104 万葉挽歌の大和――堀辰雄著『大和路・信濃路』

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 堀辰雄が月刊誌『婦人公論』に「大和路・信濃路」を連載したのは1943(昭和18)年であった。戦後、新潮文庫と角川文庫に『大和路・信濃路』のタイトルで他の文章も加えて刊行された。両者は編集が異なり収載された文章や配置に異同がある。大和路を直接題材にした文章は「十月」、「古墳」、「浄瑠璃寺の春」、「『死者の書』」であり、両文庫に収められた。文庫には入っていないが、「黒髪山」も大和を題材にしているため、都合これらの5編をもって堀辰雄の『大和路』として取り上げ感想を述べたい。なお現在『大和路・信濃路』は新潮文庫で入手できる。

    6回の大和旅行

 堀辰雄は1904(明治37)年に東京に生まれた。東京帝大文学部国文科卒。旧制第一高等学校の在学中から室生犀星芥川龍之介の知遇を得て文学を志す。『聖家族』、『美しい村』、『風立ちぬ』、『菜穂子』等、フランス文学の影響が濃い作品がある一方、日本の王朝文学に題材をとった『かげろふの日記』、『曠(あら)野』等がある。病身を養うため軽井沢に住まいし信濃の風土が作品ににじみでる。1953(昭和28)年死去、享年49歳。堀辰雄全集10巻(角川書店)がある。

 堀がはじめて奈良を訪ねたのは1937(昭和12)年で、このときは京都旅行も兼ねていた。2度目は、2年後に友人の作家、神西清と一緒に旅行している。このときの体験が「黒髪山」を生んだ。次は1941(昭和41)年10月、月刊誌『改造』の求めに応じ、古代小説を書く目的で一人奈良を見て回り、半月ばかり奈良ホテルに宿泊した。この間、多恵子夫人宛てにつづった手紙をもとに「十月」が著された。同年、12月には3日ばかり滞在し、山辺の道、巻向、山城恭仁京、橿原、明日香をめぐっている。J兄こと神西清に書簡を認める形で2年前の旅行を思いだしながら今回の体験を記したのが「古墳」である。1943(昭和18)年の春に多恵子夫人とともに浄瑠璃寺を訪ねた記録が「浄瑠璃寺の春」になる。同年初夏の桜井聖林寺を単独で訪ねたのが最後の大和行となった。「『死者の書』」は折口信夫の同名の書を会話体で論じたもので、一連の大和路シリーズの最後に書かれた。

    阿修羅像の眼ざし

 『大和路』は、『古寺巡礼』と『大和古寺風物詩』の二書と比べ内容と文章においてかなり異なる。まず仏像や寺院があまり取り上げられないし、登場しても他書と視点が異なる。著者は奈良の各地を訪ねてまわるが、寺と同じように沿道や村落の風景を愛おしみつつ心を遊ばせる。万葉集の挽歌の舞台である山や飛鳥にも足を伸ばしたり、古墳の石室をのぞいたりして、古代人の心を追体験する。行く先々の馬酔木の花を見比べる。奈良の風土そのものを身体で味わっているような紀行である。文章は、他の二書が思弁的な性格を持つのにたいし、本書は直接の経験から離れず具体的な描写を重ねていく小説家らしい文章である。

 著者が取り上げた仏像は、興福寺阿修羅像、秋篠寺の伎芸天女像、三月堂月光菩薩像、戒壇広目天像、法隆寺百済観音像などであり、いずれも仏像に人間性を見いだして親しみを覚えるというもので、他の二書が仏像に超越的な神性を見るのとは方向性が逆である。たとえば阿修羅像については次のように語られる。

 「ちょうど若い樹木が枝を拡げるような自然さで、六本の腕を一ぱいに拡げながら、何処か遥かなところを、何かをこらえているような表情で、一心になって見入っている阿修羅王の前に立ち止まっていた。なんというういういしい、しかも切ない目ざしだろう。こういう目ざしをして、何を見つめよとわれわれに示しているのだろう。
 それが何かわれわれ人間の奥ぶかくにあるもので、その一心な目ざしに自分を集中させていると、自分のうちにおのずから故しれぬ郷愁のようなものが生れてくる、――何かそういったノスタルジックなものさえ身におぼえ出しながら、僕はだんだん切ない気もちになって、やっとのことで、その彫像をうしろにした。」(新潮文庫『大和路・信濃路』101頁)

 堀が仏像について一番熱心に語ったのはこの部分である。おそらくこの感想はおおかたの同意を得ると思う。阿修羅像を人間性のレベルから共感する先駆けではないだろうか。

    三者三様の唐招提寺

 唐招提寺金堂は、『古寺巡礼』『大和古寺風物詩』『大和路』の三者三様、詳細に述べられてそれぞれの特徴が出る。和辻は金堂の屋根や柱、軒の組物などのバランスを詳しく論じてその美しさの理由を明かそうとする。ギリシャ、ローマ、ゴシック建築との比較、周囲の松林との調和まで挙げる。亀井は、金堂、講堂、舎利殿、鼓楼の伽藍配置の美しさに言及する。さらに金堂の柱について想像をめぐらす。旅人がもたれて休息し、男女が隠れて逢い引きし、子供たちがかくれんぼするにふさわしい円柱に人間くさい親しみを覚える。堀もまた彼らしい方法で金堂にかかわる。

 夕暮れの迫る金堂に来た堀は、吹き放しの円柱のかげを歩きまわる。扉にあるかなきかの仄かさで浮かび出る花紋に気づく。そして、「円柱の一つに近づいて手で撫でながら、その太い柱の真んなかのエンタシスの工合を自分の手のうちにしみじみと味わおうとした。僕はそのときふとその手を休めて、じっと一つところにそれを押しつけた。僕は異様に心が躍った。そうやってみていると、夕冷えのなかに、その柱だけがまだ温かい。ほんのりと温かい。その太い柱の深部に滲み込こんだ日の光の温かみがまだ消えやらずに残っているらしい。
 僕はそれから顔をその柱にすれすれにして、それを嗅かいでみた。日なたの匂いまでもそこには幽かすかに残っていた。……」(同110頁)

 堀は、金堂の扉に発見したかすかな古代の花文と夕暮れの柱に残った日の温み・匂いをもって唐招提寺について書き表した。なんとも印象深い場面である。

    万葉挽歌への関心

 堀はそもそもなぜ奈良・大和に関心を抱いたのだろう。彼は折口信夫の講義を聴講しており、折口の『古代研究』の愛読者である。『死者の書』に感激して二上山を訪ねている。彼の関心は古代人の他界観にあった。万葉集の挽歌に強く惹かれることを述べる。それは、「一切のよき文学の底にはレクエイム的な要素がある」と信じた彼の文学観からきている。万葉挽歌への関心が堀を大和へと導いたのである。

 昭和14年に奈良を旅行したとき、はじめは古寺をめぐったが、万葉集とは結びつかなかった。そこで古寺めぐりをやめ、「ただぼんやりとそこいらの村を歩いて暮らすことにした」。

 「私は卷向山や二上山などの草深い麓をひとりでぶらぶらしながら、信州の山々を見馴れてゐる自分のやうな者にも、それ等の山そのものとしては何らの變哲もなく見える小さな山々に對して一種異樣な愛情の湧いてくるのを感じ出してゐた。いまから千年以上も前、それらの山々に愛する者を葬つた萬葉の人々が、そのとき以來それまで只ぼんやりと見過ごしてゐたその山々を急に毎日のやうに見ては歎き悲しみ、その悲歎の裡からいかにその山が他の山と異り、限りないそれ自身の美しさをもつてゐることを見出して行つたであらう事などを考へてゐると、現在の自分までが何かさういふ彼等の死者を守つてゐる悲しみを分かちながらいつかそれらの山々を眺め出してゐるのだつた。さういふこちらの氣のせゐか、大和の山々は、どんなに小さい山々にも、その奧深いところに何か哀歌的なものを潛めてゐる。」(「黒髪山」)

 「人麻呂歌集」に黒髪山という地名があることから、著者は奈良坂から黒髪山を抜けて歌姫へ出ることを試みる。しかし山へ入ると小道が多くて迷ってしまう。5月の若葉が茂る明るい山中をさ迷いながら、自分が山に葬られた万葉の死者のように感じられてくる。それは心細さと同時になにか楽しい体験であった。

 大和の地に万葉人の心情を追体験するのは、「古墳」のなかでもみられる。人麻呂が挽歌をおくった妻は「軽の村」に住まっていた。著者は飛鳥に近い軽を訪ねて、現地の風景に人麻呂とその妻が往来していた情景を浮かべる。

 「今もまだその軽の村らしいものが残っております。その名を留めている現在の村は、藪の多い、見るかげもなく小さな古びた部落になり果てていますが、それだけに一種のいい味があって、そこへいま往ってみても決して裏切られるようなことはありません。
 低い山がいくつも村の背後にあります。そういう低い山が急に村の近くで途切れてから、それがもう一ぺんあちこちで小丘になったり、森になったり、藪になったりしているような工合の村です。そういう村の地形を考えに入れながら、もう一ぺんさっきの歌を味わってみると、一層そのニュアンスが分かって来るような気がします。」(『大和路・信濃路』141頁)

    書かれなかった古代小説

 「十月」のなかで、著者は斑鳩の里を歩きながら古代小説を構想する。「日本に仏教が渡来してきて、その新しい宗教に次第に追いやられながら、遠い田舎のほうへと流浪の旅をつづけ出す、古代の小さな神々の佗しいうしろ姿を一つの物語にして描いてみたい。それらの流謫の神々にいたく同情し、彼等をなつかしみながらも、新しい信仰に目ざめてゆく若い貴族をひとり見つけてきて、それをその小説の主人公にするのだ。」(同128頁)。「古代の小さな神々」「流謫の神々」とは、万葉集に現れた信仰であろう。堀は大和の山野を彷徨しつつその雰囲気に染まりながら、小説のインスピレーションをつかもうとした。しかその小説は書かれなかった。1944年から堀は病床に伏すことが多くなった。戦後はほとんど執筆活動ができなかった。

 信濃は堀のふるさとであった。そして大和が第二のふるさとになることを望んだ。「いつの日にか大和を大和ともおもわずに、ただ何んとなくいい小さな古国にだとおもう位の云い知れぬなつかしさで一ぱいになりながら、歩けるようになりたい」(同163頁)と願ったのであるが、それも叶わなかった。

 本書の旅行が行われ執筆されたのは、ほぼ太平洋戦争の最中である。しかし戦争の影はみじんもなく、そのことに驚く。著者の強靱な精神を見るような気がする。

 主要参考文献
堀辰雄『大和路・信濃路』新潮文庫
堀辰雄『大和路・信濃路』角川文庫
堀辰雄黒髪山青空文庫

103 大和を舞台にした求道の書――亀井勝一郎著『大和古寺風物詩』

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 私がはじめて新潮文庫版『大和古寺風物詩』を読んだのはかれこれ半世紀ほど前である。著者は1966年に亡くなっていたが、有名であったし、この本が人気のあることはなんとなく知っていた。タイトルが牧歌的であるのにもひかれた。しかし甘美な詩情あふれる大和の歳時記風エッセイという予想に反して、内容は高校生の私の理解力を超えていた。だが、それにもかかわらずこの本への関心は消えず、私の中で『大和古寺風物詩』=大和路のイメージがいつのまにか生まれていた。何が私をひきつけたのか。いま考えると、本書の強い文学性であったのだと思う。美術史家の町田甲一は、『古寺巡礼』と『大和古寺風物詩』の仏像鑑賞が「主観的文学的哲学的」であり、仏像の客観的な理解ではないと批判したが、それは『大和古寺風物詩』についてより言えることであろう。でもそこが逆に私を惹きつけていた所以なのである。

    古典の地で図られた再生

 亀井勝一郎は1907年、北海道函館に生れた。東大美学科在学中「新人会」に加わり大学を中退。1928(昭和3)年、治安維持法違反の疑いで検挙される。保釈後日本プロレタリア作家同盟に所属するが転向して、1935年同人誌「日本浪曼派」を創刊。文芸評論家の道に進む。戦後は宗教的立場から文明批評を試みる。『日本人の精神史研究』で菊池寛賞受賞。1966年死去。『亀井勝一郎全集』全21巻補巻3がある。

 亀井と大和との出会いは1937年(昭和12)、30歳の時であった。20代初期のマルクス主義革命運動への参画と挫折・転向を体験し、文芸評論の道にスタートを切ったばかりである。思想的な模索と人生への探求が彼の中で渦巻いていた時期であった。大和の古寺巡りを始めた動機を彼は次のように書く。 

 「はじめて古寺を巡ろうとしていた頃の自分には、かなり明らかな目的があった。すなわち日本的教養を身につけたいという願いがあった。長いあいだ芸術上の日本を蔑ろにしていたことへの懺悔に似た気持もあって、改めて美術史をよみ、希臘(ギリシャ)・羅馬(ローマ)からルネッサンスへかけての西洋美術とどう違うかということや、仏像の様式の変化とか、そういうことに心を労していたのである。仏像は何よりもまず美術品であった。そして必ず希臘彫刻と対比され、対比することによって己の教養の量的増加をもくろんでいたのである。私においては、日本への回帰――転身のプログラムの一つに「教養」の蓄積ということが加えられていた。己の再生は、未知の、そして今まで顧みることのなかった古典の地で行われねばならなかった。古美術に関する教養は自分を救ってくれるであろうと。」(新潮文庫『大和古寺風物誌』71頁) 

 昭和12年は日中戦争が始まった年であり、国内での「愛国心」の高まりがあり、国粋主義的な思想で社会が染められていく時代だった。亀井の「日本回帰」もその風潮に棹さす一面のあったことは否定できない。だが時代の影響のみに限定することはできない。亀井は北海道に生まれ高校は山形で過ごした。日本の古典文化から離れた北国、東国の風土で育ち、当時の知的青年らしく西欧の思潮を吸収して精神を形成した。思想において人生において紆余曲折した彼の前に新たな世界として日本の古典が現れた。そういう意味では内的な必然性に促されての「古典の地」大和への旅であり、ここでの「己の再生」が希求されたのである。

 大和へ旅するまでは彼にとって仏像は親近感を覚えるものではなかった。西欧の教養で自己形成していた彼は、当然ながら西欧の古典美術に心ひかれていた。大和に向かった当時の知的青年たちのバイブルは『古寺巡礼』であったが、彼らは多かれ少なかれ西欧の学問を仕込んだ和辻と知的環境を共有し、亀井もまた変わりなかった。『大和古寺風物詩』に登場する寺院や仏像は、『古寺巡礼』と共通するところが多い。ギリシャ古典を起点とする美意識がともに深く内面化されているからである。

    仏像は仏である

 美術鑑賞の対象であったはずの仏像は、だが、亀井の前に異なる姿を現す。法隆寺百済観音の前に彼は立った。 

 「仄暗い堂内に、その白味がかった体躯が焔のように真直ぐ立っているのをみた刹那、観察よりもまず合掌したい気持になる。大地から燃えあがった永遠の焔のようであった。人間像というよりも人間塔――いのちの火の生動している塔であった。胸にも胴体にも四肢にも写実的なふくらみというものはない。筋肉もむろんない。しかしそれらのすべてを通った彼岸の、イデアリスティクな体躯、人間の最も美しい夢と云っていいか。殊に胴体から胸・顔面にかけて剥脱した白色が、光背の尖端に残った朱のくすんだ色と融けあっている状態は無比であった。全体としてやはり焔とよぶのが一番ふさわしいようだ。」(同58頁) 

 それは、「仏像は、私にとってもはや美術品でなく、礼拝の対象となった」瞬間であった。このとき亀井に宗教的な回心が起きたのである。我々としては「何故」と問いたいところであるが、おそらく「宿命」としか言いようがないだろう。起きるべくして起きたのである。かくして「仏像は拝みに行くものだ」という信念が本書を貫くテーマとなり、この書の独自性となる。『古寺巡礼』などに導かれて仏像の美術的鑑賞が当然となった時代に、この宣言は顔をはたかれたような訴求力を持つ。「仏像は信仰の対象であった」ことを改めて気づかせてくれる。読者のなかには共感を覚える方もいるだろう。しかし現代人は昔の善男善女のように仏の前に素朴にひざまずけるだろうか。ここに、ひときわ鋭い感性と高い教養をそなえた現代人がいかに宗教に目覚めて思索を深めていくかという求道の物語が生まれる。

    美を入り口にした信仰

 著者がとくに心を揺さぶられた仏像は、法隆寺百済観音、中宮寺半跏思惟観音、法輪寺虚空蔵菩薩薬師寺薬師三尊、東大寺三月堂不空羂索観音である。それぞれは「大地から燃えあがった永遠の焔(百済観音)」、「生存を歓喜しつつ大地をかけ廻った古代の娘(思惟観音)」、「光の循環のメロディがそのまま仏体の曲線でありまた仏心の動きをも示している(薬師三尊)」、「一切を黙ってひきつれてなおゆるぎなく合掌する威容は、天平のあらゆる苦悩と錯乱の地獄から立ちあらわれた姿(不空羂索観音)」などと形容される。情熱的で想像力を喚起する巧みなレトリックは、これらの仏像を強く印象づける。著者の仏に没入する様子には並々ならぬものがあり、信仰の告白のようにも思える。

 だが一方で本書は、美を入り口にした「仏像鑑賞」の書という性格ももつ。和辻哲郎は感覚と信仰を対立的にとらえたが、亀井はふたつを両立させる。「美を無視して信心のみから仏を仰ぐことは出来かねるのだ。美しくなければ私はその信仰を疑う」(170頁)。だから本書の奔放で想像力に富んだ「美術的鑑賞」は、『古寺巡礼』と好一対をなして読者に受けいれられてきた。

    歴史への関心

 著者は、仏像の様式や大陸からの伝来、異文化との交雑に触れることはほとんどない。関心が寄せられるのは、造仏された歴史的背景である。飛鳥時代から白鳳期、奈良時代にかけて『日本書紀』や『続日本紀』に記録された古代史に注目する。支配層の同族相食む凄惨な戦いはやまず、疫病、災害、飢饉に民は苦しむ。このような状況に心を痛め仏の祈りに救いを求めたのが、聖徳太子天武天皇持統天皇聖武天皇光明皇后だとする。飛鳥、白鳳、天平の仏像には、この貴人たちの祈りと願いが結実しているという。とくに聖徳太子と上宮王家の自己犠牲に菩薩行の実践を見て、太子に帰依せんとする心情がつづられる。古代史の叙述にはかなりの分量があてられた。これは大和の仏像鑑賞として歴史の知識が重要であることを教える啓蒙的な役割を果たしたことだろう。

    大和の風景への愛着

 亀井は昭和12年の秋にはじめて奈良を訪れ、それから毎年のように春秋の旅行を繰り返し、この間につづった紀行を単行本にまとめ17年に出版した。さらに敗戦後すぐに書いた文章を加えて昭和28年に新潮文庫の『大和古寺風物詩』を刊行した。数年にわたって何度も奈良を訪問したことで奈良の風土になじみ、いろいろ考えることも多かった。

 この頃の奈良の寺は多くがまだ廃仏毀釈の打撃から立ち直れず、千年の有為転変の痕を刻むかのような荒廃の雰囲気を漂わせていた。亀井はしかし荒廃と衰亡に心ひかれた。そこに歴史の生命を感じた。これに対し法隆寺が名声の故に「もったいぶって」復興する姿に嫌悪感を示し、その観光寺院化を懸念した。

 亀井は奈良の風景にやすらぎ癒やされた。とくに斑鳩の里と西ノ京への賛美を惜しまない。 

 「中宮寺界隈かいわいの小さな村落を過ぎて北へ二丁ほど歩いて行くと、広々とした田野がひらけはじめる。法隆寺の北裏に連なる丘陵を背にして、遥に三笠山の麓にいたる、古の平城京をもふくめた大和平原の一端が展望される。大和国原という言葉のもつ豊かな感じは、この辺りまで来てはじめて実感されるように思う。往時の状景はうかがうべくもないが、田野に働く農夫の姿は、古の奈良の時代とさして変ってもいないだろう。春は処々に菜の花が咲き乱れて、それが霞んだ三笠連山の麓までつづいているのが望見される。畔道に咲く紫色の菫、淡紅色の蓮華草なども美しい。おそらく飛鳥や天平の人たちも、この道を逍遥したことであろう。陽炎のたち昇る春の日に、雲雀の囀りをききつつ、私のいつも思い出すのは、「春の野に菫摘まむと来し吾ぞ野をなつかしみ一夜宿にける」という万葉の歌である。この歌の気分がここで一番しっくりあうように思う。
 しかし大和国原の豊かさを偲ぶという点では秋の方が更にふさわしい。今年はとくに豊作の故でもあったろうが、眼のとどくかぎり一面に実った稲の波である。透明な秋空の下に、寸分の隙もなく充実していて、黄金の脂肪のような濃厚な光りを放っていた。稲穂が畔道に深々と垂れさがって、それが私の足もとにふれる爽やかな音をききながら幾たびもこの辺りを徘徊した。豊作というものがこんなに見事なものとは知らなかったのである。心からの悦びが湧きあがってくる。」(同118頁) 

 「奈良近郊でも私のとくに好ましく感じたところは薬師寺附近の春であった。西の京から薬師寺唐招提寺へ行く途中の春景色にはじめて接したとき、これがほんとうの由緒正しい春というものなのかと思った。このような松の大樹や、木々の若葉や麦畑はどこにでもみられるかもしれない。しかしその一木一草には、古の奈良の都の余香がしみわたっている。人間が長きにわたって思いをこめた風景には香があるのだろう。塔と伽藍からたち昇る千二百年の幽気が、この辺りのすべてに漂っているように思えた。‥‥
 土塀といえば、私は大和をめぐってはじめてその美しさを知った。‥‥大和古寺の土塀や奈良近郊の民家の築地は、そう鮮かなものではなく、赤土のまじった、古びた地味な感じのするのが多い。よくみると繊細な技巧の跡がうかがわれる。そして崩れたままにしてあるところに、古都の余香が、或は古都のたしなみとも云うべきものが感ぜられる。」(同136頁)

 昭和初期の斑鳩と西ノ京の風景である。もはや二度と見られない風景が言葉により鮮やかに描かれ残されたことに感謝したくなる。写真家の入江泰吉は『大和古寺風物詩』を携帯して大和を巡り歩いたそうだ。この風景描写は確かに入江の写真に通じている。入江の作品の原点はここにあるかもしれない。

   主要参考文献
亀井勝一郎『大和古寺風物詩』新潮文庫
亀井勝一郎『我が精神の遍歴』日本図書センター
武田友寿『遍歴の求道者亀井勝一郎講談社
町田甲一『大和古寺巡歴』講談社学術文庫
碧海寿広『仏像と日本人』中公新書

102 仏像鑑賞の近代的幕開け――和辻哲郎著『古寺巡礼』

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 和辻哲郎の『古寺巡礼』が刊行されたのは、1919(大正8)年であった。刊行100年を迎える書物は仏像鑑賞の古典として今も書店に並ぶ。

 著者の和辻哲郎(1889~1960)は兵庫県生まれ、倫理学者、夏目漱石門下で東洋大・京大・東大教授を務めた。人間存在を間柄存在としてとらえる道徳論の展開に特色がある。風土論をはじめ文化史にも業績が多い。著作には『日本精神史研究』、『人間の学としての倫理学』、『風土―人間学的考察』、『倫理学』、『鎖国 日本の悲劇』などがあり、『和辻哲郎全集』増補版(全25巻 別巻2)が出る。文化勲章を受章している。

 『古寺巡礼』は著者30歳の著作である。1918年5月に和辻は奈良旅行を行った。その紀行文を雑誌に数回にわたって連載、それを中心に、他の雑誌にも発表した文章を加えて翌年に出版された。

 和辻は東京帝大文学部哲学科で学び、ニーチェキルケゴールの研究書を20歳代で世に出している。奈良の仏像との出会いは前年、東京帝大美術史教室の見学旅行に同伴したのが最初であり、そのとき強い感動があった。ふたたび友人等とともに訪れ、奈良ホテルを拠点に新薬師寺、奈良帝室博物館、浄瑠璃寺興福寺東大寺法華寺唐招提寺薬師寺當麻寺法隆寺中宮寺を5日間でめぐっている。人力車も利用する忙しい旅行であり、博物館や各寺院の見学では特別な待遇を受けたとはいえ、それぞれの寺院の滞在や仏像との対面は短時間の一度きりである。そんな条件で古典となるような本が書かれたことに驚く。

 本書は仏像を美術品として鑑賞するすべを定着させたと評価されている。それに間違いはないが、美術品としての仏像という見方は著者の独創ではない。時代背景として仏像や寺院が明治維新以後どのような扱いを受けてきたか見ておきたい。

    廃仏毀釈から古社寺保存法へ

 1868年の神仏分離令廃仏毀釈の動きに発展し、仏像・仏具の破壊や売却による散逸が進行した。このような現状に危機感をだいた政府は1888(明治20)年から全国の社寺を対象とする宝物調査を実施した。約10年をかけて21万点の宝物が調査された。この調査で主導的な役割を果たしたのが、フェノロサ岡倉天心である。法隆寺東院夢殿の秘仏・救世観音が彼らによって数百年のヴェールを解かれたことは有名である。

 調査の成果をもとに「古社寺保存会」が設置され、1897(明治29)年に現在の文化財保存法につながる「古社寺保存法」が公布された。そして「歴史」的にまたは「美術」的に貴重な遺物は「国宝」に指定され、文化財として保護・保存の途が図られた。

 「歴史」も「美術」も明治になって生まれた言葉であり、西欧由来の概念はしだいに社会に普及していく。岡倉天心は1890年に『日本美術史』を著し、古美術を時代別に位置づけ特徴を考察した。これ以降、学問としての古美術研究がスタートを切る。東京、京都、奈良に創設された博物館は宮内庁管轄の帝室博物館となり、多くの仏像を展示し見学者の便を図った。こうして明治の後半には仏像を美術品として鑑賞する習慣はすでに生まれていた。

    古美術鑑賞の国際的視点

 和辻はもちろん西欧から輸入された学問としての美学や美術史に通じていた。そして彼自身、ギリシャ古典を正統とする美意識になじんでいた。本書は仏像ばかりではなく仏画や建築、伎楽面、さらに風呂まで取り上げられるが、その感覚的な印象とともに東西異文化の交流・影響の視点からの考察がつねにともなう。ギリシャ、中東、インド、西域(中央アジア)、中国、朝鮮という文化の伝播ルートのなかにおいて古美術に照明が与えられる。なかでも強調されるのは、ギリシャ古典文化→ガンダーラ美術→中国→日本という流れである。このような論点は、古美術を入り口に当時の読者の視野を世界的なスケールに広げる非常に斬新なものだったと想像できる。本書は戦時中一時絶版になっている。出征する兵士からもう一度本を手にして大和をめぐりたいという要望が多くきたものの再刊できなかったのは、本書のコスモポリタン的な叙述が、当時の国粋主義に染まったムードの中で「危険思想」視されたからであろう。

    聖林寺十一面観音立像

 ギリシャ彫刻の写実性を取り入れてガンダーラで仏像が誕生した。中国に入り仏像として洗練され、日本の風土の中で独自な展開を遂げたというのが、和辻の基本的な見立てである。彼が絶賛した仏像の一つである聖林寺十一面観音立像は次のように語られる。

 かくてわが十一面観音は、幾多の経典や幾多の仏像によって培われて来た、永い、深い、そうしてまた自由な、構想力の活動の結晶なのである。そこにはインドの限りなくほしいままな神話の痕跡も認められる。……またそこには抽象的な空想のなかへ写実の美を注ぎ込んだガンダーラ人の心も認められる。……また沙海のほとりに住んで雪山の彼方に地上の楽園を望んだ中央アジアの民の、烈しい憧憬の心も認められる。……さらにまた、極東における文化の絶頂、諸文化融合の鎔炉、あらゆるものを豊満のうちに生かし切ろうとした大唐の気分は、全身を濃い雰囲気のごとくに包んでいる。……人の心を奥底から掘り返し、人の体を中核にまで突き入り、そこにつかまれた人間の存在の神秘を、一挙にして一つの形像に結晶せしめようとしたのである。  このような偉大な芸術の作家が日本人であったかどうかは記録されてはいない。しかし唐の融合文化のうちに生まれた人も、養われた人も、黄海を越えてわが風光明媚な内海にはいって来た時に、何らか心情の変移するのを感じないであろうか。……われわれは聖林寺十一面観音の前に立つとき、この像がわれわれの国土にあって幻視せられたものであることを直接に感ずる。……  きれの長い、半ば閉じた眼、厚ぼったい瞼、ふくよかな唇、鋭くない鼻、――すべてわれわれが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、また超人を現わす特殊な相好があるわけでもない。しかもそこには神々しい威厳と、人間のものならぬ美しさとが現わされている。薄く開かれた瞼の間からのぞくのは、人の心と運命とを見とおす観自在の眼である。豊かに結ばれた唇には、刀刃の堅きを段々に壊(やぶ)り、風濤洪水の暴力を和やかに鎮むる無限の力強さがある。円く肉づいた頬は、肉感性の幸福を暗示するどころか、人間の淫欲を抑滅し尽くそうとするほどに気高い。これらの相好が黒漆の地に浮かんだほのかな金色に輝いているところを見ると、われわれは否応なしに感じさせられる、確かにこれは観音の顔であって、人の顔ではない。(岩波文庫『古寺巡礼』61頁)

 こういう描写が5頁にわたって続く。本書の魅力は感覚的な印象を表現する流麗な文章にあることは確かだろう。該博な知識と自在な想像力が注ぎこまれる。美術作品を見たり音楽を聴いたりしてそれを美しいと感じたり快くなる体験は珍しくないが、それがどう美しいのか、どう快いのか言葉で表現することは難しい。だからその感覚や感情が言葉で巧みに表現されたとき、われわれは自分の思いがピタリと言い当てられたような気がして、感動をさらに深める。本書が多くの熱心なファンを得たのもそのためである。

 取り上げられる仏像は数多く、現代のわれわれにもなじみのあるものばかりである。ガイドや解説書で見たり読んだりする定番の仏像なのであるが(もちろん現在有名な仏像で本書に上がっていないものも多い。たとえば阿修羅像、伎芸天など)、100年前、大和古美術の啓蒙書の嚆矢となりバイブルとなった本書に紹介されることで、はじめて一般に知られるようになったのだろう。もちろん『古寺巡礼』がなくてもこれらの仏像は高い評価を与えられていたことに間違いはないが、紹介されたことで認知度が格段に上がったのである。なじみがあると感じるのも当然なのである。

    古美術鑑賞と人格主義

 和辻がもっとも惹かれた仏像は聖林寺十一面観音をはじめ薬師寺東院堂聖観音立像、薬師寺金堂薬師如来座像、法隆寺金堂壁画中尊阿弥陀像・脇侍像、中宮寺半跏菩薩像である。徹底した写実、端正な形態、健康で理想的な美はギリシャ古典の美意識になじんだ彼の好みであるが、同時代の読者に素直に受けいれられた。

 「人体を神的な清浄と美とに高める」十一面観音像、「彼岸の願望を反映する超絶的なある者が人の姿を借りて現れた」聖観音像、「人間そのものを写して神を示現した」薬師如来像、「永遠なる命を暗示する意味深い形」の法隆寺金堂壁画、「一つの生きた貴い力強い慈愛そのものの姿」である半跏菩薩像、と言葉を尽くした最大級の賞賛は美術品の鑑賞というよりも美的感動を通して法悦に浸っている印象がある。和辻は本書で次のようにあらかじめことわっている。

  われわれが巡礼しようとするのは「美術」に対してであって、衆生救済の御仏(みほとけ)に対してではないのである。たといわれわれがある仏像の前で、心から頭を下げたい心持ちになったり、慈悲の光に打たれてしみじみと涙ぐんだりしたとしても、それは恐らく仏教の精神を生かした美術の力にまいったのであって、宗教的に仏に帰依したというものではなかろう。宗教的になり切れるほどわれわれは感覚をのり超えてはいない。(同37頁)

 和辻は自らの思想的立場を人格主義に置いていた。教養や芸術的な感動を積んでいくことで自らの人格を陶冶し高めていくという考えである。偉大な作品に感動することはそこに自分の理想を見ることである。信仰に飛びこむことはできなくても、宗教に触れることは人格の陶冶に欠かせない。彼が仏像の美術鑑賞をどうどうと宣言できたのも人格主義が根底にあったからだろう。大正教養主義あるいは大正人文主義とも呼ばれる思潮と人格主義は一体になって、当時の旧制高等学校生や大学生に浸透した。本書の読者も主にこの層であった。伝統的な信仰から切り離された近代人にとって、人格主義的な思想は仏像再発見、宗教再発見を動機づけるものとなって今も生きている。

    建築も鑑賞

 建築や伽藍境内も美的鑑賞の対象になったことは、「古寺巡礼」としての本書の価値を高めただろう。新薬師寺本堂、薬師寺東塔、唐招提寺金堂、東大寺三月堂、法隆寺西院伽藍の建物の印象が詳述される。法隆寺五重塔はいろいろな場所から眺められ、また仰ぎながら近づいたり遠ざかったりその周囲をめぐったりして塔の各部の変化自在の動きが観察される。本を手にして同じ事を試みたいと思わせる。

 法隆寺西院伽藍中門の柱の中央部が膨らむ胴張りとアテネパルテノン神殿の柱のエンタシスが似通っていることから、ギリシャ美術東漸の証拠として本書では推測された。和辻の「ギリシャ贔屓」を示す有名な箇所である。しかし二つを結びつける物的な証拠がないため専門家には不評であり、これを否定する説が今は有力である。だが否定の証拠がないことも事実であり、結局は「よくわからない」というのが、この件に関しては真相のようだ。

    大和の風景

 大和の風景にも言及される。京都を経由して奈良に到着するのだが、京都とは異なる「パアとして大っぴら」な気分が迫ってくる。「古今集」と「万葉集」の相違が、景色からも感じられたという。新薬師寺へ行く高畑では、「道がだんだん郊外の淋しい所へはいって行くと、石の多いでこぼこ道の左右に、破れかかった築泥(ついじ)が続いている。その上から盛んな若葉がのぞいているのなどを見ると、一層廃都らしいこころもちがする」。(同38頁)高畑の崩れた土塀の魅力は大和紀行の定番となったが、『古寺巡礼』ですでに登場している。「太古以来の太い杉や檜が直立しているのが目立つ。藤の花が真盛りで高い木の梢にまで紫の色が見られた」(同42頁)奈良公園を歩く。

 法華寺境内では、「若葉の茂った果樹の間から、三笠山一帯の山々や高台の上に点々と散在している寺塔の屋根が、いかにものどかに、半ば色づいた麦畑の海に浮かんで見える。その麦のなかを小さい汽車がノロノロと馳かけてゆくのも、わたくしには淡い哀愁を起こさせる」。(同112頁)平城宮跡内も通る。「遠く南の方には三輪山、多武峯、吉野連山から金剛山へと続き、薄い霞のなかに畝傍山・香久山も浮いて見える。東には三笠山の連山と春日の森、西には小高い丘陵が重なった上に生駒山。それがみな優しい姿なりに堂々として聳えている。堂々としてはいても甘い哀愁をさそうようにしおらしい。ここになら住んでみようという気も起こるはずである」。(同135頁)

 興味深い記述がある。「薬師寺の裏門から六条村へ出て、それからまっすぐに東へ、佐保川の流域である泥田の原のなかの道を、俥にゆられながら帰る。暮靄(ぼあい)につつまれた大和の山々は、さすがに古京の夕らしい哀愁をそそるが、目を落として一面の泥田をながめやると、これがかつて都のただ中であったのかと驚く。佐保川の河床が高まって、昔の高燥な地を今の湿地に変えたのかも知れない。」(同174~175頁)とある。そして、平城京のあった時代もこんな湿地であったから疫病が流行し、久邇京遷都が行われたのかもしれないと想像する。著者が奈良を訪ねたのは5月末であるから、田植えをまぢかに控えて田んぼには水が張られていたはずだ。大安寺と薬師寺をはるか東西に据えた六条村は古地図に明らかなように集落がところどころに点在する他は田んぼだった。この時期になれば盆地全体が湿地になったように、泥田が見渡す限り広がっていたのだろう。

 當麻寺へも足を運んでいる。二上山の印象は次のように書かれた。「山に人格を認めるのは、素朴な幼稚な心に限ることであろうが、そういうお伽噺めいた心持ちをさえ刺戟するほどにあの山は表情が多い。あたりの山々の、いかにも大和の山らしく朗らかで優しい姿に比べると、この黒く茂った険しい山ばかりは、何かしら特別の生気を帯びて、なにか秘密を蔵しているように見えた。当麻の寺が役行者と結びつき、中将姫奇蹟の伝説を育てて行ったのは、恐らくこの種の印象の結果であろう。

 麦の黄ばみかけている野中の一本道の突き当たりに当麻寺が見える。その景致はいかにも牧歌的で、人を千年の昔の情趣に引き入れて行かずにはいない。茂った樹の間に立っている天平の塔をながめながら、ぼんやりと心を放しておくと、濃い靄のような伝奇的な気分が、いつのまにかそれを包んでしまう。」(同206~207頁)

 法隆寺へは国鉄(現JR)の駅から歩いて行く。「法隆寺の停車場から村の方へ行く半里ばかりの野道などは、はるかに見えているあの五重塔がだんだん近くなるにつれて、何となく胸の踊り出すような、刻々と幸福の高まって行くような、愉快な心持ちであった。

 南大門の前に立つともう古寺の気分が全心を浸してしまう。門を入って白い砂をふみながら古い中門を望んだ時には、また法隆寺独特の気分が力強く心を捕える。そろそろ陶酔がはじまって、体が浮動しているような気持ちになる。」(同225頁)

 斑鳩の里の風景も描写される。「中宮寺を出てから法輪寺へまわった。途中ののどかな農村の様子や、蓴菜じゅんさい)の花の咲いた池や、小山の多いやさしい景色など、非常によかった。法輪寺の古塔、眼の大きい仏像なども美しかった。荒廃した境内の風情もおもしろかった。鐘楼には納屋がわりに藁が積んであり、本堂のうしろの木陰にはむしろを敷いて機(はた)が出してあった。」(同268~269頁)

 和辻が一番感動した場所は、浄瑠璃寺のある当尾の里である。寺へ向かう山道は砂地の里山で赤松が生えツツジが咲き乱れていた。故郷の山で遊んだ幼い思い出がよみがえる。寺は山村の一隅に「平和ないい心持ち」に納まっていた。「浅い山ではあるが、とにかく山の上に、下界と切り離されたようになって、一つの長閑な村がある。そこに自然と抱き合って、優しい小さな塔とお堂とがある。心を潤すような愛らしさが、すべての物の上に一面に漂っている。それは近代人の心にはあまりに淡きに過ぎ平凡に過ぎる光景ではあるが、しかしわれわれの心が和らぎと休息とを求めている時には、秘めやかな魅力をもってわれわれの心の底のある者を動かすのである」(同46頁)。桃源の夢想がここには表現され、それに共鳴するのは子供時代の記憶なのだと語られる。

 風土への言及は仏像や建築に比べると分量は少ないが、個人的には大いに関心があるので、詳しく引用した。100年前の奈良の今は失われた景観を知る貴重な記録だからである。素晴らしい仏像や堂塔が存在する場所への注目は、古寺のある時空間としての大和路全体を照らし出す。個々の仏像や建物の魅力とともに大和路のイメージがかくして生まれていったのである。

    『古寺巡礼』への批判

 美術史家の町田甲一は『大和古寺巡歴』のなかで『古寺巡礼』および亀井勝一郎の『大和古寺風物詩』は文学作品ではあっても仏像鑑賞の手引きにはふさわしくないと批判する。すなわち両者の鑑賞方法は「きわめて主観的文学的哲学的観照であって、正しい美的観照、古美術を正しく理解しようとする観照態度ではない。……作者の作因、美的意図を無視したり、それらを越えて、観照者のきわめて主観的に誇張された感情をもって極端な受け取り方をしている」と手厳しい。また和辻が天平一の傑作とした聖林寺十一面観音を東大寺三月堂不空羂索観音と比べ写実性において如何に劣るかも論じている。町田は十代から『古寺巡礼』を懐に仏像を見て回り美術史家になった人である。『大和古寺巡歴』は『古寺巡礼』とともにぜひ読んでおきたい著作である。

 文芸評論家の保田與重郎は、『古寺巡礼』の姿勢を「異国人の遺品を味わうように、奈良の仏像を見て回る」と評した。保田によれば、これは遠い昔から仏像の美に代々感嘆してきた「民族のくらし」から遊離した、「無国籍」な「骨董的市場的関心」にすぎないという。だから長谷寺のような民衆の深い信仰を集めてきた寺の美術は、和辻の方法では迫れない。

 これらの批判は説得力があるが、『古寺巡礼』の魅力と表裏の関係にある。「主観的文学的哲学的」な雄弁な語り口が読者の想像力に火をつけて関心を喚起した。伝統的な信仰とは無縁な旅行者がいきなり仏像と対面して鑑賞することを可能ならしめたのである。 

 『古寺巡礼』は戦後に再刊されるとき旧版に手を加え改訂版となった。著者はそのとき全面的な修正も考えたが、この本の取り柄が「若さと情熱」にあることを思いいたってそのままにしたという。生の感情が露骨に現れたり主観的すぎる箇所は削除され穏当な表現に整えられたが、「若さと情熱」は生かされ、そしてもうひとつ、この書の特徴は「明るさ」である。ギリシャ古典と天平美術に至上の価値をおく著者の向日性の性格から来るものであろう。

主要参考文献
和辻哲郎『古寺巡礼』岩波文庫ワイド版
和辻哲郎『初版古寺巡礼』ちくま学芸文庫
町田甲一『大和古寺巡歴』講談社学術文庫
保田與重郎長谷寺」『保田與重郎全集第33巻』講談社
苅部直『光の領国 和辻哲郎岩波現代文庫
碧海寿広『仏像と日本人』中公新書
井上章一法隆寺への精神史』弘文堂

101 風雅と酔い泣きの歌人・大伴旅人

――「長屋王の変」から読み解く旅人の世界ーー   

 

 大伴旅人は665年に生まれた。父は佐保大納言と呼ばれる安万侶、母は近江朝の大納言巨勢比等の娘、巨勢郎女(ごせいらつね)。和銅3年(710)正月の元明天皇の朝賀に際して、左将軍として騎兵・隼人・蝦夷らを率いて朱雀大路を行進した。和銅8年(715)に従四位上中務卿に任じられ、養老2年(718)には中納言として太政官に加わる。養老4年(720)3月に征隼人持節大将軍に任命され反乱の鎮圧にあたる。8月に右大臣・藤原不比等が亡くなったことから京に戻り、長屋王とともに不比等の邸宅で詔を述べ、太政大臣正一位を贈る使いとなる。神亀元年(724)聖武天皇の即位に伴って正三位に叙せられる。 神亀4年(727)末か翌年初めに太宰帥(だざいそち)として下向する。天平2年(730)10月、大納言に任じられ、12月に帰京。従二位に昇進。天平3年7月薨去、享年六十七歳であった。

吉野讃歌

 万葉集に載る旅人の最初の歌は、神亀元年(724)3月、即位したばかりの聖武天皇の吉野行幸に随従した際に詠んだ長歌反歌である。このとき旅人は六十歳であった。次に詠んだのは太宰府帥に赴任した神亀5年(728)、それから帰京した天平3年(731)までの3年間に約70数首の歌が集中して詠まれた。これは異例のことである。はたして六十歳以前に旅人は歌を詠まなかったのだろうか。当時は宴会に歌はつきものだったし旅人の歌のレベルの高さからいっても詠まなかったとは考えにくい。もちろん我々の目に触れる歌がない以上、詠んだか詠まなかったかという詮索にはあまり意味はない。むしろ遺された歌がなぜ遺されたのか。ひいてはなぜ詠まれたのかというところに関心を向けるべきだろう。というのも70数首のどの歌も濃い存在感を放ち、それぞれが関連しあい、旅人晩年の人生と結びつくという強い物語性をおびて我々の心をとらえるからだ。

 旅人の最初の歌は次の長歌である。

 

暮春の月に吉野の離宮(とつみや)に幸(いでま)す時に、中納言大伴卿(おほともきょう)の勅(みことのり)を奉(うけたまは)りて作る歌一首〔并せて短歌、いまだ奏上を経(へ)ざる歌〕

み吉野の 芳野(よしの)の宮は 山からし 貴(たふと)くあらし 水(かは)からし さやけくあらし 天地(あめつち)と 長く久しく 万代(よろづよ)に 改(かわ)らずあらむ 行幸(いでまし)の宮  ③315

(み吉野の吉野の宮は山の本性で貴くあるらしい、川の持ち前でこうも清いらしい、天地とともに長く久しくいつまでも変わらずにあろう、この吉野の離宮は)

反歌

昔見し象(きさ)の小川を今見ればいよよさやけくなりにけるかも  ③316

(昔見た象の小川を今見るといちだんとすがすがしくなってきたことよ)

 

 吉野は天武系天皇にとって聖地であり、歴代の天皇は頻繁に行幸した。壬申の乱天武天皇の側について功績のあった大伴氏にとっても吉野はめでたい場所であった。旅人は正三位に昇進したばかりで、代替わりの行幸につきそう気持ちの中に晴れやかさと期待があった。「昔見し」とあるのは、これまで何度も吉野行幸につきしたがった体験があるからだ。歌には眼前の風景をめでて素直な明るさと喜びがあふれている。こういう印象を与える彼の歌はこれ1首かぎりにして最初に置かれたことに、万葉集編纂者の意図さえ感じる。題詞には「勅を奉りて作る」が「いまだ奏上をへざる」とある。奏上を求められなかったのか、自ら奏上しなかったのか、どちらかわからない。この長歌反歌天皇讃美を目的とする吉野讃歌としては異色であり、山川の環境の素晴らしさを讃えて土地を祝福する印象が強い(注①)。吉野讃歌としてふさわしくないと思って奏上をとりやめた可能性がある。しかしここには単なる儀礼を超えた真情があった。のちにこの歌と切実にひびきあう望郷歌が詠まれるのである。

長屋王の変」前史 

 旅人が太宰府に下向した時期は正確にはわからない。『続日本紀』に旅人の動向がふたたび載るのは天平3年正月の叙位記事であり、この間の動向はもっぱら万葉集の記述からたどることになる。それによれば神亀4年(727)末から翌年始めの間と推定される。この頃、京では重要な出来事があった。しばらく万葉集からはなれて時代の政治情勢を見ていこう。「長屋王の変」の前史である。

 神亀4年閏9月29日、聖武天皇藤原光明子のあいだに待望の皇子が誕生した。天皇の喜びは尋常ではなく、大赦を行い百官に賜物し、同日に生まれた国中の者に贈り物をした。そして誕生からまだ33日しか経ていないのに皇太子に立てた。皇太子になるには成人してからという慣例が当時あったようだから、この措置がいかに異常であったか想像がつく。11月14日、大納言従二位多治比池守が百官をひきいて皇太子に拝謁した。太政官のトップは正二位左大臣長屋王であったが、なぜだか彼は登場しない。これ以後、『続日本紀』から彼の姿は消え、次に現れるのは「長屋王の変」の当日である。

 ここからは想像になるが、長屋王は異例の立太子に異議を唱えたのではないだろうか。聖武天皇が即位したとき、天皇の母の藤原宮子を「大夫人」と呼ぶという勅が出た。長屋王太政官を代表して「令の規定によれば皇太夫人とすべきではないか」と意見して、勅が撤回されたことがある。立太子について正論を主張してもおかしくない。しかしこの意見は太政官の多数派を得られず、立太子は強行された。このとき長屋王に与した旅人が政争に敗れて太宰府に左遷されたというのが描くシナリオである。

 長屋王は、天武天皇の長男高市皇子(たけちのみこ)の嫡男であり、母が天智天皇の皇女の御名部皇女元明天皇の同母姉)、生年は676年とされる。高市皇子壬申の乱で活躍し、持統天皇のもとでは太政大臣を務めるなど重きをなした。長屋王の正妻吉備内親王草壁皇子天智天皇皇女の阿閉(あべ)皇女(元明天皇)を父母とし、文武天皇元正天皇の兄弟姉妹にあたる。長屋王自身が有力な皇太子候補に擬せられた形跡があるが、吉備内親王とのあいだに3人の王子がいて皇孫待遇を受けていた。その栄華は長屋王邸発掘調査からもうかがえる。天皇を出せる家系として血筋、実力申し分なく、聖武光明子にとってまた二人を擁立する藤原氏にとって大きな脅威になっていたのである。異例の立太子長屋王に対抗する策として考えると腑に落ちる。この推理が正しければ、長屋王はこの時点から謹慎状態になった。藤原氏長屋王を孤立させ包囲する体制を着々とつくりあげていく。

 旅人が長屋王側についたのは、聖武天皇藤原氏が一体となった体制下では大伴氏の展望は開けなかったからである。また長屋王は詩宴をよく開く文人であり、旅人と嗜好が合ったのかもしれない。不比等薨去したとき、二人は勅を受けて不比等邸を訪ねている。個人的な親近感もあっただろうか。

「世の中は空しきものと」

 時間軸に沿って見ていくと、旅人が次に詠んだ歌は、「神亀五年六月二十三日」の日付が入る。

 

大宰師大伴卿(だざいのそちおおともきょう)の凶問に報(こた)ふる歌一首

禍故(くあこ)重畳(ちょうでふ)し、凶問累集(るいじふ)す。永(ひたぶる)に崩心(ほうしん)の悲しびを懐き、独(もはら)断腸の涙を流す。ただし、両君の大助に依りて、傾ける命をわづかに継げらくのみ。筆の言を尽くさぬは、古に今にも嘆くところなり。

(不幸が重なり、訃報が相次いで来ます。ただただ心も崩れんばかりの悲しみを抱き、ひたすら腸も断ち切られるばかりの嘆きの涙を流しております。それでも、ご両所のお力添えを得て、いくばくもない余命をやっとつないでいるような有様です。「筆では言わんとすることを述べ尽くすことができない」というのは、昔の人も今の人も共に憾みとするところです。)

世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり  ⑤793

(世の中は空しいものだと思い知った今こそいよいよ益々悲しくおもわれることです)

神亀五年六月二十三日

 

 旅人は妻をともなって赴任したが、間もなく妻は亡くなった。さらに身内の死の知らせがあいついだようだ。その悲しみを詠むが、「世間空」は仏教思想を踏まえたもので、万葉集ではこの表現は二例しかなく(注②)もうひとつは作者不明である。(これについては後で触れる)。「世間空」は生身の悲しみを諦観へみちびく教えであるが、そう簡単には悟れない凡夫の自分を見つめているようで共感を誘う。平明でありストレートすぎるように見えるが、一読して忘れがたい旅人の代表歌として人口に膾炙(かいしゃ)する。

龍の馬の贈答歌

 この直後に詠まれた可能性のある歌と書簡がある。

 

伏して来書を辱(かたじけ)なみし、つぶさに芳旨(はうし)を承はる。たちまちに漢(あまのがは)を隔つる恋を成し、また梁(はし)を抱く意(こころ)を傷(いた)ましむ。ただ羨(ねが)はくは、去留(きよりう)に恙(つつみ)なく、遂に披雲(ひうん)を待たまくのみ。

(かたじけなくもお手紙をいただき、お気持ちのほどよくわかりました。ふと天の川を隔てた牽牛・織女のようなせつない気持ちをおぼえ、また恋人を待ち疲れて死んだ尾生(びせい)と同じ心境になったのです。願わくは、離れていてもお互いに無事で、いつかお目にかかる日を待つこと、ただそればかりです。)

歌詞両首 大宰師大伴卿

龍(たつ)の馬(ま)も今も得てしかあをによし奈良の都に行きて来(こ)むため  ⑤806

(龍馬が、今もあればよいと思います。あおによし奈良の都に行ってくるため)

現(うつつ)には逢ふよしもなしぬばたまの夜の夢(いめ)にを継ぎて見えこそ  ⑤807

(現実には、逢うすべもありません。ぬばたまの夜の夢にずっと見えてください)

 

 前後の歌から判断して、神亀5年(728)7月21日から天平元年(729)10月7日のあいだの何時かに詠まれた。旅人が在京の誰かから書簡を受け取りそれに返す書簡と歌2首からなる。

 一見して相聞歌である。相手は不明であるが、万葉集に旅人にあてた相聞歌があり、その作者が丹生王女(にふのおおきみ)であるため彼女ではないかという説がある。

 

丹生女王の太宰師大伴卿に贈れる歌二首

雨雲のそくへの極み遠けども心し行けば恋ふるものかも 巻4(553)

(筑紫の国は雨雲のたなびく果ての遠くであってもこちらの思いさえ届けば惚れ返してくださるものでしょうか)

古人の飲(たま)へしめたる吉備の酒病まばすべなし貫簀(ぬきす)賜(たば)らむ  ④554

(尊老が送ってくださった吉備の酒も悪酔したらどうにもなりません。貫簀をいただきとうございます)

 

 王女の歌は余裕たっぷりで大人の男女の相聞歌という趣である。巻5の旅人の歌「龍の馬に乗ってでも夢の中ででも会いたい」という一途さとはまったくトーンが異なる。さらに書簡にある「願わくは、離れていてもお互いに無事で、いつかお目にかかる日を待つこと、ただそればかりです」の文面からはただならぬ切迫感がつたわる。旅人はこのとき六十四歳、太宰帥の要職にあってしかも妻を亡くしたばかりである。男女間のリアルな相聞歌をこの時期に旅人が詠んだとは思えない。

浮かんでくるのは長屋王である。神亀5年は謹慎状態にあって孤立を深めていた。苦衷を吐露する手紙がはるばると旅人のもとにとどき、相聞を装った返書が認められたのではないか。宛先不明であるのも一つの傍証となる。

長屋王の変

 神亀5年は対長屋王シフトが進んだ年であった。この年の正月は例年ある官位の叙位がなかった。5月に叙位が実施されて多数の者が外従位五下に叙せられた。外階はこれまで主に地方の豪族に与えられた官位であったが、このときから中央の役人にも適用された。内階の従位五下とは待遇において格段の差はあったが、貴族の登竜門とされた五位の間口を広げる意味があった。外従位五下から精勤次第で従位五下に横滑りして出世するコースも用意された。人事を扱う式部卿は藤原宇合(うまかい)であったから、彼のもとで新たな人事システムが考案され実行されたのだろう。実際このときの複数の叙位者が長屋王の変の現場で立ち働き、直後の論功行賞でさらに官位をステップアップしている。

 4月には王や貴族が私兵を募ることを禁止する勅が出ている。8月には中衛府が設置された。これは天皇の身辺の警護にあたった授刀舎人(たちはきのとねり)を発展強化するもので、従来の五衛府にまさる地位と権力を付与された。長は藤原房前(ふささき)である。藤原氏との関係が密接でその権力基盤の一つとなった。長屋王の変では五衛府とともに中衛府の兵士が動員された。

 長屋王は5月に聖武・歴代天皇、亡父母のため大般若経書写を発願している。事態の好転を願って仏に祈願したのだろうか。

 8月に皇太子基(もとい)王は病が重くなる。造仏、写経、大赦、諸陵への奉納が行われる。しかし9月、基王は1歳に満たず薨去、那富(なほ)山に葬られる。全国が喪に服し、基王を弔うため山房の創建が命じられる。

 基王の死は長屋王の変の引きがねとなったが、その前より長屋王排除のための準備はすすんでいて、その死が利用されたのである。

 神亀6年2月10日、「長屋王はひそかに左道を学んで国家を傾けようとしている」という密告があった。ただちに東国への守りをかためる三つの関が閉鎖され、藤原宇合が率いる六衛府の兵士をもって長屋王邸が包囲された。翌日11日、知太政官舎人親王新田部親王、大納言多治比池守、中納言藤原武智麻呂らが長屋王を糾問する。12日、長屋王は自尽、吉備内親王、膳夫(かしはで)王、桑田王、葛木(かずらき)王、鈎取(かぎとり)王が自経した。鈎取王は石川夫人所生の王子であったが、他の3人は吉備内親王所生である。藤原氏出身の夫人の男子王もいたが、彼らは咎をまぬがれた。「吉備内親王は無罪である」という勅が出ているのは、彼女まで抹殺する意図はなかったということだろう。後追い自殺を想像する。「国家を傾ける」ような謀反は一族郎党縁座して重罰に処せられるのであるが、使用人とみられる9人が流刑されただけであった。この事件の真相が、聖武天皇の承認のもと長屋王家の断絶を狙って藤原氏によって仕組まれた陰惨な逆クーデターであることは明らかである。「左道を学んで国家を傾ける」とは、この時期から推測して「基王を呪い殺した」という内容であったと思う。意気消沈した天皇はたやすくそれを信じこんだ。事件直後に出た勅は、長屋王への憎悪にみちた激烈なものだった。

 3月には事件の論功行賞と見られる叙位が実施された。藤原武智麻呂が大納言に昇任している。8月に天平改元され、光明子が皇后となる。藤原四氏時代がはじまるのである。

 事件には後日談があった。藤原四氏が天然痘で相次いで亡くなった直後の天平10年(738)7月、事件の密告者の一人がかつて長屋王に仕えていた者に斬殺された。あれは誣告(ぶこく)であったと『続日本紀』は記述する。

太宰大弐多治比県守に贈る歌

 旅人は京を遙かにしてなすすべもなく事の進行を見守るしかなかった。正三位中納言議政官ナンバー3にいる彼は政権の中枢にありながら、そこで起きている大事件から遠ざけられていたのである。だが太宰府はまったく無風地帯かというと、そんなことはない。太宰府の上席次官である大弐の正四位上多治比県守が事件さなかの11日に権参議に任命された。彼は事件の首謀者の一人である大納言多治比池守の弟であった。このときは京にいて大いに働いたのだろう、3月には従三位に昇叙した。彼に宛てた旅人の歌がある。

 

大宰師大伴卿の大弐丹比県守(だいにたぢひのあがたもり)卿の民部卿(みんぶきやう)に遷任(せんにん)するに贈る歌一首

君がため醸(か)みし待酒(まちざけ)安の野にひとりや飲まむ友なしにして ④555

(君のために用意した待酒を安の野でひとり寂しく飲むのか、友もいなくて)

 

 詠んだ時期は明確ではないが、県守が京にあるときに作った歌であることは内容から推測できる。「ひとりや飲まむ友なしにして」は、友と離ればなれになっている寂しさをかこっているようであるが、「二人で飲まむ日を待ちかねつ」とも詠めたはず。ここでは隔たってしまったことを確認する詠唱となる。それは地理的であるよりも心理的な距離感の表明であるように感じる。

「わが盛りまたをちめやも」

 太宰府の次席次官である小野老(おののおゆ)も3月の叙位で従五位下から上へ一階昇叙した。彼にとっては10年ぶりであった。太宰府次官へのこのような待遇は偶然であろうか。長屋王派とめされた旅人を監視する、あるいは牽制する役目がこの二人、県守と老に期待されたと考えるのはうがちすぎだろうか。小野老が叙位のあと九州にもどった。その祝宴で歌が披露された。

 

大宰少弐小野老朝臣(だざいのせうにをののおゆのあそみ)の歌一首

あをによし奈良の都は咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛りなり  ③328

(あをによし奈良の都は咲く花が爛漫たるように今真っ盛りでした)

防人司佑大伴四綱(さきもりのつかさのすけおほとものよつな)の歌二首

やすみししわが大君(おほきみ)の敷きませる国の中(うち)には都し思ほゆ  ③329

(やすみししわが大君が治められる国々のうちでは都がやはり懐かしいですね)

藤波の花は盛りになりにけり奈良の京(みやこ)を思ほすや君  ③330

(藤の花は今満開になりました。奈良の都を恋しく思われますか帥も)

師大伴卿(そちおほともきょう)の歌五首

わが盛りまたをちめやもほとほとに奈良の京(みやこ)を見ずかなりなむ  ③331

(わたしの元気だった頃がまた戻ってくることがあろうか。ひょっとして奈良の都を見ずに終わるのではなかろうか)

わが命も常にもあらぬか昔見し象(さき)の小川を行きて見むため  ③332

(わたしの命はいつまでもあってくれないものか。昔見た象の小川を行って見るため)

浅茅原(あさぢはら)つばらつばらに物思へば古りにし里し思ほゆるかも  ③333

(浅茅原つくづくと物思いに沈んでいると明日香の古京が思いだされるなあ)

忘れ草わが紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため  ③334

(忘れ草をわたしの下紐に付ける。香具山の古い京を忘れるために)

わが行きは久にはあらじ夢(いめ)のわだ瀬にはならずて淵にあらぬかも  ③335

(私の筑紫暮らしももう長くはなかろう。夢のわだは瀬にならないで淵のままであってくれ)

 

 小野老の歌は平城京の讃歌として代表的なものだ。しかし歌の背景を知ると冷酷なほど暢気に見えてくる。昇叙した喜びがあり、京から戻ってきたばかりで満座の羨望に満ちた好奇心があっただろう。その期待に応える歌であった。大伴四綱は老の歌にまず型とおりに唱和して、次に帥へつなぐために問いかける。「藤の盛り」とは暗に藤原氏の隆盛を指している。同じ大伴氏として含むものがあったと思う。

 旅人の歌はこの祝宴の場にまったくふさわしくなかった。高齢となってもはや都を見ることもないだろうという趣旨であるが、悲観的な内容であり事実としても大げさすぎる。流刑にあったわけではなく、任を解かれれば京に戻れるはずだ。あるいは左遷されたままこの地で朽ちてしまうかもしれないと思ったのか。真意は、「私が政治家として活躍したのは昔のことになってしまった。もう都には私の居場所はなく帰りたいとも思わない」である。座に連なった者たちは旅人の思いが手に取るようにわかっただろう。

 二首目では、吉野への憧れが歌われる。生きながら得て見たいのは、あの吉野の象の小川である。このとき念頭には5年前に詠んだ吉野賛歌があっただろう。三首、四首目で三十歳まで過ごした明日香古京への望郷の想いが歌われる。五首目でふたたび吉野へ心は馳せていく。象の小川が吉野川に流れ落ちる地点の曲(わだ)に心のレンズはしぼられ、いつまでも変わらずにあってほしいと願われる。「夢のわだ」とは夢に見るまでのわだという意味である。旅人の切ない心情がつたわる。

 平城の都をほめるとは朝廷への讃歌であって、役人が集まった祝宴ではそのような歌が期待されたのだが、旅人は意識的に平城京への言及を避け吉野と明日香への想いを吐露する。長屋王事件直後の旅人の心の内が読みとれる。

讃酒歌

 この祝宴から近い時期に詠まれたのが、讃酒歌である。

 

大宰師大伴卿の酒を讃(ほ)むる歌十三首

験(しるし)なき物を思はずは一杯(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし  ③338

(くだらない物思いをするぐらいなら一杯の濁った酒を飲むべきであろう)

酒の名を聖(ひじり)と負(おほ)せし古(いにしへ)の大き聖の言(こと)のよろしさ  ③339

(酒の名を聖と名づけた古の大聖人の言葉の見事さよ)

古の七の賢(さかし)き人どもも欲(ほ)りせしものは酒にしあるらし  ③340

(古の竹林の七賢人も欲しがったものは酒であったらしい)

賢しみと物いふよりは酒飲みて酔(ゑひ)泣きするしまさりたるらし  ③341

(偉そうに物を言うよりは酒を飲んで酔い泣きする方がましであるらしい)

言はむすべせむすべ知らず極まりて貴(たふと)きものは酒にしあるらし  ③342

(言いようもしようもないほどいみじくも貴いものは酒であるらしい)

なかなかに人とあらずは酒壺に成りにてしかも酒に染(し)みなむ  ③343

(なまじっか人間でいるよりも酒壺になってしまいたい。そして酒にどっぷり浸ろう)

あな醜(みにく)賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見れば猿にかも似る  ③344

(ああみっともな偉そうにして酒を飲まない人をよく見たら猿に似ているかな)

値(あたひ)なき宝といふも一杯(つき)の濁れる酒にあに益(ま)さめやも  ③345

(値段もつけられないほどの宝珠も一杯の濁った酒になんで及ぼう)

夜光る玉といふとも酒飲みて情(こころ)をやるにあにしかめやも  ③346

(夜光の玉といっても酒を飲んで憂さを晴らすのになんでまさろう)

世の中の遊びの道にかなへるは酔ひ泣きするにあるべかるらし  ③347

(世の中の遊びの道に当てはまるのは酔い泣きをすることであるらしい)

この世にし楽しくあらば来(こ)む世(よ)には虫に鳥にも我はなりなむ  ③348

(この世で楽しかったらあの世では虫にでも鳥にでもわたしはなってしまおう)

生ける者つひにも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくをあらな  ③349

(生きている者はいずれは死ぬと決まっているからこの世にある間は楽しくやろう)

黙然(もだ)をりて賢しらするは酒飲みて酔ひ泣きするになほしかずけり  ③350

(むっつりして偉そうにするのは酒を飲んで酔い泣きするのにやはり及ばぬわ)

 

 単にお酒が好きでほめているというよりも、心の内に抱えこんだ懊悩を酒で必死にまぎらわせようとしている印象がつよい。中国の故事(聖、大聖人、竹林の七賢人等)を引くが、さらに仏教思想(世の中、この世、来世、生きる者つひにも死ぬる等)も見え隠れする。これについては伊藤益筑波大教授の解釈が参考になる。「仏教思想が要請する現世を無常と見切りつつそこから脱却する開悟の境位は、彼にとって人情の自然に反する心位でしかなかった。それゆえ、彼は「世間無常」の哲理の妥当性を自己の体験を媒介として把捉しつつも、それに反発せざるをえなかった。その反発が讃酒歌の表層において享楽主義を鼓吹する方向へ彼をはしらせた」(注③)。「賢しら」と「酔い泣き」が対比され、後者が称揚される。「賢しら」の代表が仏教である。彼は「世間無常」をわかってもそれに安心できず慟哭せざるをえない。

 旅人をして飲酒に溺れ酔い泣きするまでの苦しみとは何だろう。(もっとも歌として鑑賞するには読者個々の体験において共感できればいいから、作者にあった特定の理由はたいした問題にはならない)。妻や身内の者の死があげられることが多いが、それだけでこれだけの歌が詠まれるとは思えない。やはり私はここに長屋王事件を見る。妻や身内の死は挽歌にして慰藉できたが、長屋王家の無惨な最期は口外することさえタブーであった。旅人は誰にも心の内を打ち明けられず、行き場のない悲しみをただ酒にまぎらわせて嗚咽するしかなかった。

 讃酒歌のあとに沙弥満誓の「無常の歌」がおかれる。

 

沙弥満誓(さみまんせい)の歌一首

世間(よのなか)を何に譬(たと)へむ朝びらき漕ぎ去(い)にし船の跡なきがごと  ③351

(世間を何にたとえたらいいのだろう、朝の湊を漕ぎだした船の跡がないようなものだ)

 

 満誓は当時筑紫観世音寺別当であり、旅人を中心とする筑紫歌壇の有力メンバーであった。酒杯を重ねながら互いの歌を披露することも多かっただろう。讃酒歌の悲痛な叫びにつきあったあと、仏教が揶揄されたにもかかわらず何か慰撫されるような調べがある。旅人は帰京したあとも歌をやりとりして、心を許しあう関係にあった。

膳部王を悲傷する歌

 長屋王の変で自経した膳部王を追悼する詠み人知らずの歌がある。

 

膳部王(かしはでべのおほきみ)を悲傷(かなし)める歌一首。

世間(よのなか)は空しきものとあらむとそこの照る月は満ち欠けしける  ③442

(世間は空しきものだと言わんばかりにこの照る月は満ち欠けするのだな)

右の一首は、作者いまだ詳(つばひ)らかならず。 

 

「世間は空し」という語句は万葉集の中に二つだけ出て、もう一つは旅人の「世の中は空しきものと知るときしいよよますます悲しかりけり」である。膳部王追悼歌とスタイルも似ている。作者は旅人の可能性もある。

日本琴の歌 

旅人は天平元年10月に藤原房前に琴を贈り詩文と歌をそえた。

 

大伴淡等の謹状

梧桐(ごとう)の日本琴(やまとこと)一面 対馬の結石(ゆふし)山の孫枝(ひこえ)なり

この琴夢(いめ)に娘子(をとめ)に化(な)りて曰はく「余(われ)根を遙島(えうたう)の祟(たか)き巒(みね)に託(つ)け、韓(から)を九陽(くやう)の休(よ)き光に晞(ほ)す。長く煙霞を帯びて、山川の阿(くま)に逍遙(せうえう)し、遠く風波を望みて、雁木(がんぼく)の間に出入す。唯百年の後に、空しく溝壑(こうがく)に朽ちむことを恐るるのみ。偶(たまさか)良き匠に遭ひて、剒(き)りて小琴に為られぬ。質の麁(あら)く音の少(とも)しきを顧みず、恒(つね)に君子の左琴(さきん)を希(ねが)ふ」といへり。即ち歌ひて曰はく

(桐の和琴一面、対馬の結石山のひこばえです。

この琴が、夢に娘子となって現れて言うことには、「わたしは、遠い島対馬の高山に根を下ろし、太陽の美しい光に幹を照らされていました。いつも霧や霞にとりまかれて、山や川の果てをさすらい、遙かに風や波を眺めながら、伐られそうで伐られるでもない不安定な状態にありました。ただ心配なことは、百年の後、むなしく谷底に朽ち果てるのではないか、ということだったのです。たまたま運よくも、良い大工に遭い、伐られて小琴に作られました。音質は悪く音量が乏しいのも憚らず、ずっと君子の貴君のおそばに置かれることを願っています。そこで歌って申しますには、

いかにあらむ日の時にかも音(こゑ)知らむ人の膝の上(へ)わが枕かむ  ⑤810

(いつどんなときになったらこの音を聞き知ってくださるお方の膝を枕にできましょうか)

僕(やつかれ)詩詠に報(こた)へて曰はく

言問(ことと)はぬ木にはありともうるはしき君が手馴(たな)れの琴にしあるべし  ⑤811

(ものを言わぬ木ではあっても素晴らしいお方のご寵愛を受ける琴に違いなかろう)

琴の娘子(をとめ)答へて曰はく

「敬(つつし)みて徳音(とくいん)を奉(うけたま)はりぬ。幸甚(かうじん)幸甚」といふ。片時(しまらく)ありて覚(おどろ)き、すなはち夢(いめ)の言(こと)に感(かま)け、慨然として止黙(もだ)あることを得ず。故に公使(おほやけづかひ)に付けて、いささかに進御(たてまつ)らくのみ。謹状す。不具

天平元年十月七日 使に付けて進上(たてまつ)る。

謹通 中衛高明閣下(ちうゑいかうめいかふか) 謹空

(琴の娘が答えて申しますには、「謹んでご親切なお言葉を承りました。ありがたい極みに存じます」と申しました。ふっと目が覚めて、すぐ夢の中の娘の言葉に感動したあまり黙っておれません。そこで公用の使いにことづけて、ともかくもこれを差し上げたわけです。謹んでお手紙差し上げます。不一。天平元年十月七日、使いに託してお届け申し上げます。謹んで 中衛大将閣下の御許へ 謹空)

 

 天平元年10月は、改元され光明子が皇后に立てられた直後で長屋王事件の混乱も収拾された頃である。このタイミングで旅人が房前に贈り物をするというのは重要な意味があった。房前は長屋王の変をつたえる『続日本紀』に登場しないこともあって、この事件に直接関わっていないという説もあるが、彼は天皇を補佐する内臣、国政にあずかる太政官参議、天皇の親衛隊である中衛府大将という三つの役職について、全体を統括できる立場にあった。事件のシナリオを描き手配した一番の黒幕であったと思う。政権の中枢にいた旅人は事情に通じていた。だからこそ房前に手紙を送ったと考えるべきだ。

 琴が夢の中で娘に変身して生い立ちを語り歌を詠む。それを旅人が書きとめて手紙にするという趣向である。中国の『琴賦』や『遊仙窟』などの語句や構成をモデルにしているらしい。娘の媚びが艶めかしくて明らかにその効果を狙っている。

 旅人はこの贈り物によって藤原氏への恭順をアピールした。それは本意でなかったが、流れに逆らうことはできなかった。大伴氏の氏上として一族の存続を図るには、ここで旗幟を鮮明にしておく必要があった。手紙の文学的虚構は、このような政治的な意図をオブラートにつつむ働きをする。送られた相手も核心のサインを受けとめつつ、遊びを介することでむきだしの利害関係を穏やかに調整できる。房前も機知とユーモアをもって応じた。

 

言問わぬ木にありとも我が背子が手馴れの御琴地(つち)に置かめやも  ⑤812

(ものを言わぬ木でありましょうともあなたのお気に入りの琴を粗略にしましょうか)

梅の歌三十二首并せて序

 天平2年(730)正月、旅人の邸宅で宴が催され、梅の花を題材にした漢詩と歌が詠まれた。

 

梅花(うめのはな)の歌三十二首并せて序

天平二年正月十三日に、師老(そちろう)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(の)べたり。

時に、初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぐ。梅は鏡前(きやうぜん)の粉(ふん)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫らす。加之(しかのみにあらず)、曙(あけぼの)の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥はうすものに封(と)ぢられて林に迷(まと)ふ。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。

ここに天を蓋(きぬがさ)にし、地(つち)を座(しきゐ)にし、膝を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うち)に忘れ、衿(ころものくび)を煙霞の外に開く。淡然(たんぜん)に自(みづか)ら放(ゆる)し、快然に自(みづか)ら足りぬ。

もし翰苑(かんゑん)にあらずは、何を以(も)ちてか情(こころ)をのべむ。請(ねが)はくは落梅の篇を紀(しる)せ。古(いにしへ)と今とそれ何か異ならむ。園梅(えんばい)を賦(ふ)して、聊(いささ)かに短詠を成すべし。

天平二年正月十三日、太宰帥旅人卿の邸宅に集まって、宴会を開く。

折しも、初春の正月の佳い月で、気は良く風は穏やかである。梅は鏡の前の白粉のように白く咲き、蘭は匂い袋のように香っている。そればかりではない、夜明けの峰には雲がさしかかり、松はその雲のベールをまとって蓋をさしかけたように見え、夕方の山の頂には霧がかかって、鳥はその霧の薄衣に封じ込められて林の中に迷っている。庭には今年生まれた蝶が舞っており、空には去年の雁が帰って行く。

そこで天を屋根にし地を席にし、互いに膝を近づけ盃をまわす。一室のうちでは言うことばも忘れるほど楽しくなごやかであり、外の大気に向かっては心をくつろがせる。さっぱりとして各自気楽に振る舞い、愉快になって各自満ち足りた思いでいる。

もし文筆によらないでは、どうしてこの心の中を述べ尽くすことができようか。諸君よ、落梅の詩歌を所望したいが、昔も今も風流を愛することには変わりがないのだ。ここに庭の梅を題として、まずは短歌を作りたまえ)

わが園に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来るかも  ⑤822

主人(あるじ)  

(わが園に梅の花が散る、ひさかたの天から雪が流れてくるのだろうか)

 

 序の作者については山上憶良説もあるが、詩文の特徴から旅人であることが有力である。このとき参会したのは三十二人、太宰府の官人と九州の国守、観世音寺別当の沙弥満誓らである。まず主催者の旅人が漢詩を読みあげ場の雰囲気を盛り上げた。早春の自然の風景が華麗に描かれる。そして眼前の梅の花を歌にしようと呼びかける。漢詩の序は、書家・王羲之(303~361)の「蘭亭序」の影響が指摘される。353年3月3日、王羲之は名士や一族を名勝・蘭亭に招き、総勢42名で曲水の宴を開いた。その時に作られた詩の序文として王が書いたものが「蘭亭序」である。奈良時代の役人は漢籍を読みこなし漢字を使いこなすばかりではなく、その精神世界にも通じ吸収することに努めた。中国の文人たちが開いた風雅の世界を自分たちも経験しようとしたのである。新元号「令和」の出典である「初春令月、気淑風和(初春令月にして気淑く風和らぐ)も、後漢の官僚で発明家であった張衡(78~139年)の『帰田賦(きでんのふ)』の詩句「於是、仲春令月、時和気清(是において仲春令月、時は和し気は清し)」を踏まえているだろう。

 梅は中国伝来の花であり、先進文明に憧れた貴族にもっとも好まれた花だった。平城京よりも大陸に近い太宰府で梅を題材に風雅の世界に遊ぶことに、参会者たちは高揚感を覚えたことだろう。三十二人の参会者はそれぞれに梅の歌を詠んだ。万葉集中の一番多数の歌が記録された歌宴であったという。漢詩と和(やまと)歌の融合した風雅が新たに誕生したのである。旅人はよほど気に入ったらしい。宴のあとにも梅の歌を追和している。

 中国では政治に志を得られなかった者が隠士となり、世俗を離れて風雅の境に安心立命するという伝統があることを旅人は知っていた。傷心の旅人にとって、風雅は大きな救いであった。政争のただ中にある京から離れた太宰府という土地と山上憶良のような歌友の刺激がそれを可能にした。このあと「松浦河に遊ぶ歌」や「松浦佐用姫の歌」など虚構性の強い題材で集団的な創作に旅人は励む。これも彼には風雅を生きることであった。

旅人最期の歌

 天平2年9月、大納言多治比池守が薨去する。ようやく旅人は大納言のポストを与えられて帰京できることになる。12月に太宰府を出発した旅人は京に近づくにつれ、3年前九州へ向かう際に妻とともに見た鞆の浦の景色を一人見る。その悲しさをいくつもの歌にする。3年ぶりに見る京であり昇進も果たしたが、心はずむものではなかった。失ったものの大きさと向きあうことでしかなかった。

 

故郷(ふるさと)の家に還り入りて、即ち作れる歌三首。

人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり  ③451

(人もいない空しい家は草枕旅にもまして苦しいものだ)

妹として二人作りしわが山斎(しま)は木高く繁くなりにけるかも  ③452

(妻とともに二人で作ったわが庭は木立も高くこんもりとなった)

吾妹子(わぎもこ)が植ゑし梅の木見るごとにこころむせつつ涙し流る  ③453

(わが妻が植えた梅の木を見るたびに胸がせつなく涙は流れる)

 

 京の日常に戻ると妻のいない寂しさがいっそう身にしみてきた。もちろんそれだけではない。長屋王の不在による心の空洞は埋めようがなかった。天平3年には従二位に昇位したが、それは花道のようなもので、もはや手腕を発揮できる場はなかった。太宰府にいたときのように共に歌を詠む仲間もいなかった。大伴氏の行く末も気になった。迫る老いをひしひし感じたことだろう。喪失感をかかえ失意の日々をおくったのである。旅人最期の歌が詠まれた。

 

三年辛未、大納言大伴卿の寧楽の家に在りて故郷を思ふ歌二首

しましくも行きて見てしか神南備の淵は浅せにて瀬にか成るらむ  ⑥969

(少しの間でも行って見たいものだ。明日香の神南備山のそばの川の淵は今は浅くなって、瀬になってしまっているかもしれない)

指進(さしずみ)の栗栖(くるす)の小野の萩の花散らむときにし行きて手向けむ  ⑥970

(栗栖の小野の萩の花が散る頃になれば明日香へ出かけて行って神奈備の神に手向けをしよう)

 

 旅人は7月に薨去した。歌はそれに近い頃の作と思われる。故郷の明日香の神奈備山と飛鳥川が浮かんでは彼を慰めるのである。「指進の栗栖」が何処を指すか不明であるが、そこは彼にとってふたつとない土地であった。萩は野山に咲き乱れて当時の誰にとっても親しい花である。時は秋の7月、その花が散る頃に「行って手向けむ」という。誰に手向けるのか。奈良時代には死者に「手向ける」という慣習はなかったらしい。土地の神に供えるということか。「散らむときにし」というのが自らの死を悟るような響きがある。

 

平山城児「旅人の吉野賛歌」『セミナー万葉の歌人と作品 第四巻』(参考文献参照)所収
②井野口孝「旅人の報凶問歌」  同上
③伊藤益「沙弥満誓の歌」  同上

歌の引用と現代語訳は主に『新編日本古典文学全集 萬葉集①②』に拠り、他の文献も参考にしました。

 参考文献

神野志隆光坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第四巻 大伴旅人山上憶良一』和泉書院
中島真也著『大伴旅人笠間書院
中西進編『大伴旅人―人と作品』おうふう
東京古典研究会編『令月、時は和し気は清し』ミヤオビパブリッシング
小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集 萬葉集①②』小学館
渡辺晃宏著『日本の歴史4 平城京と木簡の世紀』講談社
新日本古典文学大系13 続日本紀2』岩波書店

 

号外「奈良の歩き方講座」開催!

NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」と公益社団法人奈良市観光協会」がタイアップして開催する奈良を学び楽しむための講座です。

〈開催日時〉毎月第3日曜日13:3015:00〈会場〉奈良市観光センター NARANICLE体験スペース(奈良市三条町23-4)〈参加費〉500円(参加費+資料代)〈定員〉30名/要申込・先着順〈申込先・問合せ〉電話0742-22-3900 Email:order@narashikanko.or.jp

915日(日)は筆者の担当です。「『大和路』の発見と創造~和辻哲郎『古寺巡礼』、堀辰雄『大和路』、亀井勝一郎『大和古寺風物誌』を読む~」というテーマでお話しする予定です。

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100 日本の元号③近代篇

    一世一元の法制化

 〈明治〉の元号は慶応4年(1968)9月8日に公布されました。改元詔書には「・・・慶応四年を改めて明治元年と為す。今より以後、旧制を革易して、一世一元、以て永式と為せ・・・」とあります。慶応4年の元旦に戻って明治元年にするということです。ここで注目したいのは、「一世一元を以て永式と為せ」です。一世一元が初めて詔書の中で打ち出されました。これを提言したのは岩倉具視です。新政府の重臣たちの賛同を得て天皇が勅可されます。

 〈明治〉に決まったのは、賢所で神楽を奏しながら天皇自らお御籤を引いて決まりました。御籤で決めたというのは後先この一回だけです。明治というのはこれまで10回も候補に挙がっていました。

 明治5年(1973)12月2日の翌日から新暦(西暦)を採用して明治6年1月1日となります。この時に神武天皇即位紀元(紀元=BC660年)いわゆる皇紀の公用を施行しました。

 私年号の「延寿」(奥州列藩同盟)「自由自治元年」(秩父困民党)「征露二年」(日露戦争)も出現しました。

 明治22年(1989)に大日本帝国憲法が公布されるとともに、同時に皇室典範も制定されました。第十二条に「践祚の後元号を建て、一世の間に再び改めざること、明治元年の定制に従ふ」という元号について明記されました。

 その20年後に制定された登極令の第二条は「天皇践祚の後は、直ちに元号を改む。元号は、枢密顧問に諮詢したる後、これを勅定す」、第三条は「元号は、詔書を以てこれを交付す」とあり、改元について具体的な細則が設けられました。枢密院は天皇の諮問機関であって、ここで元号について審議し天皇が勅定し詔書を以て公布するということです。審議には内閣の全閣僚も陪審で加わります。元号天皇が決めて交付するという形は引き継がれます。この方法で大正と昭和の改元は実施されました。

    同日改元にこだわった〈大正〉〈昭和〉

 戦前に発行された『明治天皇紀』には「明治四十五年七月三十日午前零時四十三分、明治天皇崩御」とあります。しかし最近発行された『昭和天皇紀』には「明治四十五年七月二十九日午後十時四十三分、崩御」となっています。2時間早くなっているのです。どちらが事実なのでしょうか。後者が事実です。なぜこんなことが起きたのでしょうか。登極令には「天皇践祚の後は、直ちに元号を改む。」とありました。午後10時43分に崩御したのですからもうすぐに日が変わってしまいます。いくら急いでも29日中に改元手続きを完了させるのは無理です。「直ちに元号を改める」という記述を当時の人は践祚=即位との同日改元と解釈して、崩御時間をずらすということをやったわけです。

 改元詔書には「 ・・・明治四十五年七月三十日以後を改めて大正元年と為す・・・ 」とあります。そのまま読めば、七月三十日は大正ということになるのですが、まだ崩御していない零時42分も大正なのかという疑問が出てきます。実際そういう議論が学者の間で起きました。役所は7月29日までを明治とするという通達を出しました。しかしあえて改元の時間は明確にしないというのは昭和の改元でも踏襲されました。江戸時代までなら時間までは問題にならなかったでしょうが、近代の文書行政では何時何分ということが問題になる場面が出てきます。しかし神格化されていた天皇践祚改元というのは非常にデリケートな問題で「直ちに」というアナログな言葉で表すしかなかった、「何時何分から」という表現は相応しくなかったのでしょう。

 このとき明治天皇追号が奉られました。元号を以て公式の呼称とされるようになりました。

 〈昭和〉の改元では、事前に元号名の選定基準が示されました。宮内大臣の一木喜徳郎が考案者の吉田増蔵に示した元号案の選定基準です。
 
「①元号は、本邦は固より言を俟たず、支那、朝鮮、南詔(なんしょう)、交趾(こうし)等の年号、其の帝王、后妃、人臣の諡号、名字等及宮殿、土地の名称等重複せざるもの・・・②国家の一大理想を表徴する・・・③古典に出処を有し、其の字面は雅馴にして、その意義は深長・・・④称呼上、音調諧和を要すべき・・・⑤其の字画簡明平易なるべき・・・」

 これは〈平成〉や〈令和〉の選定したときの基準につながります。

 改元詔書には「・・・元号を建て大正十五年十二月二十五日以後を改めて昭和元年と為す・・・」とあります。

    政令による元号の公布

 敗戦後は「皇室典範」から元号の条項が削除されました。戦前は「皇室典範」は「憲法」と同格の存在であり、議会で審議することさえできなかったのですが、戦後は憲法下の法律の一つとして位置づけられるようになります。新しい「皇室典範」は皇室の身分・地位に関する取り決めに限られ、元号のような国事事項は外されました。新憲法の制定とともに元号についての法律を作る動きもありましたが、GHQによって止められます。元号の法律的な根拠があいまいになり、「事実たる慣習として昭和という年号が用いられている」状態が続きました。

 国の主権者が天皇から国民へ移りました。民主主義の社会では、元号は相応しくないという意見も起きます。しかし、国民の多数が元号を使用しているという事実がありました。この事実を背景に元号法が1979年に成立します。

「1 元号は、政令で定める。
 2 元号は、皇位の継承があった場合に限り改める。
 附則 ・・・昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。」

 一番短い法律です。政令で定めるという規定から、元号を定める主体が天皇ではなくて内閣であるということが法律として明確になりました。「皇位の継承があった場合に限り改める」という規定で、一世一元のルールも引き継がれたわけです。

 元号の使用は国民の義務や強制ではないということも制定の過程で強調されました。しかし、役所や公立の学校では元号を使っています。これまでの慣習により統一しなくては不便だというのが政府の見解でしたが、改めて「公文書の年表記に関する規則」が平成6年(1994)に政府から出て明文化されました。そこには「公文書の年の表記については、原則として元号を用いるものとする。ただし、西暦による表記を適当と認める場合は、西暦を併記するものとする」とあります。

 元号を決める具体的な手順が「閣議報告」(昭和54年(1979))で示されました。そこに元号選定基準があります。
「○国民の理想としてふさわしいようなよい意味を持つものであること ○漢字二字であること ○書きやすいこと○読みやすいこと ○これまでに元号又は諡として用いられたものでないこと ○俗用されているものでないこと」。これは昭和の改元の際に設けられた基準を踏まえています。

 元号選定の手順も明示されました。①考案者(若干名)が各2~5案を提出 ②内閣法制局長官の意見を聴いて、官房長官が数案選定 ③有識者の「元号に関する懇談会」で意見聴取 ④衆参両院正副議長の意見聴取 ⑤全閣僚会議で協議 ⑥新元号を記した政令閣議決定 ⑦天皇陛下の署名・押印で政令公布

昭和64年(1989)17日に昭和天皇崩御されました。ただちに今上天皇は即位され新元号は公布されました。大正・昭和のケースでは「1月7日をもって平成元年とする」となるのでしょうが、今回は翌日午前零時から〈平成〉を施行しました。同日改元同日施行から同日改元翌日施行に変わりました。

 〈令和〉改元は憲政史上はじめての退位による改元です。

 出典は『万葉集巻五』梅花の歌三十二首の詞書から「初春令月、気淑風和」です。天平2年(730)正月13日、太宰府長官大友旅人の邸宅に役人や文人が集まって宴会しました。そのとき梅を題材に詠んだ32人の歌が並んでいます。その詞書きにある漢詩です。国書からの初めての出典です。実は後漢の学者、張衡(78139)の「帰田賦」(『文選』)に「於是仲春令月、時和氣清」という漢詩があり、万葉集漢詩もこれを踏まえているようです。当時の漢字文化の受容は漢籍を手本にしてそれを真似るというのが基本だからです。

 「令」という文字が初めて使われたというのも話題になりました。「和しむべし」「和に令す」とも読めて、「号令」「命令」「法令」という熟語がまず浮かんできます。実は「令」を使用した元号案が過去に一つあり、それは「令徳」で幕末の改元の候補となったのですが、「徳川に命令する」と読めることから幕府が忌避して〈元治〉(1864)になったというエピソードがあります。

 日本の元号①古代篇
 
日本の元号②中世・近世篇

参考 所功元号 年号からよみとく日本史』文藝春秋1989 所功『年号の歴史』雄山閣1988 所功『日本の年号』雄山閣1977 山本博文元号 全247総覧』悟空出版2017 鈴木洋仁『「元号」と戦後日本』青土社2017 藤井青銅元号って何だ?』小学館2019 中牧弘充『世界をよみとく「暦」の不思議』イースト・プレス2019

099 日本の元号②中世・近世篇

    一元の使用期間が短くなる鎌倉時代

 元号は権力の正統性を保証するシンボルとなります。源頼朝は、平家が擁立した安徳天皇元号〈養和〉(1181)と〈寿永〉(1182)を認めず、〈治承〉(1177)を使い続けました。平家が西国に都落ち後鳥羽天皇が即位されると寿永を使うようになります。平家が関わった元号を拒否することで平家の統治の正統性を否定するわけです。

 平安後期の院政の時代から改元は急激に増えていて、鎌倉時代はもっとも頻繁に改元された時期です。平均すれば、一号あたりの使用期間は3年余りです。一番使用期間が短かったのは〈暦仁〉(1238)です。わずか74日です。これは「人が略される、つまり消えてしまう」という不吉な意味があるからということで変更されました。貴族の日記には「改元すでに年中行事の如し」という記述もあります。律令制は崩壊し新興の勢力が力をつけていく中で、相次ぐ天災や人災に有効に対処できない朝廷や貴族のあせりが改元という一種の呪術に向かったのでしょうか。

 まだ朝廷は力と権威を保持していたのですが、権力の中心は幕府に移りました。幕府は元号の発議や元号案に不快感を表明することはありましたが、室町幕府江戸幕府に比べると関与の度合いは少ないということです。

 「百人一首」も編み、新古今集を代表する歌人藤原定家が日記に面白いことを書き留めています。「年号改むといえど乱世を改めざれば何の益かあらん」「漢字を書かざる嬰児、この座(陣定〉に交わる」「議定の間、只興じて雑言を言ふこと猿楽の如し」。さすが大教養人の定家です。辛辣です。

    二つの元号が並立した南北朝

 南北朝時代に入ると南朝北朝で二つの元号が並び建ちます。古文書や遺物に残った元号を見てどちらの味方かわかります。〈建武〉(1334)は後醍醐天皇が決めました。王莽の乱を平定し後漢を開いた光武帝が建てた元号です。中国は王朝が変わるので同一元号がいくつもありますが、建武は5回使用されました。日本で「武」の字が入る唯一の元号です。北朝の〈至徳〉(1384)、〈嘉慶〉(1387)、〈明徳〉(1390)は、足利義満が決めたということです。

    兵乱を理由にした改元が増える室町時代

 室町時代は、幕府が改元の申し入れ、日時の確定、年号の選定などに介入しました。

〈応永〉(1394)は35年続いて、日本で3番目に使用期間の長い元号です。義満が求めた年号と異なったので、それを不服として以降の改元を行わせなかったという説があります。

 ひとつの元号の使用が長くなると、適当な時期に改元していくという意識があったようです。13年経ったので厄年にあたるから改元したというケースもあります。陰陽道の理屈をもとに、改元理由は何とでもつけられたようです。災異改元の理由は、兵革が圧倒的に多いのも室町時代の特長です。

    改元を理由に追放された将軍義昭

 戦国時代は朝廷が一番貧窮した時期です。財源がないので即位式大嘗祭もできないことがありました。貴族も京都を離れて地方に居場所を求め、改元に必要な人員が揃わない事態となりました。改元費用は幕府や大名が負担します。この頃に割合長く続く元号が出てくるのはこのような事情があります。

 改元をめぐって足利義昭織田信長の反目と確執がありました。〈元亀〉(1570)は信長に擁立されて将軍に就いた義昭が改元させました。そのあとすぐに改元の話が出るのですが、義昭が反対します。信長は義昭を追放しますが、その理由の一つに改元の費用を出さず改元させなかったことが挙げられています。この後すぐに〈天正〉(1573)と改元されました。

 東国で多くの私年号が出現するのが戦国の特長です。「福徳」「弥勒」「永喜」「命禄」などです。国人侍や僧侶らがつけたようで「福」「禄」「寿」などの文字が使用され、弥勒信仰や福禄信仰がうかがわれます。長くても1,2年ぐらいしか使われず、懸仏、仏像、写経の奥書に出てきます。

    改元の主導権を握った幕府

 〈元和〉 (1615) 大坂夏の陣直後に改元されました。秀吉が決めた〈慶長〉(1596)関ヶ原合戦の後も使用されたのです。右大臣秀頼の関与を嫌ったためでしょうか。元号をめぐって統治の正統性を争う様子がこういうところからも見えてきます。

 江戸時代は、幕府が改元に大きく関わりました。「禁中並公家中諸法度」(1615)の第八条に「改元は漢朝年号の内吉例を以て相定むべし、重ねて習礼相熟すにおいては本朝先期の作法たるべき事」という項目があります。これは大坂夏の陣直後に改元された〈元和〉が、唐の憲宗の元和を転用したことを正当化したと思われます。

 朝廷と幕府双方が改元を発議し、年号案と改元日の選定は事前に幕府の了解が必要でした。将軍の前で老中が検討し、幕府儒官の林家が専門的な知識を提供するという形で関与しました。改元詔書には記入されないのですが、将軍の代始改元とされるものがあります。〈寛永〉(1624家光)、〈承応〉(1652家綱)、〈享保〉(1716吉宗)などです。

 改元江戸城で大名に披露し領国に伝達されました。城下の触れをもって領民に告知され、一般民衆が元号を知るようになりました。元号と一般民衆との距離が近づいた時代です。

 改元費用は幕府が負担しました。〈元和〉は150石、後期は200400石ほどかかりました。災異改元の理由は火災が多くを占めます。京の内裏の火災や江戸の大火です。災異改元が前の時代よりも減っているので、1元号の使用期間も平均約7.3年と伸びています。

 狂歌元号に対する庶民の反応が見られます。「年号は安く永くとかはれども諸色高くて今に明和九(迷惑)」 「天保十六でなし是からどうか弘化(こうか)よかろう」 「世の中が安き政りと成ならば嘉永そう(可哀想)なる人がたすかる」

これは元号が普及したという証拠でもありますが、冷ややかな視線も感じます。

    「一世一元」論の登場

 江戸時代も中期になってくると、災異改元や革年改元への批判が出てきます。山崎闇斎元号選定の詮索が閑論議だとあげつらい、新井白石元号によって良い悪いが生じるはずもないと批判しています。やはり近代に通じる合理的な考え方が登場し始めたということでしょうか。

 中でも一代の天皇元号は一つにするという明治以後のあり方に結びつく明確な主張をしたのが、大坂の懐徳堂学主・中井竹山と水戸彰考館・藤田幽谷です。

 中井竹山は「改元ありてさして吉もなく、改元なくてさして凶もなし。・・・明清の法に従ひ一代一号と定めたき御事なり」と天明8年(1788)に述べています。さらに元号を以て天皇追号にする、記憶しやすいという長所も挙げています。

 藤田幽谷は「建元論」で、祥瑞、災異、革年改元は妄想であり、一代一号こそが理想であると主張します。18世紀末のほぼ同時期に似た主張が出たのですが、こういう考えが知識人の間にだんだん広がり、明治を迎えます。

 日本の元号①古代篇

 日本の元号③近代篇

参考 所功元号 年号からよみとく日本史』文藝春秋2018 所功『年号の歴史』雄山閣1988 所功『日本の年号』雄山閣1977 山本博文元号 全247総覧』悟空出版2017 鈴木洋仁『「元号」と戦後日本』青土社2017 藤井青銅元号って何だ?』小学館2019 中牧弘充『世界をよみとく「暦」の不思議』イースト・プレス2019

098 日本の元号①古代篇

    元号の起源と伝播

 元号はもともと年号と言いました。元号という言葉は比較的最近に使われるようになり、「元」は始まりという意味で「号」は名前を意味します。元号は、年の数え方(紀年法)として始まりと終わりがあります。西暦はキリスト生誕の年(実は生誕はBC4年)を起点にそれを紀元とし、その前後が無限にカウントされます。始まりと終わりは強いて言えば宇宙の誕生と消滅になるでしょうか。こういうシステムは他にもイスラム暦であるヒジュラ(聖遷=マホメットがメッカからメジナへ移住した西暦622年が紀元)歴、仏歴(紀元BC544)や神武紀元(紀元BC660)などあります。他に十干十二支のような60年を単位に繰り返されるシステムがあります。

 最初の元号は、中国の前漢武帝が紀元前140年に建てた〈建元〉です。それまでは皇帝の名前で即位元年から何年という数え方をしていたようです。武帝は5O数年の統治の間に11回も改元して、はじめは1元、2元、3元、4元と呼んでいました。だが数字ではなく祥瑞、すなわち天が徳政をめでて示した事象をもって呼ぶべきであると部下から進言され、漢字二字の年号を建てるようになりました。天子は空間のみならず時間も支配するという思想が根本にあります。

 約2000年の間、正統とされる王朝で354の元号が建ちました。もっとも広大な国ですから正統ではない王朝も入れると500以上の元号があるようです。1号あたりの使用期間は数年です。明、清朝で皇帝一代につき一つの元号、つまり一世一元になります。辛亥革命1911)で清朝が倒れ、元号は廃止になりました。最後の元号は〈宣統〉です。清朝の最後の皇帝が宣統帝であり、のちに満州国皇帝になった愛新覚羅溥儀です。

 元号は中国の周辺国にも漢字とともに伝わります。冊封体制下の国は中国の元号を用いて使節を送り貿易しました。独自の年号を建てることは中国からの相対的な独立を意味します。ベトナムにあった王朝は1000年にわたって独自の元号を建てました。新羅高句麗百済も独自の年号を建てた記録が残っています。しかし新羅が唐に使節を送ったとき独自の元号を用いていることを叱責されることがあり、それからはずっと朝鮮は中国の年号を使い続けます。

 元号君主制の廃止とともに使用されなくなります。現在、元号を使い続けるのは日本だけとなりました。

    〈大化〉は偽造の元号

 日本も中国の文明を取り入れて元号を建てます。最初の元号は645年の〈大化〉というのが通説です。中大兄皇子藤原鎌足が組んで蘇我本宗家を滅ぼした乙巳の変のあと孝徳天皇が即位します。即位して元号を建てるということで、代始(だいはじめ)改元と呼ばれます。大化とは広大な徳化という意味で、「大化の改新」という用語もこれからきています。しかし「大化」は奈良時代に編まれた『日本書紀』が偽造したという説が今は有力です。

 6年後に〈白雉〉と改元されます。長門の国から「白い雉」が献上されました。これはおめでたいということで改元されました。こういう改元を「祥瑞改元」といいます。儒教の思想で「天人相関説」があり、皇帝の徳が高く善政を行うとき天は祥瑞を下し、そうでなければ災いをもたらすというものです。朝廷の進める色々な改革がうまくいっているというアピールだったのでしょうか。

 元号は、次の斉明天皇天智天皇弘文天皇のときは建ちませんでした。天武天皇の686年に赤い鳥が見つかったことにちなんで〈朱鳥〉という元号が建ちます。これも祥瑞改元になるのですが、天武天皇はこのあとすぐに崩御します。だから、実際の動機は天皇の病気平癒を願ったものではないかという説があります。

 これらは7世紀の出来事ですが、元号はあまり使われた形跡はありません。この時代の木簡や金石文は、年を表記するのに干支を使っています。

 奈良時代の詔に「白鳳以来、朱雀以前」という言葉が出てきます。雉よりも鳳の方がめでたさのグレードが高いので使われたのでしょうか。〈白雉」と〈朱鳥」の元号は建ったが使用されなかった証拠になります。学術用語の白鳳文化、白鳳美術というのはこれから採用されています。

    律令による元号の制度化

 701年に〈大宝〉という元号が建ちます。対馬より金が出土し献上されたことを祝う祥瑞改元です。もっとも金出土というのはフェイクだったのですが。この年に大宝律令を制定し、そこに「凡そ公文に年を記すべくんば皆年号を用いよ」という条項が入ります。律令という当時の法律に年号が根拠づけられ、役所の文書はもちろん民間でも年号が使用されるようになります。

 8世紀の元号の特長は祥瑞改元が多いのが特徴です。瑞雲〈景雲、神護景雲、天応〉や銅〈和銅〉、金〈天平感宝〉、白亀〈霊亀神亀宝亀〉、霊泉〈養老〉といった祥瑞の出現をきっかけにしています。それが元号の名前に反映しています。亀の背中に天平という文字があったから〈天平〉、蚕がおめでたい文字を描いたから〈天平宝字〉というような手の込んだ祥瑞もあります。代始改元と祥瑞改元がセットになるのも恒例です。

 ちなみに祥瑞を伴う改元は7,,9世紀に19回行われました。祥瑞で一番登場するのが亀で6回あります。次は鳥、鉱物、霊泉、雲がそれぞれ3回、白鹿、連理木が2回、蚕が1回です。中国では四霊と呼ばれる4つの動物がありました。龍と鳳と麒麟と亀です。もっともよく元号に使われたのが龍、次が鳳、そして麒麟、亀はわずか1回です。日本では亀だけが登場するので、こんなところに両国の違いがあります。

 また4文字元号がこの時代だけに5つ続いたというのも目立ちます。これは同時代の唐の則天武后が皇帝となったとき4文字年号が使われたことの模倣です。孝謙天皇称徳天皇の時期ですから、女性であることを彼の地のケースを真似て正当化する意識があったのかなと想像します。

    元号決定のプロセス

 元号はどのように決められたかという具体的な手順は、平安時代中期以後の記録が残っています。

 ①天皇の勅を受けて大臣が文章(もんじょう)博士や式部大輔に年号案の勘申(かんじん)を命じる。文章博士は大学寮に属する学者で史書や詩文の専門家です。式部大輔は儀式を担当する官庁の次官で漢籍に通じています。 ②勘申者は漢籍から好字を選んで「年号勘申文」を提出する。選んだ元号とその出典を書いたものが「年号勘申文」で、元号を考案する人が勘申者です。 ③原案は「陣定(じんさだめ)」と呼ばれる公卿の会議にかけられ、一つずつ難陳(なんちん)を行い2,3案に絞る。蔵人を通してそれを奏上する。難陳というのは、短所と長所を議論しあうということです。 ④天皇は一つに絞るように命じられます。 ⑤公卿は議事を再開し一案に絞り奏上します。 ⑥天皇はそれを承認し、勅書を作ることを命じられます。

 天皇が意見を述べられることもあります。時代によって実権を持つ者の意向がこれに加わるのですが、形式としてこの手順は江戸幕末まで変わりませんでした。元号天皇がお決めになる、すなわち勅定されるという原則は昭和の改元まで続きます。

 大化から令和まで日本の公元号は248元号北朝含む)あります。この間天皇は91代+北朝5代。1年号あたりの使用期間は5年余り。一代あたりの改元回数は2.6回です。
 
改元回数が多いトップは、後花園天皇が36年で(在位14281464)8回改元しました。孝明天皇は21年間で(在位18461866)6回改元しています。

 文字は中国の古典から採用されました。『書経』『易経』『文選』『後漢書』『漢書』がベスト5です。儒教の経典と歴史書に集中しています。

 使用された漢字73字。多い順に永29、元27、天27、治21、応20、正19、長19、文19、安17、延16、暦16となります。

 判明している考案者は、藤原姓80名、大江姓17名、菅原姓121名。室町時代以降は菅原氏の系統に独占されます。

    革年改元と災異改元の恒例化

 平安時代の初期は一世一元のケースが続きます。明治からはそうなっていますが、それ以前では珍しいことです。桓武天皇平城天皇嵯峨天皇淳和天皇清和天皇陽成天皇、 光孝天皇宇多天皇です。

 代始改元ではいつ改元を行うかが重要な問題になります。今は天皇の即位とほぼ同時に改元されているのですが、これも長い元号の歴史では例外です。平城天皇は即位と同日に〈大同〉(806)に改元されたのですが、このとき批判がありました。「一年のうちに元号が二つあると二人の天皇に仕えなければならないので混乱する。孝子の情に反することである」。これ以後、即位の翌年に改元する瑜年(ゆねん)改元というルールができました。中国では瑜年改元なのでその慣習に従ったと思われます。

 平安時代に入って出現したのが革年改元です。干支の辛酉と甲子にあたる年は様々な事件が起き政治が乱れるという讖緯説に基づきます。中国で生まれた思想ですが、人心を惑わす考えだということでこの説を説いた緯書は禁書になりました。この説を持ち出して改元するべきだと主張したのが、文章博士三善清行です。最初の革年改元は901年の醍醐天皇の治世の〈延喜〉です。901年というのは菅原道真太宰府に左遷された年です。陰謀の主役は左大臣藤原時平ですが、三善清行も加担して辛酉革命説をそれに利用したことがわかっています。清行の勘申文が残っています。過去の辛酉の年にはこんな事件があったという事例を並べているのですが、かなり捏造されているとのことです。甲子の年にも変事がある(甲子革令)との説から改元されました。両者は革年改元と称され恒例化して江戸幕末まで30回繰り返されました。

 京では道真左遷に関係した者に不幸が続き、道真の祟りだとして恐れられます。醍醐天皇の治世に日照りと水害、疫病を理由に最初の災異改元〈延長〉(923)がありました。

 10世紀は日本の改元の歴史の中で画期となった時期です。祥瑞改元が消え、革年改元が恒例化し災異改元が爆発的に増えます。疫病、風水害、火災、厄年、旱魃地震、兵革、彗星出現、飢餓などを理由とします。平安と鎌倉時代は疫病が一番多くて、理由となった回数は大体ここに並べた順番です。

 道真の進言で894年に遣唐使派遣が中止され、10世紀以降に国風文化が育っていくというのが定説です。元号もこの時期から「国風」化が進むのでしょうか。

 元号の決定権は、天皇が幼ければ摂政、そして実力のあった関白、上皇法皇へ移っていきます。

 日本の元号②中世・近世篇

 日本の元号③近代篇

参考 所功元号 年号からよみとく日本史』文藝春秋2018 所功『年号の歴史』雄山閣1988 所功『日本の年号』雄山閣1977 山本博文元号 全247総覧』悟空出版2017 鈴木洋仁『「元号」と戦後日本』青土社2017 藤井青銅元号って何だ?』小学館2019 中牧弘充『世界をよみとく「暦」の不思議』イースト・プレス2019

097 元号の凋落と西暦の標準化

 平成から新元号改元が迫る。退位による代替わりのため昭和の終わりの時のような自粛ムードはなく、新元号についても堂々と話題にできる。巷では新元号の予想クイズが盛況だという。ほぼたしかに予想できるのは、頭がさ行、た行、は行、ま行の読みの元号はないだろう。アルファベットのS(昭和),T(大正),H(平成),M(明治)との重なりを避けるためである。

 紀年法として日本では元号と西暦(グレゴリオ暦)が併用される。敗戦後、日本国の主権者が天皇から国民に替わったことから、権力者が時間と空間を支配するシンボルである元号への反発もあった。しかし、国民の多数が元号に愛着感を持つという事実を背景に、「元号法」が1979年(昭和54)に成立、元号に法律的な根拠が与えられるようになった。その頃の政府のアンケート調査では、国民の9割近い人々が西暦より元号を普段使用しているという数値が出たらしい。あの頃は元号使用派が圧倒的多数であったことは了解できる。昭和生まれが多数を占める中で、金魚が水槽の外に出られないように昭和という時間の中で私たちは呼吸していたのだ。

 あのアンケートを見て思うのは、時代は変わったなと言うことだ。読売新聞が1989年(平成元年)に行った調査では、〈元号を使いたい64% 西暦を使いたい28%〉という数値が出た。同じく2018年(平成30年)は、〈元号を使いたい50% 西暦を使いたい48%〉であった。今年の朝日新聞の調査では、〈新元号を使いたい40% 西暦を使いたい50%〉ということである。

 元号使用派vs西暦使用派の勢力地図は、この40年間で様替わりした。これは誰しも認める事実だろう。私自身の感想で言えば、元号使用派がまだ半数近くあることが意外でさえあった。たとえば、1995年の阪神大震災とオウム・サリン事件、2001年のアメリカ同時多発テロ事件、2011年の東日本大震災と覚えていても、これらが平成何年であったかは直ぐに浮かんでこない。年数を数えるのはもちろん、今年は何年と意識するのも西暦を使う。たまに役所の窓口で年月日を記入するときに平成という年号を意識するぐらいである。

 私が西暦派になったのはすでに昭和の終わりが見えてきたころからであるが、決定的になったのはやはり平成に替わってからである。社会も私自身の日常も昨日と今日変わりなく連続しているのに、年号が突然変わって年数がリセットされ元年から始まる。新しい年号を寿ぐような気持にはなれなかったし、一種の儀式として他人ごとのように感じた。1989年として迎えた年を1月8日から平成元年と意識変換することもなく、そのまま今日に至っていると言えばいいか。

 元号というのは時間に断絶を作る。始まりと終わりがあって、その前と後の時間とのかかわりを断つ。そのことにむしろ積極的な意味がある。気分を一新するのは悪いはずもないが、年数を数えるという用向きではまったく適さない。平成改元によって、それを身をもって体験したのである。

 平成元年が1989年であったことも都合が悪かった。昭和元年は1926年であったから西暦年との差を25として比較的変換が容易であった。さらにミレニアムをはさむことで面倒になった。逆に西暦は世紀末と新世紀を迎えるイベントで存在感を増した。

 元号の存在感の凋落は、元号最盛期であった昭和の後半から実はきざしていたように思う。昭和20年代、30年代という言葉はよく使われるが、40年代、50年代とはあまり聞かない。私は昭和27年の生まれであり、この時代を過ごしてきたのでよくわかる。昭和40年代というよりも1960年代、70年代という表現にリアリティがある。そして80年代、90年代、ゼロ年代と続く。

 高度経済成長以後、私たちの時代意識に根本的な変化が生じた。元号という日本だけで通用していた時間=空間意識は、地球上の世界にひろがったのである。日本にいても世界は情報としても物質的にも日常生活に入り込んでくるようになった。いわゆるグローバル化はこのころより始まっていた。世界との同時代性を意識せざるを得なくなったといえる。

 デジタル化の進行とともに、この流れは強まることはあっても逆戻りすることはないだろう。西暦が事実として標準となり、元号は今後役所の公文書の中で棲み続けるということになりそうだ。

096 奈良から始まった作家・森敦の放浪

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 作家、森敦(1912-1989)が亡くなって今年で30年になる。『月山』で第70回芥川賞を受賞したのが昭和49年(1974)、敦が62歳の時である。それ以後、精力的な執筆活動のほかにテレビやラジオへの出演、対談や講演などにも活躍し、時代の寵児的な存在となった。還暦を過ぎての「デビュー」ながら、おかっぱ頭で少年のような風貌、超俗然とした印象にして巧みな話術の持ち主、世間の注目を引くに十分な要素をそなえていたが、なにより強く彼を彩ったのはその経歴であった。

 森敦は明治45年(1912)、長崎市に生まれた。生家の家業の都合で植民地の朝鮮に渡り、その地で小学校と中学校の学業を修める。昭和6年に旧制第一高等学校に入学したが、翌年に退学、横光利一に師事して文学修行、22歳で大阪毎日新聞に「酩酊船」を掲載し注目された。若き日の太宰治檀一雄らと交流があり同人誌をつくる。しかし、それ以降、文壇の表舞台からは消え、日本各地を放浪して過ごした。40年間の雌伏を経た「再デビュー」であった。その数奇にしてユニークな人生に興味が向かうのも当然である。

    東大寺塔頭勧進所へ寄寓

 彼の年譜を見ていると、「昭和11年(1936)24歳、奈良、瑜伽山(ゆうがやま)の山荘で暮らす」という項目がある。瑜伽山奈良公園の荒池の南を限る小さな丘である。中世の山城が築かれた場所であり、今も樹木に覆われた頂近くには瑜伽神社や天神社が鎮座する。森敦と奈良とのつながりを見ていくことにしよう。

 彼のエッセイの中に奈良で過ごした時のことが出てくる。奈良に来るきっかけを作ったのは、兵本善矩(ひょうもとよしのり)という奈良・五條出身の文学青年であった。森が東京で同人誌仲間の壇一雄太宰治らと疾風怒濤の無頼の日々を送っていた頃、兵本の小説「靫の男」が小林秀雄の推挽で「文藝」に掲載された。誰もがその才能に目を見張ったという兵本は、奈良・高畑の志賀サロンの常連であり、奇行の持ち主であった。上京した兵本は同世代の森の仲間らとつきあいさんざん手こずらせたようだ。彼から東大寺の上司海雲が面倒を見るから奈良に来ないかという手紙が来たのである。その時、「いままでの生活をふっきる絶好の機会だ」(『わが青春わが放浪』)と思ったらしい。

 昭和10年(1935)7月、森は上司海雲の住む東大寺塔頭勧進所に寄寓する。上司はのちに東大寺の管長になり大仏殿の昭和の大修理を手がけた人である。志賀直哉を始め多くの作家、芸術家らと親交があり、彼らから慕われた。森も回想記の中で上司の「気がやさしく大らかで面倒見の良さ」を偲んでいる。上司は勧進所にいた頃を「悪質の禅坊主や不良文学青年を居候において、ご乱行と自称して破戒無慙な日夜を送っていた」とのちに書く。ここでもまた青春の彷徨する日々があった。 

 松原恭譲師の東大寺戒壇院で行われた「華厳経五教章」の講義を森は聴聞している。その講義は1時間やって1行か2行しか進まないものであった。森は自らの文学理論を華厳経の「一即一切 一切即一」を用いて説明するのが常であったが、森と東大寺の出会いに不思議な縁を感じる。森が奈良に移ったのは偶然であろうが、もともと彼には仏教への傾倒があり、それが奈良とのつながりを用意したのだろうか。

 勧進所ではもうひとつ大きな出会いがあった。生涯の伴侶となる前田暘と恋仲になった。暘は奈良女高師附属高女に通う女学生であった。亡くなった父が、上司の学んだ龍谷大学の恩師と京大で同窓であったという縁で、母親と一緒に勧進所へ遊びに行くことがあり、お互い見初めたという。

    瑜伽山の山荘へ移る

 森が勧進所にいたのは半年ほどで、上司が結婚したため、瑜伽山へ移る。瑜伽山の描写を彼のエッセイから引用する。

 「奈良公園には志賀直哉のいた高畑から、鷺池、荒池に沿って南を限りながら延びる丘陵がある。瑜伽山はそれが奈良ホテルに至って尽きようとするあたりの称で、わが山荘はしばしば方丈を偲ばすねとひやかされたりしたものの、松林におおわれ、いながらにして眼下に拡がる僅かな町家の彼方に、たたなずく青垣に抱かれた大和盆地の全円を見はるかし、眉のように引かれた大和三山を遥かに眺めることができる。」(『わが青春わが放浪』)。瑜伽とはヨガのことでこの地名も彼の関心を引いたに違いない。というのも瑜伽の意味を論じる森の文章を我々はよく読むことになるからである。

 明治39年生まれの奈良の写真家、北村信昭の著書『奈良いまは昔』に森が仮寓した家の写真が載る。おそらく瑜伽山の南の路地から撮ったものだろう。手前に路地の家の瓦屋根が写り、そう遠くない高台にガラス戸の長い縁側と切妻屋根の家が仰観できる。背の高い松がまわりに伸びる。撮影年は不明だ。少なくとも1983年(昭和58)までは、この家はあったようだ。森の養女である森富子が編んだwebの年譜に写真があって、それには家の南側の崖が崩れて縁側が浮いたようになっている様子が写る。地元の人が森敦に郵送したようで、封筒の消印は昭和58419日とあったらしい。

 現在、瑜伽山の高台に森が借りた家はもちろん他の民家も存在しない。しかし、その場所は推測できる。瑜伽神社の東に修復した跡もまだ新しい斜面が広がる。そこに彼の住んだ家があったのだろう。路地の両側には古い民家が残り、昭和の雰囲気が濃厚である。

 森が奈良をいつ引き揚げたかはわからない。エッセイでは奈良に10年過ごしたと書くが、昭和15年には東京の富岡光学機械製造所に就職しているから、奈良にいたのは長くても3,4年だろう。この間、ずっと奈良にいたのではなく、奈良を拠点にして捕鯨船などの漁船に乗ったり、樺太に渡って北方民族と生活したりしている。幼稚園を経営していた叔母・細川武子から家購入のためにと貰った大金四千円を生活費につかったようだ。

    瑜伽山時代の暮らし

 森富子の編んだ年譜に次の一節がある。

 「ここでの生活は浮世ばなれをしていて、信じがたく「嘘くさい!」を(私=森富子は)連発していた。芸妓の福造が山荘に来て髪をとかし着物の襟を整えたという。食事は手を叩くと、山荘の裾野に並ぶ家々の女性たちが、お銚子つきのお膳を持ってきたという。「お願いしたわけではない」と言い、後年訪ねる機会があって訊くと、「当番を決めてお膳を運んだ話は、親から聞いています」と応えた。嘘ではなく本当だったのだ!」

 『奈良いま昔』に奈良時代の森の暮らしをうかがえる文章がある。山荘というのは地元の人の離れ家で、当時は台所と居間の二間だったという。

 実は森の借家のほんの近くに前田暘の一家が住んでいた。「食時になると、(前田)夫人は門口に立ち、瑜伽山の頂にある一軒家を仰ぎながら、ポン、ポン、ポン、ポンと拍手するのが日課だった。その合図に応えて、二十四,五歳の青年が、その都度、瑜伽神社の石段をおりて来る」とは、北村が当時のことを知る地元の人から昭和49年に聞いたことだ。また、よく利用した書店の店主は「いつも着物をキチンと着て、折り目正しい青年だった。非常に勉強もするし、本も読む。書生っぽい人で、一面、なかなか大きな話をする人だった」と話す。

 北村自身は森とのつきあいはなかったが、共通の友人である兵本からモリ・トン(仲間からはそう呼ばれていた)のことは「耳にタコができるほど」聞かされた。「相当の毒舌家であった兵本善矩君だが、この森さんだけは非常に高く買っていた。彼がいかに横光利一門下の秀才であるかを、私も何回となく聞かされていた。………。“万巻の書を読んだ”という表現で森氏の読書家ぶりが紹介された…」

 吉野出身の詩人で夭折した池田克己も瑜伽山の森を訪ねている。彼が森について後年語った言葉が、森の『文壇意外史』の中に出てくる。池田が森を訪ねたとき詩人の北川冬彦が居合わせた。「あのときは、ほんとに驚きましたよ。ぼくとほとんどおなじとしの違わぬ森さんが、北川さんほどの人をつかまえて、『ものを書くには、頭で考えるんじゃない。頭と指の先までの距離で考えるんだ。それにはこうして和紙に毛筆で書くのが、ちょうどいい考える速度だ』なんて言って、ゆうゆう水滴をとって、硯に水を入れたりするんですからね」。森の異才ぶりを彷彿とさせるエピソードである。

 森が奈良にいたときは志賀直哉の高畑時代と重なるが、いわゆる高畑サロンとの接触はなかったようだ。しかし、直哉一家を公園で見かけたり、二月堂の茶屋で酒をご馳走になったことがあるという(『わが青春わが放浪』)。

    奈良再訪

 大和郡山へもよく遊びに行ったという。本通りにあった「こんにゃくや」という店で牛すきを食べたことを懐かしんで、芥川賞を受賞した後の奈良再訪でわざわざ訪ねている。店は残っていたが、「僅かばかりの玩具や漫画本を並べた」小店に変わっていて、店の老女と昔を語る(『わが風土記』)。

 奈良再訪の際の事実かフイックションかわからぬ瑜伽山にまつわる奇妙な話を森は書いている。荒池の横を瑜伽山に行こうとすると、釈迦十大弟子さながらの痩せた見知らぬ老人が出てきて声をかけられた。山荘は昔のままにあって老人が一人で住んでいるという。山荘へ行こうと誘われ、「奥さんはお元気ですか」とまで尋ねられる。森はこれから行くところがあるからと断ると、老人はあえて勧めず「にこやかに笑い、ひとり瑜伽山の山荘へ向かうがごとくであった」(『わが青春わが放浪』)。

 妻、暘の母の故郷は山形酒田であった。これがため、森は山形に導かれ庄内平野を取り巻く月山や鳥海山を舞台とする後の森文学が生まれた。奈良は小説の舞台とはならなかったが、奈良での出会いが森文学を準備したといえる。

   下北山村でダム建設

 森と奈良とのコンタクトはもう一回あった。1957年に電源開発株式会社に入社し和歌山県尾鷲市の連絡所に赴任する。奈良県吉野郡下北山村下池原で始まった池原ダムの建設のため下北山村に滞在したのである。森は45歳になっていた。仕事は渉外、用地買収での村人との交渉だったという。3年4か月の勤務ののち退職している。森はここでの体験をもとにした小説を書きたいと対談で話したりして、実際に執筆に着手したが完成しなかったようだ。

   森敦仮に宿りし瑜伽山大和三山眉の如しと

   公園に直哉の一家敦見き昭和初年の奈良の某日

   熊野なる屋根に石置く山村にダムを作りて敦の三年

 参考 森敦著『わが青春わが放浪』福武書店1982年 森敦著『わが風土記福武書店1982年 森敦著『文壇意外史』朝日新聞社1974年 北村信昭著『奈良いま昔』奈良新聞1983年 森敦資料館http://www.mori-atsushi.jp/

 

095 日本最大の円墳、富雄丸山古墳

富雄丸山古墳頂上
丸山古墳頂上からの眺望

 富雄丸山古墳(奈良市丸山1丁目)の奈良市埋蔵文化財センターによる発掘調査の現地説明会が1月26日にあった。古墳のそばの公園で全体説明があり、そのあと古墳の頂まで上り下りして現地を見学した。筆者はこの古墳の近くに住んでいるが、普段はフェンスがめぐらされ雑木で覆われた小山という印象である。今回、古墳の敷地に入ってその大きさと形を実際に知り、その頂から眺望するという貴重な体験ができた。

 富雄丸山古墳は1972年、周囲が住宅開発されるときに県教育委員会によって調査された。4世紀後半に築造された円墳で直径86m、三段に掘りくぼめられた粘土槨に木棺が埋葬されたこと、円筒、蓋、家形埴輪等があったことがわかっている。京都国立博物館に所蔵される丸山古墳の副葬品には、刀子、斧、ノミ、ヤリガンナなどの石製模造品、鍬形石、碧玉製合子があり、重文に指定される。また丸山古墳出土とされる舶載三角縁神獣鏡天理大学参考館に3面、地元の弥勒寺に1面保管される。

 築造時期の4世紀後半は、大型古墳群の場所が奈良盆地南東部から北部へ移った時期である。佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群の五社神古墳(神功皇后陵)や宝来山古墳(垂仁天皇陵)なども同じころに築かれ、丸山古墳はこれら大王級の古墳と近い距離にある。

 一昨年の空からのレーザー測量により、丸山古墳の直径が110mあることが新たに判明した。この数値は円墳として国内最大であり俄然注目されるようになったのである。

 昨年12月から再発掘調査が始まった。4つの発掘調査区が設けられ、古墳の規模と形状、副葬品が調べられた。古墳の裾と見られる地点が確認され、これから直径109mと復元された。なお調査は5年計画で進められるためにこの数値はまだ確定したものではない。

丸山古墳葺石
葺石

 古墳は地山の尾根を利用して三段に整形し盛り土してある。斜面の敷石は多くが崩れていたが、近くの富雄川の小石であり、他の古墳の敷石に比較するとかなり小さいらしい。一段目の平坦部の幅は約7.2m、二段目が約8.8mと、この大きさは大王級の古墳に匹敵するという。平坦部の中央からは円筒埴輪の欠けた基底部が出土した。被葬者を囲い込むように約20cm間隔で並んでいた。

富雄丸山古墳円筒埴輪
2段目平坦部の円筒埴輪

 東北部に造り出しがあった。現説資料の地図から計ると縦幅約15m、横幅約43mほどの大きさである。いわゆるホタテ貝型古墳とするには方形部が小さすぎる。円墳にしてこのような造り出しを持つものが他にあるのだろうか(追記参照)。前方後円墳の造り出しは祭祀を行った場所とされるが、この造り出しも同じ使われ方をしたのだろうか。造り出しの西側は二段となり、平坦部は幅約3.8mあった。その中央から円筒埴輪列が検出された。埴輪の間隔は約10cmである。

富雄丸山古墳造り出し
造り出しの基底石

 墳頂部の墓壙も表面が調査され、その輪郭の位置情報が確認された。今回の発掘調査では一般参加の体験学習が実施され、墳頂部の調査に延315名の市民が参加した。ここからは鍬形石、管玉、鉄器、埴輪の破片が検出されている。

 調査範囲の木は根元から刈られ草も払われている。土がむき出しになって、そのスケール感を体感できる。高さ15m、半径55mの円墳と言ってもピンとこないが、裾から見上げるといかに巨大であるかがわかる。さらにその山肌を一歩ずつ登ると親近感が湧いてくる。1600年前の人々の土木工事、山を削り均し土を盛りあげる、河原から石を運び敷きつめる、埴輪を作り並べるといった作業が目の前に浮かんでくるのだ。

 頂上からの景色は素晴らしかった。眼下北には富雄川をはさんで「道の駅」予定地の駐車場、イオンタウンの商業施設が広がる。西には第二阪奈道路の高架道が伸びる。遠景の丘陵には新興住宅地の住宅群。急速に変貌する故郷の風景である。高架道と重なるように暗(くらがり)越奈良街道が通っている。北大和と難波を結ぶ主要街道であり、古代から多くの往来があっただろう。丸山古墳は富雄川と奈良街道が交差する要衝に築かれた。この地域を支配した豪族と思われるが、古墳の規模と副葬品の豪華さから相当の勢力を誇った人物だったのだろう。

    富雄川河原の石を敷きつめて山肌覆う丸山古墳

    かたはらを第二阪奈の高架過ぐ街道沿いの古墳に立てば

    円墳の裾はこことや調査員指さす先にかすかな段差

富雄丸山古墳発掘調査区
丸山古墳発掘調査区

参考 現地説明会資料 奈良歴史漫歩No034「直径86m=最大規模の円墳、富雄丸山古墳」http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm037.html

追記 寝屋川市太秦古墳群(5世紀中葉~6世紀前半)にある太秦高塚古墳(直径37m)は造り出しを持つ。富雄丸山古墳とそっくりの形状で古墳北西部に付属する。

094 春日信仰の二層構造

    東大寺山堺四至図」の「神地」

 「東大寺山堺四至図」を見てまず誰もが注目するのは、画面ほぼ中央に四角に囲んだ枠内に「神地」と書き込まれた箇所である。「御嵩山」と記入する円錐型の山の西側ふもとに位置する。「神地」も「御嵩山」も東を上に西を下にして記入される。「神地」は今の春日大社本社が存在する場所と見ていい。

 春日大社の創建は社伝によれば768年、常陸国鹿島神宮武甕槌命下総国香取神宮経津主命河内国枚岡神社天児屋根命比売神が勧請され、この地に四殿が建ったことをもってする。それより12年前の同一の場所は「神地」と称されて、建物もなく祭祀を行う広場があったように想像できる。現在の本殿は南向きだが、当時は御嵩山を東向きに礼拝するような形であったようだ。

 実際に御嵩山のふもとで行われた祭祀が『続日本紀』に記録される。718年(養老元年)に「遣唐使、神祇を御嵩山の南に祀る」とある。航海の安全と目的の成就が祈られたのだろう。遣唐使の派遣は当時の国家の大事業であり、御嵩山の神地は国家レベルの祭祀が行われた地であり、国家が管理していたと思える。

 このようになったのは、もちろん710年の平城遷都以降であろう。平城遷都の詔に「平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮をなす」とある。平城京が当時の風水思想を意識して選地されたことがこれによりわかるが、東の青龍たる春日山および御蓋山が京の条坊割りを決める基準点となったのではないだろうか。古代の三条大路を踏襲する奈良のメインストリート三条通りの延長上に春日大社御蓋山がくる。三条通りは西の京外で南西方向に曲がり暗(くらがり)峠越え奈良街道に通じて難波へ向かう。すなわち西の白虎たる生駒山と東の御蓋山が一本の大路で結ばれる。御嵩山は平城京のグランドデザインの要であったともいえる。

 春日奥山は佐保川、水谷川、能登川の源流だ。秀麗な円錐をなす御嵩山は水の神様として遷都以前からも住民の信仰を集めていただろう。三輪山大神神社が元来、水神を祀るといわれるように、土地の人々にとって切なる願いの対象はまず農事にかかわることであった。

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東大寺山堺四至図」の「神地」

    春日社創建以前の春日信仰

 768年の春日大社創建以前の信仰を伝える境内の形跡や伝承を探ってみたい。

 春日大社境内の遺跡で注目されるのは、築地遺構である。ちょうど神地をコの字型に囲むように設けられていた。北は万葉植物園、西は鹿苑、南は率川上流の菩提川まで総延長約1kmにおよぶ。

 2カ所で発掘調査が行われた。基底部の幅は2.45m~2.9m、版築地業が施され、小石を詰めた暗渠や瓦が多量に出土した。奈良時代初期の築造と見られる。また奈良時代の土馬が出土して、水に関する祭祀が行われていたことも明らかになった。平城宮を囲む築地に匹敵する大構築物である。

 御蓋山の南麓に摂社の紀伊神社がある。その東隣に石が多量に堆積し山腹を這い上っていく。石敷きの幅は最大37mで一定しないが、段を整えて両縁は石を組み、その間に人頭大の石を全面に敷く。石敷きは山頂の東側を通り、北に向かって下りていく。この遺構は磐境(いわさか)、すなわち聖域を区画する目印という意見が有力だ。奈良時代以前に作られたという説もある。

 境内には磐座が多数鎮座する。本社楼門門前には「赤童子出現石」がある。本殿床下や水谷神社本殿床下には漆喰で塗り込められた岩石群があり、大社創建以前の祭祀の一端がうかがえる。

 「つんぼ春日に土地三尺借りる」と呼ばれる地主神の榎本神社にまつわる説話がある。

 武甕槌命は、地主である榎本の神に「この土地を地下三尺だけ譲ってほしい」と言った。榎本の神は耳が遠かったために「地下」という言葉が聞き取れず、「三尺くらいなら」と承諾してしまった。そのため春日野一帯の広大な神地が武甕槌命のものになった。しかし約束通り境内の樹木は地下三尺より下へは延びないという。

 榎本社は本社回廊内の南西に回廊を占拠するような形で鎮座する。本社参拝前にはかならず参るべきとされる。武甕槌命の強欲さを茶化したような説話である。しかし、また別の意味にも受け取れる。春日明神がおられるのは地上から三尺までの範囲で、それより深い地は土地の神様の領分ということかもしれない。

 春日大社に参拝して不思議に思うのは、あれだけの格の高い神社でありながら、本社の境内が狭隘で社殿も全体に小ぶりであるということだ。これは本社の敷地が御嵩山の斜面が立ち上がる際にあって地形上、大きな建物が建てられないということによるだろう。神地を踏襲することにこだわったわけだ。さらに社殿を建てやすいように整地するのではなく、土地の形状をそのままにしたからでもある。

 たとえば本殿は第一殿から第四殿まで土地の高低に即してわずかな段差ながら階段状に建つ。実はこれを教えられたのが、「ブラタモリ」を見ているときだった。この指摘に目から鱗が落ちたような気になった。元の神地の形状を変えないために微妙な段差ができたのだった。

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春日大社四殿、微妙な段差がある

 社殿の春日造りも、敷き土台の上に柱が建つ。掘っ建て柱は土地を傷つけるから、それを回避するために春日造りがあみ出されたのではないだろうか。

 これは春日社の一貫した鉄則であって、時代が下っても土地を改変するような試みは厳しく制限された。春日山が禁足地になったこともこの方針の延長上にあるだろう。

 春日四神は他所から勧請された神である。もともとこの地には地に根差す神がおられて祭祀が行われていた。後から来たよそ者の神は社殿に祀られているが、元からおられる神に遠慮する、或いは尊ぶ精神が、春日大社の形に現れているように思える。これを指して、春日信仰の二層構造と呼びたい。

   若宮様の誕生――春日信仰古層の復活

 春日の祭神は公式には本社四殿に祀られる武甕槌命経津主命天児屋根命比売神であるが、その基層には土地固有の神様が根をおろす。それが表面に現れ明確な形になるのは、若宮の誕生とおん祭りの創始であった。長保5年(1003)、本社四殿の板敷にところてん状のものが落ちてきて、その中から五寸ほどの蛇が現れ四殿の中へ入っていったと社伝は記す。蛇の形をとった神様は、三殿と二殿の間の獅子の間に祀られていたが、長承4年(1135)に現在地に本殿が創建され移座した。翌年、若宮の例祭のおん祭りが始まる。

 若宮神社の祭神は若宮様と親しみをこめて呼びならわされるが、公式的には天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)である。この神名は江戸時代からのもので、それまでは五所王子(ごしょのみこ)と称された。本社の春日四神に対して五番目の神様という意味らしく、四神と同格の神様として明治維新までは扱われた。若宮様は謎の多い神とされる。しかし出現の姿が蛇であったことは、水にかかわり土地に根差す神であったことを示唆する。若宮の社殿が西面するのは、御嵩山を仰ぐ東大寺山堺四至図の神地の礼拝を彷彿させる。おん祭りは大和侍の興福寺衆徒が主催する。興福寺が関われなかった勅祭の春日祭に対抗するかのように大和一国を挙げての祭である。

 大和の住人は、藤原氏氏神で朝廷からも厚遇される権威と権力を利用して自己の利益を守ったのだろう。そして春日神社は興福寺と一体化して大和の住人を結集させ奉仕させたのだろう。信仰の二層構造は補完しあって春日信仰をより強固にしていったのである。

093 金鍾山房と香山堂

 

 神亀4年(277)閏9月、聖武天皇光明皇后の間に待望の男子、基(もとい)王が生まれた。天皇の喜びは尋常ではなく誕生から1か月あまりの赤子を皇太子に任命した。翌年の8月、基王は重い病気になったため病が癒ることを願って観音菩薩177体、観音経177巻を造り礼仏、転経することを勅した。しかしその甲斐なく翌月に基王は亡くなり、那富山(なほやま)に葬られた。さらに皇太子の菩提を弔うため、従四位下智努(ちぬ)王を造山房司長官にし智行の僧九名を選び山房に住まわせることにした。これらは、奈良時代の正史『続日本紀』に記される。

 基王の死去はのちに長屋王の変の原因となり、天皇の仏教への過大な傾倒や天平以降の頻繁な政変を引き起こす遠因になったとも推測でき、奈良時代の政治史を見ていくうえで重要な事件である。

 山房については、正倉院文書にも出てくる。天平8(736)の写経目録に、元正太上天皇の病気平癒を祈願するために皇后宮識が命じて「薬師経」を書写させ山房に納めたというものである。さらに天平11年(739)の文書には、皇后宮識が派遣した役夫の出向先が金鍾山房とある。

 平安時代後期に編纂された東大寺の記録『東大寺要録』は、東大寺の起源とおぼしい記事に「天平5年(733)聖武天皇が良弁のために羂索院を創立す。古くは金鐘寺と号す」と掲載する。

 『続日本紀』の山房、正倉院文書の金鍾山房、『東大寺要録』の金鐘寺と記される史料をつなぎ綜合して、聖武天皇光明皇后が亡き基王の菩提のために建立した山房は、金鍾山房であり、東大寺の起源である金鐘寺になったという通説ができた。

 天平17年(745)紫香楽宮を放棄して平城京に還都したあとすぐに東大寺で廬舎那大仏の造仏が再開された。天皇入魂の事業が東大寺を選んで行われたことに、山房を起点とする天皇と寺との深いつながりを想定することは説得力があって、この金種山房説は受け入れやすい。

 しかし、この通説とは別に山房について新たな説が有力になりつつある。正倉院宝物の「東大寺山堺四至図」は天平勝宝八歳(756)に東大寺の寺域を示すために描かれた絵図であり、平城京東郊の当時の地理を知るうえで貴重な史料である。絵図の南東、春日山中に香山(こうせん)堂というお堂が描かれる。新薬師寺の方から能登川沿いにたどる道が香山堂へと向かう。それに山房道と書き込まれる。基王のため建立された山房は香山堂ではないかというのが新説である。

 香山堂については『東大寺要録』に収録された『延暦僧録』逸文光明皇后の事績として登場する。

 「皇后また香山寺金堂を造る。仏事荘厳具足す。東西楼しゃ帯に影り、左右危観虚敞たり。雅麗名づけ難し。皇后また香薬寺九間仏殿を造る。七仏浄土七躯を造る。請いて殿中に在り。塔二区を造る。東西相対す。一鐘口を鋳る。住僧百余。僧房。田薗」

 光明皇后が、香山寺と香薬寺を創建したことが記され、香山寺が香山堂、香薬寺が新薬師寺とされる。香山堂の創建と景観を伝える唯一の文献である。これによれば、伽藍は整い、東西に二つの楼が聳え、この上なく美しかったという。

 昭和41年(1966)に奈良国立文化財研究所によって香山堂が現地調査された。海抜421mから442mの山麓に、平坦な六つの段がある。もっとも広い段は、東西32m、南北22m。礎石と見られる石も散在して、少なくとも相当規模の四棟以上の建物があったようだ。平城宮出土瓦と同笵の瓦も見つかっている。しかし、本格的な発掘調査は行われなかったので、詳しい伽藍配置や建物規模はわからない。

 香山堂(香山寺)についての従来の解釈は、新薬師寺の前身寺院であり、新薬師寺が創建された後はその奥の院となったという説である。天平17年(745)9月、難波宮行幸した聖武天皇は体調を崩し重体に陥る。その回復を願って講じられた策の中に、京師や畿内の諸寺および諸の名山浄処において薬師悔過を営むこと、七仏薬師像の造立があった。新薬師寺の創建は『東大寺要録』には「天平19年(747)3月、仁政皇后、天皇の不予に縁りて新薬師を立て、並びに七仏薬師像を造る」と著される。このため、天平17年の詔が新薬師寺の創建につながったとされる。この詔で最初に創建されたのは香山寺であり、ここで薬師悔過が営まれた。しかし、七体の薬師像を納める仏堂を建てるには狭隘なので、平地を選んで新薬師寺の仏堂が建てられた。新薬師寺は香山薬師寺、香薬寺とも別称されるので、両寺は深い関係にあると推測される。よって香山寺は新薬師寺の前身寺院であり、やがて奥の院的な存在になったというわけである。

 この説も説得力があるのだが、現地で採集された平城宮の瓦と同范の瓦は奈良時代初期に属し、天平17年の勅をもって創建されたという説に矛盾する。瓦の年代観からすれば、山房は神亀から天平元号が変わるころに創建されていることになり、山房説の強力な支援材料になる。

 奈良文化財研究所の渡辺晃宏氏は、山房解の表書を持つ皇后宮識にかかわる二条大路木簡3点(天平7年、天平8年、年代不明の3点)と平城宮の東院の溝から出土した山房解の木簡を紹介して山房説を主張する。二条大路木簡には「楼閣山水図」が描かれたものがあり、中国の屏風絵の模写と考えられていたが、実は山房の描写ではないかという大胆な仮説を提唱される。

 山房説の山房はのちに香山堂あるいは香山寺の名称に変更されることになる。その時点や理由は不明であるが、寺の性格の変化が想定される。元正太上后の病気平癒祈願のため薬師経を納経したことが、そのきっかけになったのだろうか。また木簡には延福という僧の署名があり、彼は東大寺大仏開眼供養会で読師を務めた。『日本紀略』康和4年(967)に、香山寺聖人正祐が東宮憲平親王の御悩のため参じたことが載る。京都清水寺が所蔵する古写経に天元5年(982)の日付と香山寺の名を残す奥書がある。10世紀末を最後として香山寺の記録は絶える。

 新薬師寺に香薬師像という国宝にして白鳳仏の傑作といわれる仏像があった。昭和18年に3度目の盗難にあい、長らく所在不明である。写真で見ると童顔の神秘で無垢な表情に魅せられる。この仏像の由来は分からないが、なぜか香山堂を連想する。香という字に注意がいき、寺の滅亡と仏の災難が結びつくせいだろうか。

 東大寺長老の森本公誠氏は、山房説に賛意を示しながら金鍾山房説との両立を図られている。『東大寺要録』は基王の早逝と山房建立の経緯を詳細に引用して、これと東大寺誕生とがかかわっているかのように示唆している。天平5年に聖武天皇は良弁のため羂索院あるいは金鍾寺を創立したが、羂索院は不空羂索観音を本尊にする法華堂(三月堂)を中心にした寺院である。最近、法華堂の須弥壇が修理され、その際の調査によれば須弥壇不空羂索観音も創建当初からのものであることが判明した。さらに年輪年代法が示すところでは、須弥壇および法華堂の木材の伐採年が730年前後になる。これにより羂索院の創立が天平5年(733)であるという記述の真実性が高まった。

 基王の病気平癒祈願のため177体の観音像の造仏が命じられたものの1か月後に親王は逝去した。このとき制作に着手された観音像を祀るために山房が計画され、中止された造仏もあっただろうが、その数の多さに山房は複数造営されたというのが森本氏の推理である。確かに羂索堂は不空羂索観音像、「山堺四至図」の羂索堂の隣に描かれる千手堂は千手観音像、二月堂は十一面観音像を本尊にする。香山堂の前身の山房も当然、観音像が祀られたことになる。そればかりか、「山堺四至図」の広大な領域が観音霊場としての補陀落山に見立てられ、基王の冥福を祈る霊場にしようとする意図が読み取れるという。スケールの大きな魅力ある構想だと思う。

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東大寺山堺四支図(模写)上の赤丸内が羂索堂、下の赤丸内が香山堂

参考 『平城京一三〇〇年「全検証」』渡辺晃宏 柏書房2010 『東大寺のなりたち』森本公誠 岩波書店2018 『日本の古寺美術16「新薬師寺稲木吉一 保育社

奈良歴史漫歩No48春日奥山の香山堂

092 元興寺五重小塔は国分寺の塔のひな形か?(元興寺⑤)

 元興寺の五重小塔は奈良時代後期に製作され、この時期の建築様式を伝える貴重な建造物であり、国宝に指定される。しかし、謎に満ちた塔であり、文献での記録がなく、元はどこにあったのか、何を目的に製作されたのか不明である。

 現在は総合収蔵庫の法輪館に保管される。江戸時代には本堂外陣南側に床を抜いて安置されていたという。高さが5.5mあるため、収容するには天井にかからないように地面に置かなければならなかった。だから本堂にはもともとなかった。

 元興寺ゆかりの寺として小塔院がある。今は仮堂が建つだけで、中世には吉祥天信仰で栄えたという。小塔院という名称は創建時からのものである。この名称から連想して五重小塔がここにあったという推理が生まれるのは自然だろう。しかし、1140年に著された大江親通の『七大寺巡礼私記』には、小塔院には光明皇后御願の八万四千基小塔を祀っていると記される。『七大寺巡礼私記』は平安時代末の奈良を知ることのできる一次資料で信頼性が高い。五重小塔はこの時、小塔院にはなかったのだろう。他の時代においても小塔院と五重小塔を結びつける記録はまったくない。

 海龍王寺には奈良時代前期の様式を示す五重小塔(総高4.1m)がある。箱を五段に積み上げて組物を張り付け、内部は省略されている。初重は扉や壁がない空間となり、法華経が納まる。塔は最初から礼拝の対象であり、塔が安置された西金堂の本尊であった。

 元興寺の五重小塔は実際の五重塔の建築構造を細部まで忠実に再現する。そのため幕末に焼失した元興寺五重大塔のひな形と考える説もあったが、大塔の礎石から計測した柱間間隔や江戸時代に描かれた図面から五重小塔とは異なることがわかり、この説も否定された。

 五重小塔の平面は方三間で初重柱間が1.1尺等間とする。上重の逓減は各柱間1寸ずつで、二重が1尺×3間、重が9寸×3間、四重が8寸×3間、五重が7寸×3間と明確な平面計画を持つ。各部材は柱を除き初重から五重まで規格化された一定の寸法を持ち、柱長の逓減も5分ずつと単純である。相輪が全体の5分の2と大きいことを除けば標準型とされる。「小塔は部材寸法や構法がそのまま10倍すると直ちに実際の建物が作れるようになっており、しかも柱間寸法以下各部分の規格がきわめて単純で工作の簡便化に最大限の考慮が払われている」(鈴木嘉吉)という。(この段、箱崎和久氏の「七重塔の構造と意匠」を参照)

 奈良時代に創建された各地の国分寺塔跡の発掘調査から、国分寺には3間等間であった塔の多いことが分かっている。時代を通して3間等間になる塔は非常に珍しく、国分寺の塔の大きな特徴だ。これらのことから、五重小塔が国分寺の塔のひな形であった可能性が浮上している。小塔は簡単に分解できて組み立てやすいということもこの説を補強する。

 相輪の規格外の大きさはどう考えるべきか。狭川真一氏は、相輪は鋳型に金属を流し込んで作られたことに着目する。鋳型は粘土であるが、乾燥するときに収縮する。そのため木製の原型を大きめにしたのではないかとする。原型の8割ほどのサイズが標準型となる。

 五重小塔=国分寺塔モデル説は説得力がある。小塔はいつからか礼拝の対象になったのだろうけれど、もともと何処にあり、なぜ元興寺に伝わったのかは依然として謎である。

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元興寺五重小塔

参考:箱崎和久「「七重塔の構造と意匠」(『国分寺の創建 組織・技術編』(吉川弘文館)所収) 鈴木嘉吉「元興寺極楽坊五重小塔」(『大和古寺大観第3巻』(岩波書店)所収) 狭川真一講演「元興寺五重小塔の性格」平成30年7月11日

091 世界遺産の元興寺 (元興寺④)

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 元興寺(極楽坊)の本堂(国宝)と禅室(国宝)は、東室僧房南階大房をもとにして鎌倉時代に大きく改築された。本堂(極楽堂)は東を正面として、桁行き、梁間ともに6間、正面に1間の通庇がつく本瓦葺きの建物。寄棟造妻入りである。東が正面なのは極楽浄土が西方にあり東から望むという形をとるためだ。寛元2年(1244)に東室僧房南階大房の東端3房分を切り離し現在の形になった。

 堂内中央は内陣となり須弥壇が置かれ、本尊の智光曼荼羅を納める厨子を安置する。この場こそ智光が居住した一房であるとされる。この周囲を広い外陣がとりまき、念仏講の参加者が集った。床下には僧房時代の礎石が並ぶ。

 禅室は僧房の姿を伝える。桁行4間、梁間4間で平屋の切妻造、本瓦葺き。鎌倉時代初期に改築され、大仏樣様式が取り入れられた建物になった。飛鳥時代奈良時代の部材も一部利用されている。東室僧房南階大房は12坊あったが、禅室は4房分の大きさである。現状は東側3房分を開け放たれた大きな部屋にしているが、僧房時代は1房毎に間仕切りを設けて僧侶の居住に使用した。その時は、一房の中央に板扉が開き左右は連子窓となる。床は板敷きで、室内は南・中・北と大きく3室に区切られ、北側はさらに3室に区分されたと考えられる。禅室北西隅のスペースに僧房室内の一部が復元されている。

 禅室屋根の南側東寄りと本堂屋根の西側の瓦は、赤みがかったり濃淡のある灰色であったりし、丸瓦は行基葺きとなる。これは、丸瓦の重なる部分がへこんでいないため瓦の厚みが段として見える葺き方である。飛鳥時代創建期や奈良時代移建期の葺き方だという。ちなみに行基とはとくに関係ない。赤い瓦が飛鳥時代の瓦といわれる。

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行基葺きの丸瓦

 東門(重文)は元興寺(極楽坊)の正門、1間1戸の四脚門、本瓦葺き。応永年間(1394~1428)に東大寺西南院から移築した。

 小子房はもと僧房東室南階小子房であった建物を改造し移築した。学僧の居住施設が大房であるのに対し小子房はその従弟が居住した施設だといわれる。庫裏として江戸時代に使用された。現在地には昭和40年(1965)に移築された。

 五重小塔(国宝)は総合収蔵庫に保管される。高さ5.5mを測り、組み物や瓦、欄干、内部構造まで精密に表現された奈良時代末の製作である。本堂外陣南側に床を破って安置されていたという。しかし本来はどこにあったか不明である。小塔院にあったことが有力視されるが、その証拠はないらしい。元興寺五重大塔のひな形と考えられたが、礎石から計測した柱間間隔や江戸時代の図面から五重小塔とはまったく異なることがわかった。

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五重小塔

 元興寺の仏像の主なものを紹介する。これらは総合収蔵庫の1階に安置される。

 阿弥陀如来座像は高さ157.3cmで半丈六のサイズ、かつては本堂の本尊として厨子に納まっていた。しかしもとは禅定院(後に大乗院となる)多宝塔の本尊であり、文明15年(1483)に多宝塔が火災に遭って極楽堂へ移された。頭と体をケヤキ一木から作り、膝から前の部分は別材からつくり接ぎ合わせる。全体的にどっしりした風格を醸す。衣のひだや体のしわは木彫の素地に塑土と呼ばれる土を盛りつける。両手は来迎印を結ぶ。平安時代中頃(10世紀末)の製作と推定される。

 法興寺聖徳太子が創建に関わったという伝承があり、元興寺には強い聖徳太子信仰があった。室町時代の初めには太子堂が建てられた。太子堂は早くに退転したが、南無仏聖徳太子像(県指定文化財)と聖徳太子十六歳孝養像(重文)が伝わる。南無仏像は太子が2歳の時、東に向かって合掌し「南無仏」と唱えたという伝説を木像にしたものだ。X線CT検査で像の内部にある五輪塔の中にも紙束や数粒の舎利が詰めこまれていることがわかった。

 十六歳孝養像は、十六歳の太子が父用明天皇の病気回復を薬師如来に祈る姿を刻む。解体修理の際に胎内から多数の納入品が見つかった。文永5年(1268)に眼清という僧侶がこの像を造る代表になったことを記した『眼清願文(がんせいがんもん)』、この像を造った仏師や画師の名前を記した『木仏所画所等列名(きぶつしょえどころとうれつめい)』、像を寄付した人々の名前を記した『結縁人名帳』、太子の姿を版画にした『聖徳太子摺物』、寄付した人に配られた『太子千杯供養札(たいしせんぱいくようふだ)』などである。これらの資料から、この像を造るにあたって5000人に及ぶ人々が協力したことがわかった。

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聖徳太子十六歳孝養像

 弘法大師座像(重文)は寄来造で、大師450年忌にあたる弘安7年(1284)頃に造られた。像内から多くの納入品が見つかり、五色の舎利、愛染明王印仏、康永4年(1345)の年号を持つ『結縁交名状(けつえんきょうみょうじょう)』などであるが、これらは後の修理で入れられた可能性が高いという。

 永正12年(1515)の「極楽坊記」には、元興寺禅室にある「春日影向の間」に毎日春日明神が鹿に乗ってあらわれ、智光曼荼羅と舎利を護ったので、弘法大師が明神を勧請して春日曼荼羅を描き、あわせて自らの像を造ったと記される。春日信仰と弘法太子信仰も元興寺に息づいていたことがわかる。

 

 元興寺極楽坊は南都浄土教の中心となるとともに聖徳太子信仰や弘法大師信仰、地蔵信仰、春日信仰、陰陽道などさまざまな庶民信仰が流れ込む。また鎌倉時代の大和の仏教に大きな影響を与えた西大寺叡尊の布教活動は極楽坊にも及んだ。叡尊の流れを汲む僧侶たちが入寺して戒律を重視する律院としての面目を整えていく。元興寺(極楽坊)が現在、真言律宗であるのはこういう事情による。

 庶民信仰の聖地として極楽坊がもっとも栄えたのは15、6世紀であった。江戸時代に入って極楽坊は庶民の寺としての活気を失う。納骨容器は寛永年間(1624~44)を境に姿を消し、境内の石塔は享保年間(1716~36)以後は急減する。徳川幕府から100石の領地を与えられる御朱印寺となり、経済的には一定の安定を得たが、庶民との直接の接点がなくなったのである。地域の民衆も寺壇制度が整備されるにしたがって元興寺周辺の寺院と結びつくようになる。

 明治維新となり、元興寺は寺領を失う。経済的に立ちゆかなくなった寺は無住となり、西大寺の預かりとなる。明治初年に境内に小学校が創設され本堂と禅室は校舎に変わる。駐車場に「飛鳥小学校発祥の地」の石碑が立つのは、これを指す。この後、真宗大谷派の説教所として貸し出され、一時は女学校も開校した。

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境内にある「飛鳥小学校発祥の地」碑

 50年間の賃貸契約が終了した時、「狐狸の住み処」と呼ばれるほど、寺は荒れ果て建物は崩壊寸前だった。昭和18年(1943)に住職に就任した辻村泰園師は、禅室の解体修理に取りかかる。敗戦の混乱期の中断をはさんで昭和26年に終了、続いて本堂、東門の解体修理、境内の整備・防災工事も行われる。この時の修理や工事で発見された多量の信仰資料を整理・調査するため、昭和42年(1967)に元興寺仏教民族資料研究所が設立された。のちに財団法人元興寺文化財研究所と改称され、人文、考古学、保存科学にまたがる総合的な文化財の研究機関として発展していく。

 この間、寺の年中行事も復興され、活発な宗教活動は庶民信仰の聖地であった伝統を取り戻しつつある。平成10年(1998)には「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録された。奈良町のランドマークとしてシンボルとしてその存在感はますます増している。

参考 岩城隆利『元興寺の歴史』吉川弘文館 野口武彦・辻村泰範『古寺巡礼奈良 元興寺淡交社 太田博太郎他『大和古寺大観3巻』岩波書店 元興寺編『わかる!元興寺』ナカニシヤ出版 元興寺ホームページ