083 超弩級七重塔が聳えた東大寺東塔院

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北東から見る東塔基壇、27m四方、高さ1.7m以上。周囲には石が敷き詰められていた。2015/11/21の現地説明会

    東塔院南門と回廊

 東大寺東塔院跡の発掘調査現地説明会が10月7日に実施された。一昨年と昨年に続く3回目の説明会である。今回は、東塔院南門と南回廊、東門と西門が主な調査対象である。

 鎌倉時代に再建された南門の礎石抜き取り穴が検出され、桁行き柱間3間、梁行き柱間2間の八脚門であることが確認された。建物規模は桁行き43尺(約12.9m)、中央間15尺、脇間14尺、梁行き24尺(約7.2m)、12尺等間と推定される。これを同じく八脚門の手害門と比較すると、手害門が桁行き56尺であるから、少しは大きさがイメージできるだろう。南門の中央間(約4.5m)から南へ伸びる参道が両端にある石敷とともに特定された。

 回廊は複廊であることが確かめられた。梁行き20尺(約6m)、等間10尺で、中央の柱筋にはおそらく連子窓などのある壁が設けられ、内外ふたつの廊下があった。古代寺院中枢部の複廊は珍しくないが、塔院の複廊が発掘調査で明らかになったのは初めてだという。雨落ち溝が南門基壇の南東部と北東部と回廊に沿って見つかっている。鎌倉時代の瓦の破片が多量に見つかり、「東大寺」、「七」、「嘉禄三年作之」などの銘が刻まれたものもあった。焼け落ちた時の炭化した木材灰や変色した壁の欠片、かすがいや釘の錆びた金属片も出土した。

 礎石建物の門や回廊の基壇は石の外装が施されるのが普通であるが、今回の調査ではまったく見つかっていない。礎石が持ち去らされたのと同じように剥がされたのか。その場合も少しぐらいは残ると思うのだが、新たな謎であるというのが調査担当者の説明である。

 東門と西門も調査されたが、今回は試掘調査であった。東門基壇の遺存状況が良好なこと、西門基壇の瓦溜まりや石敷が確認された。塔基壇の西面の一部も調べられた。鎌倉時代の西面階段の盛り土、踏み石、延べ石とその抜き取り穴、奈良時代の版築、階段の盛り土、西面の石敷が確認されている。

 塔東院の規模についてはまだ確認されていない。だが、おおよそのことはわかる。現地説明会の資料に載った地図から測ると、最大幅で南北90m、東西75mほどになる。

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南門東北端と回廊の雨落溝、鎌倉時代の瓦片が堆積し土が黒ずんでいる。

   東塔の歴史

 東大寺東塔の歴史を振り返っておこう。東塔は764年(天平宝字8)頃に創建された七重の塔で西塔とともに高さ100mとも70mとも伝えられる。西塔は964年に雷火で焼失し再建されることはなかった。東塔もたびたび火災に見舞われ修理されている。1180年には平重衡の南都焼き打ちに遭い焼失したが、1227年に再建された。しかし、1362年に落雷のため焼亡し、三度の再建はかなわなかった。

 江戸時代初期の絵図「東大寺寺中寺外惣絵図并山林」は両塔院跡を描いている。礎石から判断するに西塔は5間四方、東塔は3間四方の塔であった。これは奈良時代創建の塔が5間であり、鎌倉時代に東塔が3間で再建されたことを表す。東塔院の南北東西門は桁行き3間、回廊は複廊の礎石配置となっていて、今回の調査で部分的に確認されたことになる。

   東塔基壇

 これまでの発掘調査で判明したことをまとめておこう。鎌倉時代再建の塔は、奈良時代創建の基壇の上と周囲に盛り土して建てられた。盛り土には焼け土や奈良時代の瓦の破片が混じり、平重衡の焼き打ちの痕跡を伝える。基壇の規模は約27m四方、高さは1.7m以上と推定される。心礎や礎石は明治時代に抜き取られていたが、抜き取り穴の配置から塔は3間四方、中央間の寸法は20尺(約6m)、両脇間18尺(約5.4m)合計56尺となる。礎石を置いた場所には、環状に石を置いて地盤を強固にしていた。

 基壇の東面、北面では、階段最下部の延べ石が残り、基壇中央に階段のつくこと、その外側に敷き詰められた石が確認された。北面の階段からは鎌倉時代再建期の参道が伸びていた。

 奈良時代の階段の外装が東面と南面で出土していて、その位置から鎌倉時代の階段よりも幅が広かったと想定される。これは塔の柱間数が二つの時代では異なっていて江戸時代の絵図にあったように西塔と同じ柱間5間の塔であったことを示唆する。奈良時代の基壇規模は24mに復元でき、これは西塔基壇の23.8mとほぼ一致する。

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東塔基壇東面の鎌倉時代の階段跡、延べ石と石敷が残る。
左上に縦長に白く見えるのは奈良時代の階段の羽目石

   東塔の復元

 塔の高さが100mか70mとふたつの数値がならぶのは、史料の『東大寺要録』には「高23丈8寸(約69.24m)」とあり、一方『朝野群載』は「33丈8尺7寸(約101.61m)」、『扶桑略記』は「33丈8寸(約99.24m)」とわかれるからである。大仏殿に安置された創建期東大寺伽藍の模型にある七重塔は建築史家の天沼俊一が高31丈余と想定して復元した。

 模型であっても群を抜く巨大さは感じられる。しかし、奈良文化財研究所の箱崎和久氏は復元七重塔を検討して現実には復元案は成立しないことを論証した。再建期東塔の初重総柱間寸法は56尺であり、これは手害門の桁行き寸法と同じである。ちなみに現存する五重の塔で一番高い東寺の塔は31.3尺、発掘調査で確認された一番大きな初重平面を持つ大安寺西塔は40尺だ。日本の仏塔は塔身幅に匹敵する深い軒の出を持つことに特長があり、七重塔復元案も25尺以上の軒の出が設定された。これには継ぎ手のない長大な垂木、隅木が必要になってくるが、実際に入手するのは難しいという。

 箱崎氏は元興寺小塔をモデルにして10倍しさらに二重を足す、そして軒の出を抑えるという方法で創建期の七重塔を復元している。これによれば高さは約70mとなる。しかし、高さ100mについての建築学的な検討はなく、100mが現実的な数値なのかということについては言及されていないから、70mか100mかという問題はいぜん残る。

 発掘調査はまだまだ続くらしい。七重塔の高さが判明する手がかりが見つかることを期待したい。(2017/10/12記)

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奈良時代創建期東大寺の模型、手前が東塔。

参考 奈良歴史漫歩No.60「東大寺西塔の復元」
箱崎和久「東大寺七重塔考」
東大寺東塔院跡発掘調査現地説明会資料

082 興福院旧跡の記憶

 

 奈良市北部の佐保丘陵の裾にある名刹、興福院(こんぷいん)は、一般にはあまり知られていないが、観光・史跡ガイドにはほぼ常連で掲載されている。予約すれば拝観できるというが、最近はなぜか断られることが多いという。実は私もまだ拝観していない。ガイドやネットの写真を参考に簡単に紹介しておこう。50m程の参道を歩くと四脚門の大門に迎えられる。石畳、石階、植え込み、生け垣が美しくて落ち着いた境内に茅葺きの客殿が目立っている。正面の高所に建つ本堂(重文)は、寄棟造、本瓦葺きで、屋根は中程に段差を設けて瓦を葺く錣葺(しころぶき)である。いずれも江戸時代初期の寛永年間の建立である。本尊は木芯乾漆阿弥陀如来像(重文)で奈良時代の作だ。
 創建は寺伝では奈良時代にさかのぼるとされるが、近世までの歴史は不明である。現在は浄土宗の尼寺であり、大和大納言の郡山城城主豊臣秀長が200石を寄進したことをもって再興された。秀長の未亡人が2世住職になっている。その頃の寺地は奈良市の西の京、近鉄橿原線尼ヶ辻駅の近くにあった。徳川の天下となって3代将軍家光が寺領を安堵、現在の本堂、客殿、大門はこの時期に造営されている。1665年に現在地に移転した。

 尼辻(あまがつじ)という地名の起原はふたつの説があって、鑑真和上が唐招提寺を創建するにあたって土を舐めたら甘かったので良い場所だと喜ばれたことから、「甘壌」が「尼辻」になったという説と、興福院があったからだという説である。両説の真偽はともかくとして、私はかねて尼辻に興福院があったということに関心を抱いていた。かつて存在したが、今は失われた廃墟、廃寺、史跡に私はとりわけ興味をかきたてられる。
 だから、尼ケ辻に興福院の旧跡、墓地と井戸があると地元の方から教えられたときは、歓喜した。所在地を詳しく聞き出してすぐに出かけた。墓地は地元では「おふじさんのお墓」で通っているらしく、「おふじさん」とは秀長公夫人のことで、秀長公が一目惚れして城へ連れ帰ったという。
 尼辻中町の路地は軽自動車がやっと通れるぐらいの道幅しかなく、しかも直角に曲がる箇所も多いから、車は途中までしか行けない。ただ旧跡見たさに杖を引いて細い路地を行ったり来たりした。築地塀が続いて入母屋造りの大きな木造民家が軒を接する集落である。墓地は家並みが途切れる一角にあった。周囲に雑木が茂り雑草で覆われ一見して荒れ地である。陰鬱な雰囲気に踏み込むのはためらったが、もちろん引き返すわけにはいかない。
 古い墓石が間隔を開けて整列する。小さな舟形の墓石が多い。次に宝篋印塔が目立って、五輪塔は少ない。無縫塔もある。割れたり欠けたり傾いだものもあって、全体として朽ちた印象が強い。どの墓石の前にも茶色の陶器の花立てがひとつ突き立てられて、枯れ切った花がところどころに残る。敷地の広さの割には墓石は少ない。墓石のまわりは除草されているが、外れると夏草が茂り放題である。荒寥感と不気味さがつきまとう。
 墓石に刻まれた文字を見てゆく。読めるものは少ないが、その中に「施主 東大寺大勧進上人 龍松院 公慶 元禄五年壬申八月十日」というのがあった。公慶(1648~1705)は元禄の大仏殿再建に功績のあった高僧である。敷地のほぼ中央にあって比較的大きな自然石の墓石だった。誰のお墓か分からなかったが、元禄5年は1692年であるから、すでに興福院が移転した後だ。歴史上に名高い人物の名前を認めて興奮した。おそらく戦国時代から江戸時代初期の興福院関係者の墓地なのだろう。居るほどに不気味さが募っていく。蚊にも刺されるので、写真を撮るとすぐに墓地を出た。
 井戸は墓地から南東へ200mほど離れた一段低い町角にあった。直径1mほどの丸い井戸をフェンスが囲っている。その上から覗くと、中は雑草にさえぎられてよく分からない。腕を伸ばして撮った写真には、雑草越しに暗い影が見えて穴なのだろう。まだ埋まらずに井戸の形を保っているようだ。すぐそばに新しい祠があり、その前は広場になりきれいに整備されている。祠には座像の石仏が安置され「都大師 大正十四年」と印されてあった。
 この後に地元の郷土史家の著書(松川利吉著『平城旧跡の村』)を読む機会があった。そこには、墓地は興福院の本堂があった場所であり、その南にあるドロマ池は「堂前の池」が訛ったとある。井戸もかつて村人が利用していたという。
 『角川日本地名大辞典奈良県』は、江戸時代から使われていた興福院村が明治21年から尼辻村になると記す。しかし、興福院は小字名として残り、今も地元の人にはそう呼ばれているようだ。
 墓地も井戸も標識や説明のボードはない。最近、史跡の表示や説明ボードの設置に力を入れる市町村が増えているような気がするが、やはり限りがあるだろう。すべての土地は来歴を持つ。それぞれは当事者の記憶に留まるが、同時に当事者とともに消え去っていくだろう。だが、中には多くの人々の記憶に残り語り継がれるものがある。興福院旧跡もそのようなものであった。多くの人といっても限られた人であり、明確な記録はないので記憶は変容し伝説に近づいていく。このような伝説に不意に出会うことは、この上のない喜びである。(2017/8/15記)

興福院墓地
興福院旧跡墓地

興福院井戸
興福院旧跡井戸

号外 まほろばソムリエの深イイ奈良講座「棚田嘉十郎と平城宮跡保存運動」

 平成29年9月24日(日)14:00~15:30

 

「奈良歴史漫歩」筆者が講師の講座です。

以下、奈良まほろば館のホームページの転載です。

若干、付けたしました。

 

NPO法人奈良まほろばソムリエの会の講座です。奈良をテーマに歴史や最新のトピックまでいろいろな切口で楽しく語っていただきます。
遷都1300年祭を経て、国営公園として整備事業が進行する世界遺産平城宮跡。復元された朱雀門の前にはブロンズの棚田嘉十郎翁像が立ちます。宮跡保存の功績を讃えるため建立されました。明治の末年に植木職人であった棚田は、自己犠牲的な署名活動によって中央の華族や政治家の共感を集め動かして、宮跡保存事業を軌道に乗せました。彼を突き動かしていた動機、組織や資金や地位もない棚田の個人的な行動が保存へつながった理由、そして謎に満ちた棚田の自刃の真相を当時の史料から読み解いていきます。

 

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棚田嘉十郎プロフィール

1860年生。明治の中頃、奈良公園で植樹の仕事に携わっているとき、観光客から平城宮跡の位置を問われ、荒れ放題の宮跡に保存の意を強める。1902年(明治35)、地元での平城宮跡保存の運動が高まると嘉十郎も参加、平城神宮の建設をめざしたが、資金面で行き詰まる。以後、嘉十郎は、独自に平城宮跡の保存を訴え、上京を繰り返し、多くの著名人から、賛同の署名を集める。1910年(明治43)、平城遷都1200年祭が企画されると、嘉十郎は当時の知事に協力を得て、御下賜金300円を得ることに貢献する。その後、1913年(大正2)徳川頼倫侯爵を会長にする「奈良大極殿址保存会」の結成に関わり、宮跡保存への道を開いた。しかし、用地買収が軌道にのりだして間もなく、嘉十郎が推薦した篤志家が約束を破ったことの責任を痛感し、1921年(大正10)自刃、嘉十郎は61歳の生涯を閉じた。(棚田嘉十郎翁像の銘文から要約)

 
1.日  時: 平成29年9月24日(日)14:00~(1時間半程度)
2.演  題: 「棚田嘉十郎と平城宮跡保存運動」
3.講  師: 池川愼一 氏(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 会員)

4.会  場: 奈良まほろば館2階

5.資料代 : 500円  

6.定  員: 70名(先着順)
7.申込方法:

 ・ハガキまたはFAX
 必要事項(講演名・講演日時・住所・氏名(ふりがな)・電話番号・年齢)を明記いただき、奈良まほろば館までお送りください。
・ホームページ
 「申込フォーム」http://www.mahoroba-kan.jp/course_form1107.htmlからお申し込みください。

お問い合わせ先
 奈良まほろば館 【開館時間】10:30~19:00
 〒103-0022 東京都中央区日本橋室町1-6-2 奈良まほろば館2F
 電話03-3516-3931 / FAX03-3516-3932

 

081 生駒は哀しい女町

 

 「女町エレジー」で「生駒は哀しい女町」と歌われた奈良県生駒市は、今は大阪のベッドタウンとして人口急増著しく、ある雑誌の「住みよさランキング」の上位にも入った郊外の住宅都市である。聖天さんで親しまれる宝山寺が生駒のシンボルであることに変わりはないが、その門前町として発展した経緯も過去のものになろうとしている。「女町」の痕跡も現在の町並みには見いだしがたい。それでも、駅から続く旧参道の通りに残る木造三階の建物に、かつての花街を偲べないこともない。また、生駒ケーブルカーの宝山寺駅から伸びる参道には旅館がならんで、ここは今も門前町の雰囲気がある。
 弦歌紅灯の花街として生駒がもっとも賑わったのは、大正から昭和にかけてであったようだ。『生駒市史』から、その様子を偲んでみたい。
 大正3年(1914)、大阪上本町と奈良を電車で結ぶ大阪電気軌道(大軌=今の近鉄)の奈良線が開通、生駒トンネルの奈良県側出口に生駒停留所が設けられた。人家もない場所であったが、停留所から生駒山中腹の宝山寺への新道がつけられるとともに、参詣人目当ての飲食店、旅館、商店が出現し、門前町が誕生した。
 門前町は生駒新地とも呼ばれ、鉄道開通の翌年には早くも芸妓の置屋が大阪から進出した。大正7年には芸妓は30名を数えるようになり、大正8年に置屋の組合である芸妓置屋検番ができている。料理屋は地元の生駒出身者による経営が多かった。大正10年に、置屋側と料理屋側が合同して、生駒検番株式会社を創設している。
 この間、停留所と宝山寺を結ぶケーブルカーが引かれ、参詣人は激増した。大正10年には、演舞場の生駒座が誕生、置屋数15,芸妓数130名に増加し、すでに県下一の花街と言われるまでになっていた。
 生駒新地は、約1.4kmの参道に沿って発展したが、ケーブルカーが引かれてからは、停留所近辺の元町、本町一帯とケーブルの宝山寺駅近くの門前町が中心になった。昭和5年には、ヤトナ酌人を派遣する株式会社旭検が門前町に生まれている。ヤトナとは、「客に接待もする仲居さん」ということらしい。
 昭和初期から戦中までは、芸妓置屋数22~23、芸妓数150名前後、ヤトナ酌人の置屋は6~8、ヤトナは50~80名の状態が続いている。また料理屋の数も100余で変わりない。
 料理屋、置屋、検番の三者は共同して生駒新地の振興を図り、客の誘致、芸妓・ヤトナの技芸向上、健康の保持、風紀の向上に努めた。舞踊、唄、三味線の師匠を他所から呼んで稽古をつけ、温習会、技芸等級試験を行っている。また自前の診療所も開設し、花柳病は無料で治療にあたった。
 いわゆるご当地ソングも盛んに作られた。『生駒市史』の資料編には、「生駒音頭」「生駒ブルース」「生駒情緒」「生駒ぞめき」「四季の生駒」「生駒新地流し」「生駒小唄」「女町エレジー」の歌詞が採録されている。お座敷で唄うような歌が多い。「生駒新地流し」は、昭和8年に野口雨情が作詞したものだ。雰囲気を偲ぶために掲げておこう。

一、生駒新地は気楽なところ/三味や太鼓で日を暮らす
二、春の生駒は桜の名所/明けりや一夜で花となる
三、生駒ながめて星かと聞けば/何んの星かよ灯の明り
四、生駒名所清水滝に/秋は紅葉も散りかかる
五、生駒新地に灯のつく頃は/お山おろしが身にしみる


 昭和5年には、ダンスホールができて、ダンサー100名を擁した。18、9才の少女が多く、平均月収150円も稼いだという。
 この年の生駒新地の人口は約3000人、このうち芸妓、ヤトナ、ダンサー、仲居、女給が500人を数えた。また、芸妓とヤトナの花代が、生駒町の総生産額の3分の2を占めたというから、花街の賑わいが想像できる。
 戦後、いち早く生駒の花街は復活したが、戦前の賑わいを取り戻すことはなかった。昭和48年の料理旅館は47軒に減っているが、芸妓は150名ということだ。この数は意外である。昭和48年といえば、現在のような高架の駅に改装され、駅前が再開発されるより大分前になり、私自身、生駒の町を歩くこともあったが、すでに花街の雰囲気はほとんど感じなかった。しかし、芸者という「伝統文化」はまだ命脈を保っていたことになる。「女町エレジー」が生まれたのも、この年だった。
 私は芸者遊びなど一度もやったことのない野暮な人間である。こういう者が花街を偲ぶというのも変だとは思うが、滅んだ花街のざわめきには、心を溶かすような懐かしさがある。
 生駒が花街の殷賑を極めた理由は、多くの条件がミックスしたのだろうが、なかでも宝山寺の存在が大きいにちがいない。現世利益のあらゆる願いを受けとめてくれるから、幅広い層の参詣人を引き寄せる。特に大阪という商業都市の欲と色が浄められ蘇生する聖地の役割を果たした。聖天堂に祀られる歓喜天秘仏であるが、陰陽交合の聖像であることは公然の秘密である。歓喜天は花街の暗黙の守り神であったのだろう。  (2015/12/15記)

生駒新地の旧料理屋
生駒本町の通りに残る旧料理屋

080 旧山田寺仏頭の数奇な運命

 興福寺国宝館には天平鎌倉時代の仏像が綺羅星のごとく鎮座するが、なかでも人気があるのはともに国宝の阿修羅像と旧山田寺仏頭だろう。私も例に漏れず一目でこの2体には魅了された口である。二つに共通するのは、いわゆる仏像らしくないということだ。阿修羅像については言うまでもない。仏頭は如来像にはちがいないが、首から下の全体が失われ、まみえるのは頭部だけであるということで仏像としてのくびきを脱しているような感がある。
 仏頭は685年という制作年のわかる丈六金銅仏として白鳳様式の基準を示す貴重な作である。直線的で長い鼻筋から伸びやかな弧を描く眉、杏仁型の切れ長の目、若々しく張りつめた丸顔の輪郭、引き締まった口元。美しく整って力強い造形には、仏像ファンでなくても心惹かれるだろう。 
 仏頭と対面するときかならず思い浮かぶのは、この仏像が秘める数奇な歴史のドラマである。
 旧山田寺は桜井方面から明日香に入る玄関ともいうべき場所に位置する。蘇我家の傍流である蘇我倉山田石川麻呂が641年に氏寺として発願、寺の建設工事が始まった。石川麻呂は、645年の乙巳の変中大兄皇子の側につき重要な役割を果たした。変のあとは右大臣の位につく。しかし、陰謀の疑いがかけられ、金堂が完成したばかりの山田寺で自害し一族郎党もそのあとをおう。中大兄がしかけた謀略の匂いがつよい。
 鸕野讚良(うののさらら)皇后(のちの持統天皇)は、石川麻呂の孫娘であり、天智天皇の娘である。天武天皇の世となり、中断していた山田寺の工事が再開される。丈六金銅仏が開眼したのが685年、その年に天皇は寺へ行幸している。その影には、冤罪で果てた祖父の無念をひきついだ皇后の強い思いがあったのだろう。
 旧山田寺跡は特別史跡となり、境内からは瓦や塑像、回廊の建材が多量に出土した。明日香資料館には特別展示コーナーがあり、寺のかつての壮麗さを偲ぶことができる。1023年に山田寺を参拝した藤原道長は「堂中は奇偉荘厳を以て言語云うを默し心眼及ばず」と感嘆した記録が残る。
 1180年、平重衡の南都焼き打ちによって興福寺は全山焼亡する。東金堂は5年後には再建されたが、本尊の新鋳は難航し、業を煮やした東金堂衆は山田寺に押しかけ仏像を奪うという挙にでる。こうして山田寺講堂にあった丈六薬師三尊像は興福寺東金堂の本尊になったのである。(近年、山田寺金堂像であったという異説が発表されたらしい。)
 しかし、1411年の火災で脇侍像は運び出されたものの薬師像は被災、頭部のみとなった。そして、新鋳された薬師如来像の台座に納められ、いつの間にかそのことも忘れられてしまった。仏頭がふたたび世に現れたのは、1937年(昭和12年)東金堂の修理の際であった。
 このような波瀾万丈のドラマを知ると、はちきれんばかりの若々しいお顔に秘めた底知れない闇に思いいたすことになる。日本経済新聞の中沢義則編集委員の言葉は、仏頭の印象を余すことなく伝えるように思う。

 私は仏頭の眼差しに哀しみと慈しみを見る。遠くを見ているような視線は自らの数奇な運命を振り返って、深い悲哀を宿しているかのようだ。だが、波乱の運命を静かに受け入れ、慈愛の心を失わずに毅然とたたずんでいる。高貴な仏頭は、そういう強さを秘めている。

 仏頭の印象はもちろん全体から伝わるものであるが、とくに強い眼差しが拝観者をしてとりこにする。切れ長の上下の瞼は明瞭な線で縁取られてすがすがしく、強固な意志を感じる。その視線は遠くに投げかけられている。仏像の視線は拝観者を見つめるようにやや下向きであることが多い。だが仏頭の前に立てば、その視線は対面者の背後の彼方を指すように感じる。
 写真で見れば、仏頭の視線は水平である。そのようにセットされたということだ。これが普通の仏像とは異なる「遠くを見ている」ような眼差しを与えた。拝観する位置によっては見上げているように見えることもあって、さらに「遠くを見ている」印象を強くする。仏頭のある意味で仏像らしくない新鮮な印象は、この彼方への眼差しから来ている要素が大きいと思う。                 (2015/09/03記)

旧山田寺仏頭右横顔

興福寺仏頭 写真は「仏頭タイムス」から転載

●参考 奈良歴史漫歩No3「底なしの闇を見据える旧山田寺仏頭」

079 薬師寺の西塔心礎移動説

 奈良県橿原市特別史跡、本(もと)薬師寺跡は晩夏の日差しを浴びて紫色の花の絨毯が広がる。周囲の休耕田に植えたホテイアオイの花が盛りを迎えているのだ。新たな名所づくりを試みた橿原市の狙いは当たり、多くの見学者が訪れる。
 本薬師寺跡には金堂や東西両塔の礎石が残る。規則だって並ぶ巨石は、古代寺院のスケールをまざまざと実感させる。東西両塔の心柱を受ける心礎も幸いに現存するのであるが、注意深い見学者は東西の心礎の形が異なっていることに気づかれるだろう。
 東塔跡には四天柱と側柱の礎石も残る。花崗岩の心礎は中央に同心円状に3つの孔(あな)をうがつ。上段は心柱を受けるもの、中断は石蓋をはめこむ孔、下段は舎利孔である。西塔の心礎は、中央にデベソのような半球型のホゾが造りだしてある。心柱の底をくりぬいてはめこんだようだ。この形から西塔には舎利は納められなかったと言える。
 奈良市にある薬師寺は、藤原京から平城京への遷都にともなって他の大寺とともに移転したものだ。移転した後も藤原京薬師寺は残って本薬師寺と呼ばれ、11世紀中頃までは存続したことが文献から推定できる。
 現在の平城薬師寺には、1300年前の心礎の上に西塔が再建されている。この心礎は本薬師寺東塔のそれと同じ形式をもち、孔の寸法もほぼ変わらない。ただ上段の孔の周囲に溝をめぐらせ、水抜きの細い孔が設けられていることが異なる。
 「凍れる音楽」と称される東塔は現在解体修理中で5年後の2020年に落慶する予定だ。今年の2月28日、「保存修理現場見学会」が実施され、東塔の基壇が公開された。そこで心礎の形状が明らかになった。花崗岩で上面は最大幅約2.1mのやや菱形をなして中央に1m四方の浅いくぼみがある。くぼみは、江戸時代の修理で心柱に根継ぎ石を継いだ際に安定させるため削ったということである。したがって出ホゾがあったかどうかは確認できないが、予想された通り東塔の心礎には舎利孔はなかった。
 本薬師寺東西塔と平城薬師寺東西塔の心礎は逆転する形で同じ形式を持っていた。これは非常に興味深い事実だといえよう。本薬師寺と平城薬師寺は伽藍と堂塔の設計において強い相似性を持つ。このことから、本堂薬師三尊の移座や東塔が移建されたかどうかという薬師寺論争が長年戦わされてきた。本薬師寺の存続が確証されたことから全面的な移建は否定されたが、本尊の移座は最近また有力視されるようになったし、平城薬師寺から本薬師寺の創建瓦が出土するため堂塔の部分的な移建の可能性も残る。
 すでに仏教美術史の石田茂作氏は、舎利孔を持つ心礎が白鳳時代のものであり、出ホゾ式の心礎が奈良時代以降に流行したという歴史観から、本薬師寺の創建西塔が平城薬師寺に移建され、そのあとに再建されたという説を70年前に発表されている。
 本薬師寺の発掘調査から西塔の不思議な事実がいくつも明らかになっている。創建瓦が2種類あって、白鳳時代のものと奈良時代のものが等量に出土すること。基壇の下半分は堅い版築を施しながら上半分は柔らかい土盛りであること。足場跡が1時期のものしか残っていないこと。考古学の花谷浩氏は、これらの事実と平城薬師寺の西塔跡から出土する本薬師寺の創建瓦が少量であることをもって西塔移建説を否定し、本薬師寺の西塔が奈良時代に入って完成したことを唱えられた。
 しかし『続日本記』の文武2年(698)に「薬師寺の構作ほぼおわる。詔して衆僧を寺に住まわしむ」とある。主要建物である西塔を未完成のままにして「構作ほぼおわる」というのは解せない。西塔の完成がこの記事のあと20年も先になる理由もわからない。
 花谷氏の説に納得できない私はおこがましくも素人の推理として、西塔の心礎・舎利移動の可能性を考えた。以下は『奈良歴史漫歩』No68「本薬師寺の心礎」からの引用である。

 西塔舎利・心礎移動説を新たに提案したい。奈良時代になって本薬師寺西塔を解体して舎利を心礎ごと取り出し平城薬師寺西塔に据えたあと、新しい心礎をもって本薬師寺西塔を再び組み立てたというものだ。移したのは舎利と心礎だけであるが、解体の際に瓦が多量に壊れたために奈良時代の瓦で補修した。西塔跡から新旧ふたつの瓦群が半々に出るのもそのためである。
 平城薬師寺の塔には、釈迦在世時の重要な出来事を示す「釈迦八相」の塑像が安置されていたことが『薬師寺縁起』に記録されている。東塔には釈迦前半生を表す因相、西塔には釈迦後半生を表す果相とわかれていたが、果相は釈迦の遺骨を分ける「分舎利」を含む。このため舎利は西塔にのみ納められた。
 移すことになった3孔式心礎はそのとき手を加えて排水溝を刻んだ。新調の心礎は舎利をもはや収納する必要はなく、奈良時代になって登場した出ほぞ式が採用された。
 1時期の足場跡しか検出できなかったことは次のように考えられる。西塔基壇も発掘調査されたが、基壇版築土の下半と上半3分の1はよく締まっていたが、その上はかなり軟弱であった。これは心礎を移すときに基壇の表面が掘り返されたからではないだろうか。ふたたび版築で固めるという手間が省かれたのだろう。このとき創建時と解体時の足場跡も消えてしまい、再建する時の足場跡のみ残った。

 難点は、心礎・舎利のみの移動がその労役で得られる意義をどこに見いだせるかということだろう。西塔を心礎ごと移建したと考える方が確かに合理的である。新たな考古学的な事実は、石田茂作氏の西塔移建説の再評価を促しているように思う。

                              (2015/08/31記)
 
20150831141851450.jpg薬師寺東塔跡 水が溜まる中央の石が心礎

 

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薬師寺西塔心礎

f:id:awonitan:20170830175241p:plain平城薬師寺西塔心礎レプリカ

20150831134823192.jpg平城薬師寺東塔心礎

●参考  花谷浩「本薬師寺の発掘調査」1997(『仏教芸術』235号 毎日新聞社) 石田茂作「出土古瓦より見た薬師寺伽藍の造営」1948(『伽藍論攷』養徳社) 大橋一章『薬師寺』1986 保育社 「国宝薬師寺東塔の発掘調査 第4回保存修理現場見学会」配布資料2015

078 入江泰吉旧居見学記

 
  写真家の入江泰吉の旧居が、今年の3月から公開されている。奈良市水門町の依水園に近く吉城川のほとりにある。旧居の前の道を北へ直進すると東大寺戒壇院につきあたる。奈良大和路の写真を撮り続けた写真家にふさわしい場所である。公開前の旧居を道から何回も見ているが、木造平屋建の外観はつつましい作りで周囲の茂るに任せた樹木に覆われていた。普段は人通りもまれな静かな環境でひっそりとした隠れ家のような印象を受けた。風貌から想像する写真家は物静かで目立つことを好まない人柄を感じさせるが、それにふさわしい住まいであると思った。
 8月2日(日曜)、旧居を尋ねた。まず寄せ棟造りの低くて大きないぶし銀の瓦屋根の豪壮さに目を奪われた。入江泰吉記念奈良写真美術館とはもちろん比べものにならないが、低い寄せ棟造りの瓦葺きというところが共通していて通じ合うものを感じる。改修前の旧居はもう記憶が曖昧になっているが、外観は面影をとどめながらもすべてが新しく立派になっているように感じた。あのくすんだ身を潜めるような佇まいに入江らしさを見ていた私には、立派な邸宅のようで少し違和感も覚えたのだった。
 玄関は土間がなく家の外の沓脱石からいきなり部屋へ上がる。興福寺の塔頭にあった茶室の離れが大正年間にこの場所に移築されたという。昭和24年に入江夫妻がこの茶室付き四間の建物を購入し、それを核にして建て増したのが旧居である。この特異な玄関は建物の由来を明らかにしている。そして入江がこれに改修を加えずにおいたことも憶測を誘う。
 玄関の間に上がると、右手に受付がある。台所があったスペースである。玄関の間の奥が客間である。数寄屋造りの床の間、低い天井、土壁、障子、ふすまが作る空間は、私のような還暦世代には昭和の日本そのものである。入江はこの部屋で編集者を迎え打ち合わせをしたらしい。その隣にはソファを置いた部屋がある。壁一面が書棚になっている。上司海雲、志賀直哉、杉本健吉、白洲正子、彼らもこのソファに座ったのだろうか。
 縁側を兼ねた狭い廊下が部屋を取り巻いていて、ガラス戸越しに庭が見える。太い幹(ケヤキらしい)がすぐ目の前に立ちはだかり、鬱蒼とした綠で視界は占められる。廊下に出ると低きに流れる吉城川が見下ろせる。入江家の敷地はそこまででほんの数メートルである。その先は借景で見通せない林のようだ。(後にGoogle マップで確かめると入江旧居の西側は林がひろがり、100メートル以上離れて建物が建つ。)まるで神秘な森の別荘にいるようだ。このとき私は了解した。入江が何故この場所を選びここで生涯を過ごしたのかを。私は入江の作品の大ファンである。その上、写真家が住みついた数寄屋造りの巣に籠もるような安息感に魅せられ、そのロケーションの虜になってしまったのだ。見学してそうもたたないうちにである。
 
20150805154719501.jpg客間のソファから廊下越しに庭を見る
 入江泰吉旧居を見学に訪れた日は、コーディネーターの倉橋みどりさんによる旧居ガイドと、建物を改修した徳矢住建の徳矢誠三氏の講話が予定されていた。
 旧居が公開されるに至った経過を簡単にたどってみたい。入江夫妻がこの場所に移り住んだのは昭和24年(1949)、入江44歳の時である。亡くなったのは平成4年(1992)、86歳であった。全作品が奈良市に寄贈されて奈良市写真美術館がその年にオープン。夫妻には子供がなく、妻ミツヱは平成12年(2000)に自宅を奈良市に寄贈した。市は市民を含むワーキンググループを立ち上げ活用方法を検討、その方針に基づき旧居を保存改修し公開に至ったのである。
 倉橋さんは編集者でワーキンググループの一員でもある。倉橋さんのガイドは、部屋を巡回して部屋の使われ方、調度品、夫妻の日常、入江の交友、趣味などに触れていく。茶室は茶の間として使われテレビが置かれていたという。その隣に雁行型に建て増しした四間がある。妻ミツヱさんの専用の部屋、茶の間からは元茶室らしいアーチ型のくぐり戸から出入りする。その縁側に使い込んだ木製の小さなテーブルと椅子2脚が置いてあった。茶の間の庭に面した廊下にもともとはあったらしく、夫妻は庭を眺めながらそこで朝食をとったという。コーヒーとフランスパンが好物だったらしい。
 並びは寝室だった。改修によりフローリングがされソファ、テーブルを置いた見学者用の休憩室になっていた。その隣が書斎とアトリエである。壁一面が作り付けの書棚となり、天井は中央が高くて左右に傾斜する。小さな座卓と座椅子が片隅にある。入江は普段はここに籠もっていたらしくて、ミツヱさんとの連絡用の電話、専用のトイレも設けていた。まさに俗世間とは隔絶された隠れ家である。
 書斎の奥にアトリエがある。そこは立ち入り禁止であったが、二面が全面ガラス戸の森に浮かぶサンルームのようである。ここで、入江は趣味のガラス絵、木っ端仏の制作に没頭したという。ロッキングチェアが置かれていた。チェアに腰掛け思案する入江の姿が目に浮かぶようであった。
 徳矢住建の徳矢誠三さんはまだ32歳と若い。パワーポイントを使って改修工事の入札から施工、竣工の全行程を説明された。専門的な話もあって全部理解できたわけではなく、あくまで私なりに理解して印象に残ったことを述べよう。
 旧居の核となった茶室が移建されたのが大正時代、建て増しされたのが戦後間もなくである。奈良市に寄贈されて無住となった期間も10年を超えていた。建物の朽ち具合はひどかったが、正確なところはわからない。しかも耐震基準などない時代の民家である。公開するとなれば、民家でありながら公共施設として現在の基準をクリアしなければならない。大半の業者が尻込みする中で、若き徳矢さんは勇敢にも困難な課題に挑戦したのであった。
 現場に面した道路は狭く、敷地は広い割には傾斜地が多く、工事スペースを確保するのに苦労した。そのため、庭のケヤキやクスノキの大木を伐採した。改修した旧居への私の第一印象が邸宅とも見える意外な豪壮さであることは前述した。改修前の旧居を覆い隠していた庭の樹木が取り払われて、建物が露わになったということもこの印象の一因のようだ。
 解体修理ではなく、建物は建ったままで補強するという方法だった。しかし、新築に等しいほどの補強が必要でしかも元の建物を生かさなければならず、その兼ね合いで手間と知恵が余計にかかっただろう。基礎は全面に鉄筋コンクリートが施され、その上に新たな土台が伏せられた。屋根は解体され腐朽した隅木、垂木は新調した。パネルや金具を用い、壁を新設して耐震構造を高めた。
 面白かったのは、改修前と改修後の同一箇所が写真で比較して見せられたことだ。元の住まいの雰囲気をできるだけ忠実に残すといっても、朽ちかけた家とリフォーム後では見違えるほど内外美しくなっている。生前の入江泰吉を偲ぶためにも、Before&Afterのアルバムはぜひ旧居に備えて見学者の閲覧に供して欲しい。また工事の過程が詳しくわかるアルバムもあればいい。できれば、PDF化してホームページにUPしてもらえばいうことはない。
 改修にかかった費用は6800万円。入江泰吉は滅び行く大和路の最後の輝きをこの上なき美しい作品に記録した。時間がたつほどに価値は増すだろう。旧居が保存され公開されたのは、入江を偲ぶまたとない手段を手にしたことだ。関係者の苦労と努力に感謝したい。庭にはもみじが多いという。客間のソファに座って四季それぞれの窓からの眺めを楽しみたいと思う。そして、あの神秘で深い森の借景がいつまでも変わらないことを祈ろう。                        (2015/08/06記)
 書斎

アトリエと書斎

077 天誅組の生き残り、北畠治房旧邸「布穀園」

 奈良県斑鳩町の法隆寺近くにある和カフェ「布穀薗」を訪ねた。北畠治房の旧居にできたカフェであると知って、わざわざ出かけたのである。北畠治房といっても知っておられ方はまずおられないだろう。私も知ったのは偶然だった。奈良県の近代史、特に明治時代の事跡を調べていると、彼がときどき出てくるのである。そのうちに彼が天誅組の反乱に参加した生き残りであることを知って関心を抱くようになった。
 北畠治房、旧名、平岡武夫または鳩平は天保4年(1833)に大和斑鳩村に生まれ、大正10年(1922)に亡くなっている。Wikipediaに簡潔な紹介がある。私が下手な要約をするより、そのまま掲載したほうが分かりやすいだろう。

 法隆寺附近の商家の次男として誕生。伴林光平に師事して国学を学び、過激な尊王攘夷思想に傾倒、天誅組の変が起こると師の伴林に随伴してこれに参加するが、天誅組は鎮圧され、師である伴林も処刑される。鳩平は追手を逃れて潜伏し、京都や大坂を転転とする。やがて旧知であった水戸藩士大庭一心斎らに誘われ天狗党に参加するも、早期に離脱。戊辰戦争では尊攘派の浪士達を糾合して有栖川宮熾仁親王の軍勢に加わる。明治維新後は司法官となり、横浜、京都、東京裁判所長、大阪控訴院長を歴任。任期中起こった小野組転籍事件の裁定に辣腕を振るい、槇村正直と舌戦を繰り広げた。明治十四年の政変で失脚し、立憲改進党に参加。東京専門学校(現在の早稲田大学)の議員も務めた。男爵に叙任され、法隆寺近郊で余生を過ごした。


 これを読んでどのように思われただろうか。天誅組、天狗党、戊辰戦争、維新政府の高官、立憲改進党、男爵、90年近い生涯をまさに劇的という言葉にふさわしい生き方をした人であろう。特に、天誅組に参加した志士たちは大方が戦死、処刑の憂き目に遭ったが、生き延びた上におそらくその功績もあずかってだろう新政府に奉職して出世を遂げ、爵位の栄誉まで浴びる。維新後に、彼は南朝の忠臣、北畠親房の末裔を自称して改名しているのも、勤王の志士として輝かしい経歴を誇るところがあったのだろう。
 だが、彼は毀誉褒貶の強い人であった。彼が伴林光平に師事して、天誅組の決起にも同伴したことは、引用した略歴にあったとおりである。伴林光平は国学者であり、歌人として有名であった。このとき光平は51歳、鳩平20歳である。光平は逃走の途次に捕縛され処刑されているが、獄中で決起の経過をつづった手記『南山踏雲録』を著した。ここに鳩平のことが出てくる。
 「平岡鳩平、勇壯辨才、能く人を面折す。但し劇烈にすぎて、人和を得ざる失なきにあらず」。
 「面折」とは、面と向かって人を叱咤することをいう。向こう意気の強い激しい気性の性格であった。明治時代の彼のかずかずのエピソードには確かにこの性格がつきまとっているようだ。
 脚気を患い疲労困憊した光平を鳩平は助けて、二人は安堵村額田部まで逃げてくる。二人の住まいがあった斑鳩の近くである。ここで鳩平は行き先の様子を探るため光平に別れて単独行動をとる。迎えにくるという鳩平の言葉を頼りにして三日待ったが音沙汰なく、しびれを切らした光平は斑鳩の鳩平の縁者をたずねて問う。鳩平は別れたその日に京都に向かって去ったという。それならばそうと知らせてくれれば自分もすぐに京へ立ったのにと、光平は恨み言を書くのである。
 勤王倒幕の志士、北畠治房の経歴を傷つける内容である。『南山踏雲録』が発行されたのは明治27年、後に奈良県知事となる土佐の志士、古澤滋が奈良県政に介入しようとする北畠治房を牽制することが目的だったとされる。
 鳩平にも言い分があっただろう。しか大正4年の『古蹟辯妄』で、彼は光平が当時精神錯乱していたと主張するに及び決定的に信用を落としてしまった。
 
 北畠治房邸は斑鳩町の所有となり結婚式場に使用されていたらしい。最近、民間の所有に移り、長屋門を利用した和カフェがオープンした。母屋は明治20年の建築で、大工は法隆寺宮大工棟梁で有名な西岡常一の祖父である西岡常吉が棟梁を務めたという。巨大な屋根は斜面途中が盛り上がった起(むく)り屋根である。向かって右に大きな唐破風をもつ玄関は貴人が出入りし、左側に通用の玄関がある。全体が黒い中で二階中央の白い漆喰の窓格子が目立つ。カフェのオーナーの住居となっているので、遠くからしか眺められないが、威厳と優美さを兼ね備えた秀逸なデザインである。
 長屋門は威風堂々とした重厚な作りで、いかにも治房好みだと思わせる。淀城から移築したと言い伝えられる。
 長屋門を入っての緩やかな坂は、階段と人力車も通れるような斜面が平行している。

 「布穀薗」とは治房の号「布穀」から名付けられた屋敷の愛称であり、有栖川宮殿下直筆の「布穀薗」と書かれた額が母屋にあるという。カフェは赤膚焼の食器や吉野産の一本杉をくりぬいた椅子などインテリアも凝る。スィーツは甘さを抑えた上品な味で申し分なかった。法隆寺がすぐそばで、また寄ってみたい斑鳩のスポットがひとつ増えた。

北畠邸母屋
北畠邸母屋

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北畠邸長屋門 向かって左のスペースにカフェがある
                            (2015/07/11記) 

076 『奈良歴史漫歩』Kindle版発行

 自著の『奈良歴史漫歩』を電子書籍にしました。「奈良歴史漫歩」は2001年から約8年間の間、メールマガジンとホームページを使って発表した史跡探訪エッセイです。舞台は奈良と周辺地域で古代史の話題が多いが、現代も扱います。読者は多いときで約700人の方に購読していただきました。そのすべてはホームページに掲載しています。そこから10編選んで和装本にしたのは6年前です。AmazonKindleは私も読書で使用していますが、今回は著者の立場で利用させてもらうことにしました。電子書籍化するに際して新たに「まえがき」を加えました。なお『奈良歴史漫歩』Kindle版の定価は300円。Kindle端末がなくても、PCやスマホにアプリを無料ダウンロードすれば読めます。Amazonプレミアム会員は端末があれば無料で読めます。


   『奈良歴史漫歩』Kindle版まえがき
 「趣味は何」と問われると、「発掘調査現地説明会へ行くこと」と答える。大概の方は怪訝な表情を浮かべる。無理もないだろう。開発ブームが国土を席巻した一時に比べれば、実施される現地説明会の数は減ったが、どの会場でも高齢者男性を中心に多数の人々が遠近から集まる。私の二十年間の経験からでも参加者は確実に増えている印象がある。しかし、いくら増えたと言っても世間からすれば少数派であることは間違いないだろう。
 現地説明会が病みつきになるほど面白いのは何故なのか考えてみた。まずは発見があること。その意義の大小は異なっていても、新しい情報を得る瞬間に立ち会うことのスリリングな喜びがある。
 現地説明会では、考古学、または古い建物の解体修理では建築学の専門家の説明を受ける。目前にあるのは、地中の凸凹やなかば腐った木材、石、土器や金属器の破片、瓦などだ。これらは史料であり、専門家の判定・解釈・推理によって歴史的な意味を持つ情報へ変換される。単なるモノから歴史的情報が引き出されるプロセスの目撃者となるばかりでなく、見学者の知識次第でそのプロセスに参加も可能なのだ。
 現地説明会は一回限りの生の体験である。調査が終われば、埋め戻されるか開発のため破壊されるかだ。まれには現地保存されて見学に供せられることもあるが、エンバーミングのような不自然さは否めない。長大な時間を経てきて今この瞬間も変容するモノの様相が日の目を見る。奇跡としか言いようのない出来事が起こっているのだ。すべては滅び無に帰していく。何百年、何千年前の人間の営みの欠片を瞬きほどに可視化して、ふたたび滅びの過程に戻してやることで、この真理に触れる。
 現地説明会は、歴史を体験する最良の機会である。ここで羽ばたいた想像力は私の史跡めぐりの導きとなる。きらびやかに復興された寺院にあっても廃墟の礎石を求めることが、私の歴史漫歩なのである。
                     二〇一五年六月二〇日   橋川紀夫

   目次
夢いまだ幻の高安城
石で固めた天下の山城、大和高取城
平城宮東朝集殿を移築した唐招提寺講堂
春日山の水神信仰
春日若宮おん祭の歴史  
若草山山焼きの起源  
都祁の氷室  
春日烽と飛火野伝説  
三輪山祭祀の謎
薬師寺の心礎


奈良歴史漫歩

075 黄檗宗海龍山王龍寺

 奈良市にある海龍山王龍寺は、元禄2年(1689)に大和郡山藩主の本多下野守忠平が、黄檗宗開祖隠元禅師の孫弟子、梅谷和尚を招いて菩提寺として開山、再興した古刹である。山門や本堂には禅寺らしいたたずまいがあって、奈良の古代寺院を見慣れた目には、ちょっとしたエキゾチシズムを覚える。

 「不許酒葷入山門」の大きな石碑が門の前に立つ。山門には、「門開八字森々松檜壮禅林」の書があり、「門は八の字に開き、森々として松檜禅林に壮んなり」と読むらしい。門を一歩入ると、まさにこの書の世界が広がっていた。鬱蒼と茂る樹林で空も覆われている。ひと一人が歩ける坂道が細い谷川の流れに沿って続く。石畳みを残して、苔が道を埋め尽くしていた。鋭い鳥の声が近くで響いてぎょっとした。途中に滝の行場があり、東屋が建つ。ここからは急な階段となっている。
 階段を登りきると唐風の本堂に向き合う。山を開いた狭小な平坦地で、建物はそれだけである。この寺は、南北朝期に彫られた磨崖仏で有名だ。高さ2.1mの十一面観音立像で、「建武三年(1336)の銘を持つ。寺の縁起によれば、南朝方の勢力と深いつながりがあったようで、珍しい南朝の年号がそれを伝えている。表戸を覗くと、奥の帳をあげたなかに蝋燭が揺らめいて、観音様が浮かび上がる。ガイドには「優雅な美しさは、大和の石仏のなかでも随一」とあるが、視力の弱い私には遠すぎてはっきりとは見えなかった。視力1.5を誇る連れが、記憶をもとにスケッチしてくれたので、それを載せる。
 裏門の脇には、樹齢300年というヤマモモが茂る。樹幹の基部5m、目通り2.7m、高さ11m。空洞になった樹幹から八方に新たな幹が伸びて堂々とした風格がある。
 再び、坂を下り参道をもどる。途中誰にも会わなかった。森厳な別世界、俗界に対する聖なる清浄界、そんな言葉が頭にちらついた。誰にも教えたくない場所である。なぜ都市近郊にこんな環境がまだ残っているのだろうと考えていて、気づいた。お寺のまわりがゴルフ場で囲まれているのである。奈良市西郊のなだらかな丘陵は、住宅地としてほぼ開発しつくされている。そのなかにゴルフ場がまとまった緑地帯としてかろうじて残る。王龍寺はゴルフ場が緩衝帯となり、境内の森厳な雰囲気が保たれているのだ。
 ゴルフをしない私は、ゴルフ場には批判的であっても擁護する気持ちはまったくなかったが、はじめてゴルフ場が結果的に果たしているプラスの機能に思い至った。そこまで時代は世知辛く索漠としたものになったということであろうか。
●参考 『奈良県の歴史散歩 上 奈良北部』2008年 山川出版社 

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(目撃者談)
 右手のひらを見せ伸ばしており、左手は胸の辺に甲を見せ添えるように曲げている。右腕は体のわりに長く感じた。下腹部に衣装のドレープ、胸には首飾りか衣装かわからないドレープがあり、額中央に丸い飾りのようなものがある。浅く彫られており、輪郭はぼやけているが、影で形が浮き上がっている。目は閉じているか半眼、優しく微笑んでいるようです。
                              (2015/05/09記)