079 薬師寺の西塔心礎移動説

 奈良県橿原市特別史跡、本(もと)薬師寺跡は晩夏の日差しを浴びて紫色の花の絨毯が広がる。周囲の休耕田に植えたホテイアオイの花が盛りを迎えているのだ。新たな名所づくりを試みた橿原市の狙いは当たり、多くの見学者が訪れる。
 本薬師寺跡には金堂や東西両塔の礎石が残る。規則だって並ぶ巨石は、古代寺院のスケールをまざまざと実感させる。東西両塔の心柱を受ける心礎も幸いに現存するのであるが、注意深い見学者は東西の心礎の形が異なっていることに気づかれるだろう。
 東塔跡には四天柱と側柱の礎石も残る。花崗岩の心礎は中央に同心円状に3つの孔(あな)をうがつ。上段は心柱を受けるもの、中断は石蓋をはめこむ孔、下段は舎利孔である。西塔の心礎は、中央にデベソのような半球型のホゾが造りだしてある。心柱の底をくりぬいてはめこんだようだ。この形から西塔には舎利は納められなかったと言える。
 奈良市にある薬師寺は、藤原京から平城京への遷都にともなって他の大寺とともに移転したものだ。移転した後も藤原京薬師寺は残って本薬師寺と呼ばれ、11世紀中頃までは存続したことが文献から推定できる。
 現在の平城薬師寺には、1300年前の心礎の上に西塔が再建されている。この心礎は本薬師寺東塔のそれと同じ形式をもち、孔の寸法もほぼ変わらない。ただ上段の孔の周囲に溝をめぐらせ、水抜きの細い孔が設けられていることが異なる。
 「凍れる音楽」と称される東塔は現在解体修理中で5年後の2020年に落慶する予定だ。今年の2月28日、「保存修理現場見学会」が実施され、東塔の基壇が公開された。そこで心礎の形状が明らかになった。花崗岩で上面は最大幅約2.1mのやや菱形をなして中央に1m四方の浅いくぼみがある。くぼみは、江戸時代の修理で心柱に根継ぎ石を継いだ際に安定させるため削ったということである。したがって出ホゾがあったかどうかは確認できないが、予想された通り東塔の心礎には舎利孔はなかった。
 本薬師寺東西塔と平城薬師寺東西塔の心礎は逆転する形で同じ形式を持っていた。これは非常に興味深い事実だといえよう。本薬師寺と平城薬師寺は伽藍と堂塔の設計において強い相似性を持つ。このことから、本堂薬師三尊の移座や東塔が移建されたかどうかという薬師寺論争が長年戦わされてきた。本薬師寺の存続が確証されたことから全面的な移建は否定されたが、本尊の移座は最近また有力視されるようになったし、平城薬師寺から本薬師寺の創建瓦が出土するため堂塔の部分的な移建の可能性も残る。
 すでに仏教美術史の石田茂作氏は、舎利孔を持つ心礎が白鳳時代のものであり、出ホゾ式の心礎が奈良時代以降に流行したという歴史観から、本薬師寺の創建西塔が平城薬師寺に移建され、そのあとに再建されたという説を70年前に発表されている。
 本薬師寺の発掘調査から西塔の不思議な事実がいくつも明らかになっている。創建瓦が2種類あって、白鳳時代のものと奈良時代のものが等量に出土すること。基壇の下半分は堅い版築を施しながら上半分は柔らかい土盛りであること。足場跡が1時期のものしか残っていないこと。考古学の花谷浩氏は、これらの事実と平城薬師寺の西塔跡から出土する本薬師寺の創建瓦が少量であることをもって西塔移建説を否定し、本薬師寺の西塔が奈良時代に入って完成したことを唱えられた。
 しかし『続日本記』の文武2年(698)に「薬師寺の構作ほぼおわる。詔して衆僧を寺に住まわしむ」とある。主要建物である西塔を未完成のままにして「構作ほぼおわる」というのは解せない。西塔の完成がこの記事のあと20年も先になる理由もわからない。
 花谷氏の説に納得できない私はおこがましくも素人の推理として、西塔の心礎・舎利移動の可能性を考えた。以下は『奈良歴史漫歩』No68「本薬師寺の心礎」からの引用である。

 西塔舎利・心礎移動説を新たに提案したい。奈良時代になって本薬師寺西塔を解体して舎利を心礎ごと取り出し平城薬師寺西塔に据えたあと、新しい心礎をもって本薬師寺西塔を再び組み立てたというものだ。移したのは舎利と心礎だけであるが、解体の際に瓦が多量に壊れたために奈良時代の瓦で補修した。西塔跡から新旧ふたつの瓦群が半々に出るのもそのためである。
 平城薬師寺の塔には、釈迦在世時の重要な出来事を示す「釈迦八相」の塑像が安置されていたことが『薬師寺縁起』に記録されている。東塔には釈迦前半生を表す因相、西塔には釈迦後半生を表す果相とわかれていたが、果相は釈迦の遺骨を分ける「分舎利」を含む。このため舎利は西塔にのみ納められた。
 移すことになった3孔式心礎はそのとき手を加えて排水溝を刻んだ。新調の心礎は舎利をもはや収納する必要はなく、奈良時代になって登場した出ほぞ式が採用された。
 1時期の足場跡しか検出できなかったことは次のように考えられる。西塔基壇も発掘調査されたが、基壇版築土の下半と上半3分の1はよく締まっていたが、その上はかなり軟弱であった。これは心礎を移すときに基壇の表面が掘り返されたからではないだろうか。ふたたび版築で固めるという手間が省かれたのだろう。このとき創建時と解体時の足場跡も消えてしまい、再建する時の足場跡のみ残った。

 難点は、心礎・舎利のみの移動がその労役で得られる意義をどこに見いだせるかということだろう。西塔を心礎ごと移建したと考える方が確かに合理的である。新たな考古学的な事実は、石田茂作氏の西塔移建説の再評価を促しているように思う。

                              (2015/08/31記)
 
20150831141851450.jpg薬師寺東塔跡 水が溜まる中央の石が心礎

 

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薬師寺西塔心礎

f:id:awonitan:20170830175241p:plain平城薬師寺西塔心礎レプリカ

20150831134823192.jpg平城薬師寺東塔心礎

●参考  花谷浩「本薬師寺の発掘調査」1997(『仏教芸術』235号 毎日新聞社) 石田茂作「出土古瓦より見た薬師寺伽藍の造営」1948(『伽藍論攷』養徳社) 大橋一章『薬師寺』1986 保育社 「国宝薬師寺東塔の発掘調査 第4回保存修理現場見学会」配布資料2015

078 入江泰吉旧居見学記

 
  写真家の入江泰吉の旧居が、今年の3月から公開されている。奈良市水門町の依水園に近く吉城川のほとりにある。旧居の前の道を北へ直進すると東大寺戒壇院につきあたる。奈良大和路の写真を撮り続けた写真家にふさわしい場所である。公開前の旧居を道から何回も見ているが、木造平屋建の外観はつつましい作りで周囲の茂るに任せた樹木に覆われていた。普段は人通りもまれな静かな環境でひっそりとした隠れ家のような印象を受けた。風貌から想像する写真家は物静かで目立つことを好まない人柄を感じさせるが、それにふさわしい住まいであると思った。
 8月2日(日曜)、旧居を尋ねた。まず寄せ棟造りの低くて大きないぶし銀の瓦屋根の豪壮さに目を奪われた。入江泰吉記念奈良写真美術館とはもちろん比べものにならないが、低い寄せ棟造りの瓦葺きというところが共通していて通じ合うものを感じる。改修前の旧居はもう記憶が曖昧になっているが、外観は面影をとどめながらもすべてが新しく立派になっているように感じた。あのくすんだ身を潜めるような佇まいに入江らしさを見ていた私には、立派な邸宅のようで少し違和感も覚えたのだった。
 玄関は土間がなく家の外の沓脱石からいきなり部屋へ上がる。興福寺の塔頭にあった茶室の離れが大正年間にこの場所に移築されたという。昭和24年に入江夫妻がこの茶室付き四間の建物を購入し、それを核にして建て増したのが旧居である。この特異な玄関は建物の由来を明らかにしている。そして入江がこれに改修を加えずにおいたことも憶測を誘う。
 玄関の間に上がると、右手に受付がある。台所があったスペースである。玄関の間の奥が客間である。数寄屋造りの床の間、低い天井、土壁、障子、ふすまが作る空間は、私のような還暦世代には昭和の日本そのものである。入江はこの部屋で編集者を迎え打ち合わせをしたらしい。その隣にはソファを置いた部屋がある。壁一面が書棚になっている。上司海雲、志賀直哉、杉本健吉、白洲正子、彼らもこのソファに座ったのだろうか。
 縁側を兼ねた狭い廊下が部屋を取り巻いていて、ガラス戸越しに庭が見える。太い幹(ケヤキらしい)がすぐ目の前に立ちはだかり、鬱蒼とした綠で視界は占められる。廊下に出ると低きに流れる吉城川が見下ろせる。入江家の敷地はそこまででほんの数メートルである。その先は借景で見通せない林のようだ。(後にGoogle マップで確かめると入江旧居の西側は林がひろがり、100メートル以上離れて建物が建つ。)まるで深い森の中にいるようだ。ここでなら安息できるだろう。入江が何故この場所を選んだのか了解した。
 
20150805154719501.jpg客間のソファから廊下越しに庭を見る
 入江泰吉旧居を見学に訪れた日は、コーディネーターの倉橋みどりさんによる旧居ガイドと、建物を改修した徳矢住建の徳矢誠三氏の講話が予定されていた。
 旧居が公開されるに至った経過を簡単にたどってみたい。入江夫妻がこの場所に移り住んだのは昭和24年(1949)、入江44歳の時である。亡くなったのは平成4年(1992)、86歳であった。全作品が奈良市に寄贈されて奈良市写真美術館がその年にオープン。夫妻には子供がなく、妻ミツヱは平成12年(2000)に自宅を奈良市に寄贈した。市は市民を含むワーキンググループを立ち上げ活用方法を検討、その方針に基づき旧居を保存改修し公開に至ったのである。
 倉橋さんは編集者でワーキンググループの一員でもある。倉橋さんのガイドは、部屋を巡回して部屋の使われ方、調度品、夫妻の日常、入江の交友、趣味などに触れていく。茶室は茶の間として使われテレビが置かれていたという。その隣に雁行型に建て増しした四間がある。妻ミツヱさんの専用の部屋、茶の間からは元茶室らしいアーチ型のくぐり戸から出入りする。その縁側に使い込んだ木製の小さなテーブルと椅子2脚が置いてあった。茶の間の庭に面した廊下にもともとはあったらしく、夫妻は庭を眺めながらそこで朝食をとったという。コーヒーとフランスパンが好物だったらしい。
 並びは寝室だった。改修によりフローリングがされソファ、テーブルを置いた見学者用の休憩室になっていた。その隣が書斎とアトリエである。壁一面が作り付けの書棚となり、天井は中央が高くて左右に傾斜する。小さな座卓と座椅子が片隅にある。入江は普段はここに籠もっていたらしくて、ミツヱさんとの連絡用の電話、専用のトイレも設けていた。まさに俗世間とは隔絶された隠れ家である。
 書斎の奥にアトリエがある。そこは立ち入り禁止であったが、二面が全面ガラス戸の森に浮かぶサンルームのようである。ここで、入江は趣味のガラス絵、木っ端仏の制作に没頭したという。ロッキングチェアが置かれていた。チェアに腰掛け思案する入江の姿が目に浮かぶようであった。
 徳矢住建の徳矢誠三さんはまだ32歳と若い。パワーポイントを使って改修工事の入札から施工、竣工の全行程を説明された。専門的な話もあって全部理解できたわけではなく、あくまで私なりに理解して印象に残ったことを述べよう。
 旧居の核となった茶室が移建されたのが大正時代、建て増しされたのが戦後間もなくである。奈良市に寄贈されて無住となった期間も10年を超えていた。建物の朽ち具合はひどかったが、正確なところはわからない。しかも耐震基準などない時代の民家である。公開するとなれば、民家でありながら公共施設として現在の基準をクリアしなければならない。大半の業者が尻込みする中で、若き徳矢さんは勇敢にも困難な課題に挑戦したのであった。
 現場に面した道路は狭く、敷地は広い割には傾斜地が多く、工事スペースを確保するのに苦労した。そのため、庭のケヤキやクスノキの大木を伐採した。改修した旧居への私の第一印象が邸宅とも見える意外な豪壮さであることは前述した。改修前の旧居を覆い隠していた庭の樹木が取り払われて、建物が露わになったということもこの印象の一因のようだ。
 解体修理ではなく、建物は建ったままで補強するという方法だった。しかし、新築に等しいほどの補強が必要でしかも元の建物を生かさなければならず、その兼ね合いで手間と知恵が余計にかかっただろう。基礎は全面に鉄筋コンクリートが施され、その上に新たな土台が伏せられた。屋根は解体され腐朽した隅木、垂木は新調した。パネルや金具を用い、壁を新設して耐震構造を高めた。
 面白かったのは、改修前と改修後の同一箇所が写真で比較して見せられたことだ。元の住まいの雰囲気をできるだけ忠実に残すといっても、朽ちかけた家とリフォーム後では見違えるほど内外美しくなっている。生前の入江泰吉を偲ぶためにも、Before&Afterのアルバムはぜひ旧居に備えて見学者の閲覧に供して欲しい。また工事の過程が詳しくわかるアルバムもあればいい。できれば、PDF化してホームページにUPしてもらえばいうことはない。
 改修にかかった費用は6800万円。入江泰吉は滅び行く大和路の最後の輝きをこの上なき美しい作品に記録した。時間がたつほどに価値は増すだろう。旧居が保存され公開されたのは、入江を偲ぶまたとない手段を手にしたことだ。関係者の苦労と努力に感謝したい。庭にはもみじが多いという。客間のソファに座って四季それぞれの窓からの眺めを楽しみたいと思う。そして、あの神秘で深い森の借景がいつまでも変わらないことを祈ろう。                        (2015/08/06記)
 書斎

アトリエと書斎

077 天誅組の生き残り、北畠治房旧邸「布穀園」

 奈良県斑鳩町の法隆寺近くにある和カフェ「布穀薗」を訪ねた。北畠治房の旧居にできたカフェであると知って、わざわざ出かけたのである。北畠治房といっても知っておられ方はまずおられないだろう。私も知ったのは偶然だった。奈良県の近代史、特に明治時代の事跡を調べていると、彼がときどき出てくるのである。そのうちに彼が天誅組の反乱に参加した生き残りであることを知って関心を抱くようになった。
 北畠治房、旧名、平岡武夫または鳩平は天保4年(1833)に大和斑鳩村に生まれ、大正10年(1922)に亡くなっている。Wikipediaに簡潔な紹介がある。私が下手な要約をするより、そのまま掲載したほうが分かりやすいだろう。

 法隆寺附近の商家の次男として誕生。伴林光平に師事して国学を学び、過激な尊王攘夷思想に傾倒、天誅組の変が起こると師の伴林に随伴してこれに参加するが、天誅組は鎮圧され、師である伴林も処刑される。鳩平は追手を逃れて潜伏し、京都や大坂を転転とする。やがて旧知であった水戸藩士大庭一心斎らに誘われ天狗党に参加するも、早期に離脱。戊辰戦争では尊攘派の浪士達を糾合して有栖川宮熾仁親王の軍勢に加わる。明治維新後は司法官となり、横浜、京都、東京裁判所長、大阪控訴院長を歴任。任期中起こった小野組転籍事件の裁定に辣腕を振るい、槇村正直と舌戦を繰り広げた。明治十四年の政変で失脚し、立憲改進党に参加。東京専門学校(現在の早稲田大学)の議員も務めた。男爵に叙任され、法隆寺近郊で余生を過ごした。


 これを読んでどのように思われただろうか。天誅組、天狗党、戊辰戦争、維新政府の高官、立憲改進党、男爵、90年近い生涯をまさに劇的という言葉にふさわしい生き方をした人であろう。特に、天誅組に参加した志士たちは大方が戦死、処刑の憂き目に遭ったが、生き延びた上におそらくその功績もあずかってだろう新政府に奉職して出世を遂げ、爵位の栄誉まで浴びる。維新後に、彼は南朝の忠臣、北畠親房の末裔を自称して改名しているのも、勤王の志士として輝かしい経歴を誇るところがあったのだろう。
 だが、彼は毀誉褒貶の強い人であった。彼が伴林光平に師事して、天誅組の決起にも同伴したことは、引用した略歴にあったとおりである。伴林光平は国学者であり、歌人として有名であった。このとき光平は51歳、鳩平20歳である。光平は逃走の途次に捕縛され処刑されているが、獄中で決起の経過をつづった手記『南山踏雲録』を著した。ここに鳩平のことが出てくる。
 「平岡鳩平、勇壯辨才、能く人を面折す。但し劇烈にすぎて、人和を得ざる失なきにあらず」。
 「面折」とは、面と向かって人を叱咤することをいう。向こう意気の強い激しい気性の性格であった。明治時代の彼のかずかずのエピソードには確かにこの性格がつきまとっているようだ。
 脚気を患い疲労困憊した光平を鳩平は助けて、二人は安堵村額田部まで逃げてくる。二人の住まいがあった斑鳩の近くである。ここで鳩平は行き先の様子を探るため光平に別れて単独行動をとる。迎えにくるという鳩平の言葉を頼りにして三日待ったが音沙汰なく、しびれを切らした光平は斑鳩の鳩平の縁者をたずねて問う。鳩平は別れたその日に京都に向かって去ったという。それならばそうと知らせてくれれば自分もすぐに京へ立ったのにと、光平は恨み言を書くのである。
 勤王倒幕の志士、北畠治房の経歴を傷つける内容である。『南山踏雲録』が発行されたのは明治27年、後に奈良県知事となる土佐の志士、古澤滋が奈良県政に介入しようとする北畠治房を牽制することが目的だったとされる。
 鳩平にも言い分があっただろう。しか大正4年の『古蹟辯妄』で、彼は光平が当時精神錯乱していたと主張するに及び決定的に信用を落としてしまった。
 
 北畠治房邸は斑鳩町の所有となり結婚式場に使用されていたらしい。最近、民間の所有に移り、長屋門を利用した和カフェがオープンした。母屋は明治20年の建築で、大工は法隆寺宮大工棟梁で有名な西岡常一の祖父である西岡常吉が棟梁を務めたという。巨大な屋根は斜面途中が盛り上がった起(むく)り屋根である。向かって右に大きな唐破風をもつ玄関は貴人が出入りし、左側に通用の玄関がある。全体が黒い中で二階中央の白い漆喰の窓格子が目立つ。カフェのオーナーの住居となっているので、遠くからしか眺められないが、威厳と優美さを兼ね備えた秀逸なデザインである。
 長屋門は威風堂々とした重厚な作りで、いかにも治房好みだと思わせる。淀城から移築したと言い伝えられる。
 長屋門を入っての緩やかな坂は、階段と人力車も通れるような斜面が平行している。

 「布穀薗」とは治房の号「布穀」から名付けられた屋敷の愛称であり、有栖川宮殿下直筆の「布穀薗」と書かれた額が母屋にあるという。カフェは赤膚焼の食器や吉野産の一本杉をくりぬいた椅子などインテリアも凝る。スィーツは甘さを抑えた上品な味で申し分なかった。法隆寺がすぐそばで、また寄ってみたい斑鳩のスポットがひとつ増えた。

北畠邸母屋
北畠邸母屋

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北畠邸長屋門 向かって左のスペースにカフェがある
                            (2015/07/11記) 

076 『奈良歴史漫歩』Kindle版発行

 自著の『奈良歴史漫歩』を電子書籍にしました。「奈良歴史漫歩」は2001年から約8年間の間、メールマガジンとホームページを使って発表した史跡探訪エッセイです。舞台は奈良と周辺地域で古代史の話題が多いが、現代も扱います。読者は多いときで約700人の方に購読していただきました。そのすべてはホームページに掲載しています。そこから10編選んで和装本にしたのは6年前です。AmazonKindleは私も読書で使用していますが、今回は著者の立場で利用させてもらうことにしました。電子書籍化するに際して新たに「まえがき」を加えました。なお『奈良歴史漫歩』Kindle版の定価は300円。Kindle端末がなくても、PCやスマホにアプリを無料ダウンロードすれば読めます。Amazonプレミアム会員は端末があれば無料で読めます。


   『奈良歴史漫歩』Kindle版まえがき
 「趣味は何」と問われると、「発掘調査現地説明会へ行くこと」と答える。大概の方は怪訝な表情を浮かべる。無理もないだろう。開発ブームが国土を席巻した一時に比べれば、実施される現地説明会の数は減ったが、どの会場でも高齢者男性を中心に多数の人々が遠近から集まる。私の二十年間の経験からでも参加者は確実に増えている印象がある。しかし、いくら増えたと言っても世間からすれば少数派であることは間違いないだろう。
 現地説明会が病みつきになるほど面白いのは何故なのか考えてみた。まずは発見があること。その意義の大小は異なっていても、新しい情報を得る瞬間に立ち会うことのスリリングな喜びがある。
 現地説明会では、考古学、または古い建物の解体修理では建築学の専門家の説明を受ける。目前にあるのは、地中の凸凹やなかば腐った木材、石、土器や金属器の破片、瓦などだ。これらは史料であり、専門家の判定・解釈・推理によって歴史的な意味を持つ情報へ変換される。単なるモノから歴史的情報が引き出されるプロセスの目撃者となるばかりでなく、見学者の知識次第でそのプロセスに参加も可能なのだ。
 現地説明会は一回限りの生の体験である。調査が終われば、埋め戻されるか開発のため破壊されるかだ。まれには現地保存されて見学に供せられることもあるが、エンバーミングのような不自然さは否めない。長大な時間を経てきて今この瞬間も変容するモノの様相が日の目を見る。奇跡としか言いようのない出来事が起こっているのだ。すべては滅び無に帰していく。何百年、何千年前の人間の営みの欠片を瞬きほどに可視化して、ふたたび滅びの過程に戻してやることで、この真理に触れる。
 現地説明会は、歴史を体験する最良の機会である。ここで羽ばたいた想像力は私の史跡めぐりの導きとなる。きらびやかに復興された寺院にあっても廃墟の礎石を求めることが、私の歴史漫歩なのである。
                     二〇一五年六月二〇日   橋川紀夫

   目次
夢いまだ幻の高安城
石で固めた天下の山城、大和高取城
平城宮東朝集殿を移築した唐招提寺講堂
春日山の水神信仰
春日若宮おん祭の歴史  
若草山山焼きの起源  
都祁の氷室  
春日烽と飛火野伝説  
三輪山祭祀の謎
薬師寺の心礎


奈良歴史漫歩

075 黄檗宗海龍山王龍寺

 奈良市にある海龍山王龍寺は、元禄2年(1689)に大和郡山藩主の本多下野守忠平が、黄檗宗開祖隠元禅師の孫弟子、梅谷和尚を招いて菩提寺として開山、再興した古刹である。山門や本堂には禅寺らしいたたずまいがあって、奈良の古代寺院を見慣れた目には、ちょっとしたエキゾチシズムを覚える。

 「不許酒葷入山門」の大きな石碑が門の前に立つ。山門には、「門開八字森々松檜壮禅林」の書があり、「門は八の字に開き、森々として松檜禅林に壮んなり」と読むらしい。門を一歩入ると、まさにこの書の世界が広がっていた。鬱蒼と茂る樹林で空も覆われている。ひと一人が歩ける坂道が細い谷川の流れに沿って続く。石畳みを残して、苔が道を埋め尽くしていた。鋭い鳥の声が近くで響いてぎょっとした。途中に滝の行場があり、東屋が建つ。ここからは急な階段となっている。
 階段を登りきると唐風の本堂に向き合う。山を開いた狭小な平坦地で、建物はそれだけである。この寺は、南北朝期に彫られた磨崖仏で有名だ。高さ2.1mの十一面観音立像で、「建武三年(1336)の銘を持つ。寺の縁起によれば、南朝方の勢力と深いつながりがあったようで、珍しい南朝の年号がそれを伝えている。表戸を覗くと、奥の帳をあげたなかに蝋燭が揺らめいて、観音様が浮かび上がる。ガイドには「優雅な美しさは、大和の石仏のなかでも随一」とあるが、視力の弱い私には遠すぎてはっきりとは見えなかった。視力1.5を誇る連れが、記憶をもとにスケッチしてくれたので、それを載せる。
 裏門の脇には、樹齢300年というヤマモモが茂る。樹幹の基部5m、目通り2.7m、高さ11m。空洞になった樹幹から八方に新たな幹が伸びて堂々とした風格がある。
 再び、坂を下り参道をもどる。途中誰にも会わなかった。森厳な別世界、俗界に対する聖なる清浄界、そんな言葉が頭にちらついた。誰にも教えたくない場所である。なぜ都市近郊にこんな環境がまだ残っているのだろうと考えていて、気づいた。お寺のまわりがゴルフ場で囲まれているのである。奈良市西郊のなだらかな丘陵は、住宅地としてほぼ開発しつくされている。そのなかにゴルフ場がまとまった緑地帯としてかろうじて残る。王龍寺はゴルフ場が緩衝帯となり、境内の森厳な雰囲気が保たれているのだ。
 ゴルフをしない私は、ゴルフ場には批判的であっても擁護する気持ちはまったくなかったが、はじめてゴルフ場が結果的に果たしているプラスの機能に思い至った。そこまで時代は世知辛く索漠としたものになったということであろうか。
●参考 『奈良県の歴史散歩 上 奈良北部』2008年 山川出版社 

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(目撃者談)
 右手のひらを見せ伸ばしており、左手は胸の辺に甲を見せ添えるように曲げている。右腕は体のわりに長く感じた。下腹部に衣装のドレープ、胸には首飾りか衣装かわからないドレープがあり、額中央に丸い飾りのようなものがある。浅く彫られており、輪郭はぼやけているが、影で形が浮き上がっている。目は閉じているか半眼、優しく微笑んでいるようです。
                              (2015/05/09記)