨大さは感じられる。しかし、奈良文化財研究所の箱崎和久氏は復元七重塔を検討して現実には復元案は成立しないことを論証した。再建期東塔の初重総柱間寸法は56尺であり、これは手害門の桁行き寸法と同じである。ちなみに現存する五重の塔で一番高い東寺の塔は31.3尺、発掘調査で確認された一番大きな初重平面を持つ大安寺西塔は40尺だ。日本の仏塔は塔身幅に匹敵する深い軒の出を持つことに特長があり、七重塔復元案も25尺以上の軒の出が設定された。これには継ぎ手のない長大な垂木、隅木が必要になってくるが、実際に入手するのは難しいという。

 箱崎氏は元興寺小塔をモデルにして10倍しさらに二重を足す、そして軒の出を抑えるという方法で創建期の七重塔を復元している。これによれば高さは約70mとなる。しかし、高さ100mについての建築学的な検討はなく、100mが現実的な数値なのかということについては言及されていないから、70mか100mかという問題はいぜん残る。

 発掘調査はまだまだ続くらしい。七重塔の高さが判明する手がかりが見つかることを期待したい。(2017/10/12記)

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奈良時代創建期東大寺の模型、手前が東塔。

参考 奈良歴史漫歩No.60「東大寺西塔の復元」
箱崎和久「東大寺七重塔考」
東大寺東塔院跡発掘調査現地説明会資料

082 興福院旧跡の記憶

 

 奈良市北部の佐保丘陵の裾にある名刹、興福院(こんぷいん)は、一般にはあまり知られていないが、観光・史跡ガイドにはほぼ常連で掲載されている。予約すれば拝観できるというが、最近はなぜか断られることが多いという。実は私もまだ拝観していない。ガイドやネットの写真を参考に簡単に紹介しておこう。50m程の参道を歩くと四脚門の大門に迎えられる。石畳、石階、植え込み、生け垣が美しくて落ち着いた境内に茅葺きの客殿が目立っている。正面の高所に建つ本堂(重文)は、寄棟造、本瓦葺きで、屋根は中程に段差を設けて瓦を葺く錣葺(しころぶき)である。いずれも江戸時代初期の寛永年間の建立である。本尊は木芯乾漆阿弥陀如来像(重文)で奈良時代の作だ。
 創建は寺伝では奈良時代にさかのぼるとされるが、近世までの歴史は不明である。現在は浄土宗の尼寺であり、大和大納言の郡山城城主豊臣秀長が200石を寄進したことをもって再興された。秀長の未亡人が2世住職になっている。その頃の寺地は奈良市の西の京、近鉄橿原線尼ヶ辻駅の近くにあった。徳川の天下となって3代将軍家光が寺領を安堵、現在の本堂、客殿、大門はこの時期に造営されている。1665年に現在地に移転した。

 尼辻(あまがつじ)という地名の起原はふたつの説があって、鑑真和上が唐招提寺を創建するにあたって土を舐めたら甘かったので良い場所だと喜ばれたことから、「甘壌」が「尼辻」になったという説と、興福院があったからだという説である。両説の真偽はともかくとして、私はかねて尼辻に興福院があったということに関心を抱いていた。かつて存在したが、今は失われた廃墟、廃寺、史跡に私はとりわけ興味をかきたてられる。
 だから、尼ケ辻に興福院の旧跡、墓地と井戸があると地元の方から教えられたときは、歓喜した。所在地を詳しく聞き出してすぐに出かけた。墓地は地元では「おふじさんのお墓」で通っているらしく、「おふじさん」とは秀長公夫人のことで、秀長公が一目惚れして城へ連れ帰ったという。
 尼辻中町の路地は軽自動車がやっと通れるぐらいの道幅しかなく、しかも直角に曲がる箇所も多いから、車は途中までしか行けない。ただ旧跡見たさに杖を引いて細い路地を行ったり来たりした。築地塀が続いて入母屋造りの大きな木造民家が軒を接する集落である。墓地は家並みが途切れる一角にあった。周囲に雑木が茂り雑草で覆われ一見して荒れ地である。陰鬱な雰囲気に踏み込むのはためらったが、もちろん引き返すわけにはいかない。
 古い墓石が間隔を開けて整列する。小さな舟形の墓石が多い。次に宝篋印塔が目立って、五輪塔は少ない。無縫塔もある。割れたり欠けたり傾いだものもあって、全体として朽ちた印象が強い。どの墓石の前にも茶色の陶器の花立てがひとつ突き立てられて、枯れ切った花がところどころに残る。敷地の広さの割には墓石は少ない。墓石のまわりは除草されているが、外れると夏草が茂り放題である。荒寥感と不気味さがつきまとう。
 墓石に刻まれた文字を見てゆく。読めるものは少ないが、その中に「施主 東大寺大勧進上人 龍松院 公慶 元禄五年壬申八月十日」というのがあった。公慶(1648~1705)は元禄の大仏殿再建に功績のあった高僧である。敷地のほぼ中央にあって比較的大きな自然石の墓石だった。誰のお墓か分からなかったが、元禄5年は1692年であるから、すでに興福院が移転した後だ。歴史上に名高い人物の名前を認めて興奮した。おそらく戦国時代から江戸時代初期の興福院関係者の墓地なのだろう。居るほどに不気味さが募っていく。蚊にも刺されるので、写真を撮るとすぐに墓地を出た。
 井戸は墓地から南東へ200mほど離れた一段低い町角にあった。直径1mほどの丸い井戸をフェンスが囲っている。その上から覗くと、中は雑草にさえぎられてよく分からない。腕を伸ばして撮った写真には、雑草越しに暗い影が見えて穴なのだろう。まだ埋まらずに井戸の形を保っているようだ。すぐそばに新しい祠があり、その前は広場になりきれいに整備されている。祠には座像の石仏が安置され「都大師 大正十四年」と印されてあった。
 この後に地元の郷土史家の著書(松川利吉著『平城旧跡の村』)を読む機会があった。そこには、墓地は興福院の本堂があった場所であり、その南にあるドロマ池は「堂前の池」が訛ったとある。井戸もかつて村人が利用していたという。
 『角川日本地名大辞典奈良県』は、江戸時代から使われていた興福院村が明治21年から尼辻村になると記す。しかし、興福院は小字名として残り、今も地元の人にはそう呼ばれているようだ。
 墓地も井戸も標識や説明のボードはない。最近、史跡の表示や説明ボードの設置に力を入れる市町村が増えているような気がするが、やはり限りがあるだろう。すべての土地は来歴を持つ。それぞれは当事者の記憶に留まるが、同時に当事者とともに消え去っていくだろう。だが、中には多くの人々の記憶に残り語り継がれるものがある。興福院旧跡もそのようなものであった。多くの人といっても限られた人であり、明確な記録はないので記憶は変容し伝説に近づいていく。このような伝説に不意に出会うことは、この上のない喜びである。(2017/8/15記)

興福院墓地
興福院旧跡墓地

興福院井戸
興福院旧跡井戸

号外 まほろばソムリエの深イイ奈良講座「棚田嘉十郎と平城宮跡保存運動」

 平成29年9月24日(日)14:00~15:30

 

「奈良歴史漫歩」筆者が講師の講座です。

以下、奈良まほろば館のホームページの転載です。

若干、付けたしました。

 

NPO法人奈良まほろばソムリエの会の講座です。奈良をテーマに歴史や最新のトピックまでいろいろな切口で楽しく語っていただきます。
遷都1300年祭を経て、国営公園として整備事業が進行する世界遺産平城宮跡。復元された朱雀門の前にはブロンズの棚田嘉十郎翁像が立ちます。宮跡保存の功績を讃えるため建立されました。明治の末年に植木職人であった棚田は、自己犠牲的な署名活動によって中央の華族や政治家の共感を集め動かして、宮跡保存事業を軌道に乗せました。彼を突き動かしていた動機、組織や資金や地位もない棚田の個人的な行動が保存へつながった理由、そして謎に満ちた棚田の自刃の真相を当時の史料から読み解いていきます。

 

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棚田嘉十郎プロフィール

1860年生。明治の中頃、奈良公園で植樹の仕事に携わっているとき、観光客から平城宮跡の位置を問われ、荒れ放題の宮跡に保存の意を強める。1902年(明治35)、地元での平城宮跡保存の運動が高まると嘉十郎も参加、平城神宮の建設をめざしたが、資金面で行き詰まる。以後、嘉十郎は、独自に平城宮跡の保存を訴え、上京を繰り返し、多くの著名人から、賛同の署名を集める。1910年(明治43)、平城遷都1200年祭が企画されると、嘉十郎は当時の知事に協力を得て、御下賜金300円を得ることに貢献する。その後、1913年(大正2)徳川頼倫侯爵を会長にする「奈良大極殿址保存会」の結成に関わり、宮跡保存への道を開いた。しかし、用地買収が軌道にのりだして間もなく、嘉十郎が推薦した篤志家が約束を破ったことの責任を痛感し、1921年(大正10)自刃、嘉十郎は61歳の生涯を閉じた。(棚田嘉十郎翁像の銘文から要約)

 
1.日  時: 平成29年9月24日(日)14:00~(1時間半程度)
2.演  題: 「棚田嘉十郎と平城宮跡保存運動」
3.講  師: 池川愼一 氏(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 会員)

4.会  場: 奈良まほろば館2階

5.資料代 : 500円  

6.定  員: 70名(先着順)
7.申込方法:

 ・ハガキまたはFAX
 必要事項(講演名・講演日時・住所・氏名(ふりがな)・電話番号・年齢)を明記いただき、奈良まほろば館までお送りください。
・ホームページ
 「申込フォーム」http://www.mahoroba-kan.jp/course_form1107.htmlからお申し込みください。

お問い合わせ先
 奈良まほろば館 【開館時間】10:30~19:00
 〒103-0022 東京都中央区日本橋室町1-6-2 奈良まほろば館2F
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